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鎌倉近郊を歩く25 鎌倉郡尺度郷の本郷

2012-12-23 08:20:03 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 25
          鎌倉郡尺度郷の本郷

                        写真はクリックして見てください。


 本郷という地名は各地に残っていますが、旧鎌倉郡本郷村・現横浜市栄区公田(く
でん)町の辺りの風景は、今も昔の名残をとどめているような気がします。

歩く:JR大船駅東口(上り方面に向かって右側)、バス(金沢八景行き、みどりが丘
行き)で本郷下車。 

 本郷は、いたち川といたち川支流に挟まれています。東と南北の三方に低い山を控
えて、おだやかな日差しをあびている風景を眺めていると、いま本郷とよばれるこの
辺に尺度(さかど)郷の村役場が在ったのだなあと、古代がしのばれます。

 いたち川支流の横坂道を登っていくと、本郷ふじやま公園があります。旧小岩井家
の民家が移築・復元されています。広い庭と古い民家のたたずまいが調和していて、
江戸・明治初期、電灯が無かった時代の豪農の生活がしのばれます。管理事務所に声を
かけると、案内して説明してもらえます。

 すぐ北側に八幡神社がおあします。鍛冶ケ谷町の守り神の鎮守さまを祀っている神
社だそうで、境内には多くの庚申(こうしん)塔があります。一番古いのが寛文8年
(1668)の塔です。鍛冶ヶ谷には、鎌倉の寺大工や鍛冶師が住んでいたといわれます。

 ふじやまから、12月や1月の晴れて寒い日は空気が澄んで富士山がきれいに見えま
す。頂上に富士講の記念碑があります。この山は昔から「ふじやま」と呼ばれて、毎
年ふじ山祭りがおこなわれていました。

 いたち川支流にそって道を下るとすぐに、慶長寺があります。徳川家康からもらっ
た茶碗を寺宝として今に伝えています。家康は鷹狩りを好み、この辺りを歩き回った
ときのどがかわき、住職の普古に水を頼みました。ふじやまの湧き清水をくみ差し出
すと、「うまい水だ。もう一杯くれ」と、たいへん喜んで飲みました。お礼に茶碗を贈
ったのだそうです。

 奈良時代、大宝律令(701)ができて、「国郡里(郷)」の制が敷かれました。相模国鎌
倉郡には尺度郷のほか、7郷がありました。土地は大化の改新で国有となり、男に2
反、女に3分の2反が貸し与えられました。公田についていろいろ解釈がありますが、
役所諸経費をまかなうための公の耕作地であったという説明がわかりやすい。

 平安時代、律令制度がくずれてほとんどの国有地は私有地(荘園)となりました。
この辺りは山内(やまのうち)荘となり、首藤(すどう)氏が支配しました。首馬(し
ゅめ 朝廷の馬の管理長)の藤原が短く首藤とよばれ、山内首藤からたんに山内を名
乗るようになりました。平安時代末には鎌倉党という武士団に属していました。

 源頼朝の乳母が山内尼で、山内首藤経俊の母でした。乳兄弟は同じ家で育てられ、
実の兄弟以上に睦み合いました。伊豆に流された頼朝が平家打倒の旗揚げをするとき
使者をつかわすと、経俊は「あの富士山と背比べする気か」とののしって、追い返し
ました。あまつさえ、石橋山合戦では頼朝を狙って矢を放ちました。

 頼朝が鎌倉に入り、経俊は捕まって斬罪が宣告されました。山内尼は泣き泣き経俊
の命乞いをしました。頼朝は経俊の矢が突き刺さった鎧を山内尼の前に出しました。
吾妻鏡治承4年(1180)11月20日の条に「尼重ねて子細を申す能はず、双涙を拭ひて
退出す」とあります。頼朝は「刑法遁れ難い」が「老婆の悲嘆」に許しました。

 経俊は山内荘を没収され、西国に移されました。戦国時代、山内一豊は妻・千代の
へそくり10両で名馬を買い求め、織田信長の目にとまりました。羽柴秀吉の指揮下に
入って活躍し、徳川家康から土佐25万石をもらって国持大名に出世しました。司馬遼
太郎の名作、「功名が辻」や「酔って候」に山内家のことがおもしろく書かれています。
尼の泣訴から、明治維新を迎えました。

 鎌倉近辺で富士山がよく見えるところといえば、「ふじやま」です。山内首藤の屋敷
の一つが、「ふじやま」にあったのではないか、という気がしてなりません。古老の話
では、昔、いたち川に川魚が多くいて、手取りしたのだそうです。子供時代の頼朝も
経俊も山内尼に見守られながら、いたち川で川魚を追っていたに違いありません。

 いたち川支流は天神橋の辺りで本流と合流します。川に沿って下り警察学校の前か
ら少し北へ歩くとJR本郷駅です。



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