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鎌倉の近国を歩く26 小田原城の大堀切

2018-02-08 07:05:20 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 26
            小田原城の大堀切



 雑誌で小田原城の大堀切の写真を見たことを思いだして訪ねてみました。

歩く:JR小田原駅 小田原城 城の西側の道を北へ JR陸橋を渡る さらに北へ  

 威風堂々とした小田原城天守閣を眺めた後、西側の道へ出て北に歩きました。JR陸橋
を渡って緩やかな坂道を登って行くと、右側に大堀切の入り口がありました。

 小田原市の説明看板に「現在残っている小田原城の外郭・土塁の中でも、小田原北条時代
の姿を最もよく留めているところである」とありました。堀切の入り口は歩道とつながっ
ていて、散歩の人たちと行き交いました。

 細道の両側は急勾配で、首を傾けて見上げる高さです。歩いている人が小さくみえました。
築城された4百年昔は、もっと高くて急勾配だったのだろと思いました。

 豊臣秀吉は城攻めが得意で因幡・鳥取城の干殺しや備中・高松城の水攻めがよく知られ
ています。相模・小田原城をどんな手段で開城させたのか調べてみました。

 天正18年(1590)豊臣方は伊豆中山城を落とすと、4月相模に進軍して小田原城を囲み
ました。城に籠もった北条勢3万5千人に対して、包囲した豊臣勢は23万人でした。

 小田原城包囲から開城まで3カ月余、激しい攻防戦が繰り広げられたのかと思っていたら、
ほとんど戦闘がなかったということです。城内に食料が尽きたという記事もみつかりません。

 最近の説は、「惣無事令」(そうぶじれい)の平和攻勢だそうです。秀吉は関西と九州の
戦国大名たちを武力で降すと、惣無事令をだして平和解決を呼びかけました。紛争の解決
を武力でなく裁判によって裁定し解決するとして、戦争の即時停止を求めました。「なお
も戦いを継続すれば私戦とみなし、裁定して討伐する」と伝えました。

 最上、相馬、岩城などは戦いをやめ、秀吉のもとに伺候して臣従しました。出羽では安東
と南部が争っていましたが、戦いをやめました。伊達正宗は芦名と佐竹に大勝し南奥羽を
制覇しましたが、6月9日秀吉の前に白装束で現れて跪き許されました。

 籠城側に情報が伝わり、開城決定まで連日会議が開かれました。「小田原評定」という
言葉がよく知られています。国語辞典に「豊臣秀吉が小田原城を攻囲した時、小田原城中
で北条氏直と腹心らの評定が長びいて決しなかったことから、長びいてなかなか決定しな
い相談。小田原談合ともいう」とあります。

 7月5日北条は開城して、早雲から五代氏直まで約百年の歴史を閉じました。
氏政(4代)・氏照(氏直の弟)と重臣の松田憲秀・大道寺政繁の4人が切腹させられました。
氏直は家康の娘婿で、助命されて高野山に追放されました。

 東海道線で小田原を通る度に、そういうことだったのかと、車窓から城を眺めます。



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