Yokusia の問はず語り

写真担当: Olympus E-400 / Panasonic FZ5

ピレネーにて その15 玄武岩群

2008-01-30 | Weblog

以前、Villefrancheの名所を取り上げた際、大鍾乳洞をご紹介しましたが、今回、ご紹介するのは、
巨大な玄武岩群。前者が地下の驚異なら、後者は地上の驚異とでもいうところでしょうか。



訪れたのは、旅行の最終日に当たる1月3日。お世話になったファーブルさんに別れを告げ、8時55分
Prades発のバスで、玄武岩群のあるIlle sur Têtへ向かいました。10日間過ごしたRiaの街を離れる
のは感慨深かったです。

心配だった荷物は、丸一日、駅の構内に置かせてもらうことができたので、ほとんど手ぶらで観光を
楽しめました。パリだとすぐお金をとられるけど、ここは無料の上、交渉中のトラブルもなし。
田舎の駅はいいですね。


↑ Ille-sur-Têt駅構内。カタロニアの民族衣装を来た少女の絵が架けられています。


↑ こちらは男の子。


ずっと好天に恵まれてきた今回の旅でしたが、最終日はさすがにちょっと愚図りがち。
明け方からどんより曇り、空の色は真っ白。手始めに街の中を散策することにしたのですが・・・。


↑ 
物理学者、アンペールの名を冠した通り。
彼の名にちなんでつけられた電流の単位、「アンペア」は英語読みだったんですね。


教会による貧民救済の場として使われていた聖ジャック救済院(Hospice Saint Jacques)。
今は、Hospici d'Illa(カタロニア語ですね)と呼ばれ、内部は宝物殿になっています。
残念ながら、この時期は閉館。


↑ Hospici d'Illa


気を取り直し、次に向かった中世の古い教会は、工事中で入場禁止。泣きっ面に蜂とはこのこと
でしょう。加えて、雨も降り出し、仕方ないので、12時半に予約してあったレストランへ早めに行く
ことにしました。閉まっていて当然の時間に入れてくれた店長さんに感謝。


↑ ギリシャ風の前菜。手前はぶどうの葉に包んだお米、左端はアーティチョーク


さて、ここから、食べ物編の最終回です。
今回、行ったのは「薔薇色の人生」(La vie en rose)というレストラン。
もちろん、ピアフの有名な歌から取られたものです。中にはなんと蓄音機が置いてあって、往年の
大ピアニスト、パデレフスキのレコードが載せられていました。もちろん今では、単なる室内装飾に
過ぎないのですが・・・。


↑ 南仏名物の鴨の脂漬


正直、最初に見たときは、メニューもいまいちだし、前菜はセルフサービスとあまりいい印象では
なかったのですが、実際、食べてみると、鴨は熱々、前菜も、よく冷えている上、酸味が適度に
効いていて、なかなか美味でした。ワインつきの日替わりセットが、11.5ユーロと言うのも破格の
値段です。


↑ デザートのケーキ



閑話休題・・・本題の玄武岩群に入ります。ひとまず、見ていただいた方が早いですね。











こんな具合に、巨大でへんてこりんな岩柱や岩壁があちこちに立ってます。
嵐が来そうだったので不安でしたが、幸い、雨模様になる直前に、見学を終えることができました。
今だから言えることとは言え、凄みのある青灰色の空を見られたのはよかったかな・・・なんて。

夕飯まで間があったので、お次は、古い修道院を見に行くことに・・・。
天気も崩れてきたし、正直、あまり気が進まなかったのですが、その修道院がCasesnovesだと知り、
俄然、行く気になりました。と言うのも、絵葉書で、ここの修道院にあるというフレスコ画の写真を見た
からで、それが見たくて、小雨の振る中を必死で歩いたのですが・・・


↑ 見られたのは建物だけ。扉はしっかりと閉められていて、びくともしません。



それもそのはず。中のフレスコ画は、すでに Hospici d'Illaに保管された後だったんです。
考えれば、価値あるフレスコ画をそのままにしておくはずがないですよね。
お陰でまったくの無駄足でした。



天気はその後も悪くなる一方。
大急ぎで街の中央に戻り、お昼にお世話になったレストランに飛び込みました。時間は6時前。
さすがに店長さんは渋い顔でしたが、「7時までは注文しない」事を条件に中へ入れてくれました。
下の写真が、今回、最後の食事で食べたクレープです。




南仏カタロニア紀行の記事はこれでお終い。長い間、お付き合いありがとうございました。

ピレネーにて その14 小村巡り

2008-01-28 | Weblog
↑ カニグーを背景に日の光を受けて輝くEusの教会


「フランスの美しい村」に指定された村々、Evol と Villefranche はすでにご紹介したので、今回は、
Eus をご紹介しましょう。この村は、Prades近郊の小高い丘上にあり、Evolとよく似た愛らしい家々
が建ち並んでいます。ちなみにこの村、「ユー」でも「エユス」でもなく、「エウス」と読むそう。素直に
ローマ字読みすれば十分なのですが、フランス人の方がかえって戸惑うようです。




訪れたのは12月29日。Eus以外の小村もいくつか周りましたが、土曜日だったせいで、ハンターの
姿がちらほら。蛍光色の服を着ているので、こちらからはすぐわかりますが、問題は、ハンターの側
から私たちの姿が見えないこと。それでなくても、「ズドン、ズドン」と銃声こだまする中を歩くのは、
決して気持ちのいいものではありません。


↑ 日時計つきの鐘楼


↑ ここにもサボテンが・・・。ちなみに、フランス語名はFiguier de Barbarieというそうです。


↑ どの家も花が咲き乱れていますね。


↑ こんな赤い実も・・・


↑ ミモザの木。 これまで、ミモザサラダしか知りませんでした(汗)


この後、12世紀建立の小修道院を見にMarcevolへ向かったのですが、その時、通り過ぎたのが
Arboussol の村。何の変哲もないところですが、カニグーがバックだとさすがに見栄えがします。


↑ 右端に見えるのがArboussol


ようやくMarcevolに着いた時は、すでに日が暮れかかっていました。


↑ Marcevolの小修道院(Prieuré de Marcevol)これは正面から見たところ


↑ 内部はこんな感じ。フレスコがあるそうですが、真っ暗で何も見えませんでした。


最終目的地の Vinça まで徒歩で行くことになれば、予定していた5時台の電車に乗るのはとうてい
無理。それでも、最悪の場合、8時台の終電があるということだったので、ヒッチハイクで神経をすり
減らすよりはずっといい気がしたのですが・・・。


↑ 横から見るとまた雰囲気が変わりますね。


とりあえず歩き出したものの、一歩足を踏み出したとたんに「ズドン!」という銃声。
「これじゃあ、生きて帰れないかもしれない。野宿する方がましだよ」と情けない声を出す相棒。
「男の癖に意気地のない」と、内心あきれましたが、ヒッチハイクに応じてくれる人が見つかった
ので、無事、Vinçaまで辿り着くことができました。お陰で予定していた電車にも乗れたし、まあ、
よかったのかな。


↑ Vinçaの駅・・・と言っても、駅舎は閉鎖され、個人の邸宅(!)になっています。


翌日、地方紙を見たところ、相棒の心配もあながち杞憂ではなかったことが判明。
猟に関する記事が二件、載っていたのですが、見出しは、「歩行中、木に当たった猟銃が火を噴き、
傍らの恋人が死亡」「獲物を狙った銃弾が跳ね返り、猟師の心臓に命中」 いやはや、他人事とは
思えませんでした。


ピレネーにて その13 セラボンヌ小修道院

2008-01-27 | Weblog

日にちがあいてしまいましたが、修道院特集(?)の最後はセラボンヌ修道院です。
フランス語の名称は、Prieuré de Serrabone。これまでご紹介したのは、どれも「大修道院」(Abbaye)
でしたが、ここは「小修道院」(Prieuré)になります。

訪れたのは1月の2日。目ぼしい場所は見終わり、これからどうしようか迷っていた矢先のことでした。
見所自体はたくさんあっても、交通の便がいいところとなると、どうしても限られてくるんですよね。
この修道院もそうで、ヒッチハイクのお世話にならなければ、とても行けないような場所。


↑ Bouleternèreで見た畑。下からパセリ、サニーレタス、桃・・・


なぜここを選んだかと言うと、聖マルタンのシスターの話にこの修道院のことが出てきたから。
ツアー中、次から次へと質問を浴びせていた男性がひとりいたのだけど、その彼がフレスコの
ことを訪ねた際、シスターが、「それなら、セラボンヌにも貴重なフレスコがありますよ。ここと
同じで、ほんの一部しか残っていないのだけど・・・」と話していたのだそう。(相棒談)


↑ Bouleternèreの教会。この地方は本当に日時計が多いです。


最初は、修道院から比較的近いIlleという街まで電車で行き、あとはヒッチハイクに頼るというかなり
無謀な計画をたてたのですが、電車に乗るつもりで駅に行く途中、バスステーションに停車中のバス
を見かけたので、いい方法があるのでは・・・と、運転手さんに聞いてみると、Ille よりも近い、修道院
最寄の村(と言っても、距離はかなりある)を通ると言うのです。

それで、急遽、予定を変え、そのバスに乗り込むことにしました。
降りたのはBouleternèreという名の鄙びた村。出発した時点ですでに10時近く。村に到着したのは、
11時をまわった頃だったでしょうか。この村もやはり、狭い急斜面の路地を家々がびっしりと取り囲む
スタイルでした。


↑ Bouleternèreの路地


続いて、一番の問題だったヒッチハイクですが、幸い、一台目の車が、すぐ私たちを拾ってくれました。
乗っていたのはロザンヌ出身のスイス人夫婦。山道らしく急カーブの連続でしたが、山に慣れている
スイス人なら安心です。この地方は、ヒッチハイクに快く応じてくれる人が多いので、助かりました。
修道院に至る最後の4キロは、通行禁止のため徒歩のみとガイドブックに書かれていたはずなのに、
修道院のまん前まで乗り入れることができたのも、うれしい誤算でしたね。


↑ セラボンヌ修道院


この修道院、一番古いのは教会の身廊で、1069年に建てられたそう。それ以外はすべて12世紀の
建築だそうです。1082年、アウグスト会の手に委ねられましたが、13世紀から15世紀にかけて内部
紛争が頻発したため、16世紀以降、ローマ教皇の手に帰したとか。どこにいても、争いの種は絶え
ないようです。


↑ 外から見た回廊


その後、その存在自体が忘れられ、再び見出されたのは、ようやく19世紀の初頭になってから。
前述の大修道院とは違い、今現在、宗教活動は行われていないようです。昔の修道院らしく、建物
の周りは小さなハーブ園になっていました。どの植物にも、ラテン語とフランス語で書かれた名札が
ついていたのに、書き留めておかなかったのが残念・・・。


↑ 紫色の「実」(?)をつけたサボテン


扉の両脇に柱頭があったので、さっそくカメラに収めたのですが、オリジナルはすでに破壊され、
今あるのは複製だけだとか。ガイドつきの聖マルタン大修道院とは違い、入場券さえ購入すれば、
院内を自由に見学することができます。




まず最初に目に入るのが回廊。
この日は、スイス人の夫婦と私たち以外、誰もいませんでした。寒い日でしたが、回廊は日当たりが
いいので、旦那さんが写真に没頭している間、奥さんはここで日向ぼっこをしていました。


↑ 回廊。外へも出られます。


↑ ここの柱頭は本物。


でも、この修道院の一番の見所は、12世紀に作られたと言う桃色大理石の楼台。大黒柱の2本の
角柱と10本の円柱が、上部でアーチ型に交わり、壁と頭注には見事な彫刻が施されています。




柱頭には、ライオン、鷲、グリフォンなどが彫られ、それぞれ、正面から睨み合って(!)いますが、
残念ながら、モチーフの意味についての記述はありませんでした。

反対側には小さな階段があり、ここを数段登って左側を向くと、正面にフレスコ画が見えます。
今はほんの一部だけ、輪郭がうっすらと見える程度ですが、昔はきっと、この壁一面に極彩色の
フレスコ画が描かれていたんでしょうね。


↑ 右端の階段を少し登ります。左端の壁にうっすら見えるフレスコの輪郭がわかるでしょうか。


↑ 聖ヨハネ像。上方にはキリスト像の痕跡も。


↑ こちらは別の一角にあったフレスコ画の跡。


行きに拾ってくれたスイス人の夫婦をわざとらしく待っているのも気が引けるので、帰りは歩くこと
にしました。行きとは違い、なだらかな下り坂ばかりだし、脇道のお陰で車を気にする必要もなし。
ただ、山道の場合、地図上に示された距離が役にたたないことが多いんですよね。

最初は、せいぜい2時間もあれば村に着くだろう、と高をくくっていたのですが、結局、3時間近く
かかりました。多少、寄り道したせいもあったかもしれませんが・・・。


↑ 寄り道の最たるものがうらぶれた廃屋巡り


うちの相棒には、洞穴と廃屋を見るといてもたってもいられないという習癖があって、このときも、
家を見つけるや否や、すごい勢いですっ飛んでいきました。「またか」とあきれながら、私はマイ
ペースで歩を進めたのですが・・・。フランスの田舎は、あちこちに打ち捨てられた廃屋があります
が、ここは電話線もあるし、窓は割れていますが、屋根は健在です。


↑ セラボンヌのハーブ園から・・・ちょっとセージに似ていますね。


中に入ると、家財が散乱したままでした。
10年前の日付が入ったメモ帳、ニーチェの本、ラルースの医学事典、ドイツ語の料理の本、書きかけ
の楽譜、古ぼけたドイツリートの譜面、ドイツの女友達(恋人?)にあてたらしい手紙・・・。この家の
住人は、ロマンチストで多感な青年だったようです。今頃、どうしているのだろう、なんて、つい思いを
馳せてしまいました。ファーブルさんに聞いたところ、この辺は、以前、羊飼いの集落があった場所で、
今は村自体がなくなってしまったのだそう。


↑ 松の一種でしょうか。


バスの時間までまだ間があったので、今年初のカフェ参りをしました。と言うのも、今年の頭から、
飲食店内の禁煙令が実施されたから。入ったのは、とある場末のカフェ。どうせ守ってないだろうと
思いつつ中に入ると、案の定、タバコのにおいが・・・。


↑ ドングリもありました。


中には、カウンターで酔いつぶれている客が二人、マスターとビリヤードに興じている男性がひとり、
入り口のそばでは、おじさんたちが数人、テーブルを囲み、カードを楽しんでいるというもう涙が出る
ほどクラシックなカフェです。ただ、よく見ると灰皿がない。客の一人がマスターに向かい、「親父さん、
例の禁煙令だけど・・・」と口を開くと、マスターが、「ま、そういうことだ。」それで終わり。入ったとき
感じた匂いは、これまで染み込んでいたタバコの残り香(?)だったようです。

おじさんは駄々をこねることもなく、「それじゃ、しょうがないな。」
フランス人って、もっと反骨精神旺盛な民族だと思ってたのに・・・。
どうやら、吸った方と吸わせたほうの両方に罰金が課されるというのがミソのようですね。
集団責任。日本の飲酒運転と同じです。


↑ 葉がボケボケですが、サントリナ(ワタスギギク)という名前だそうです。


レストランとカフェだけではなく、ディスコも禁煙になったので、ディスコの経営者は、「タバコの匂いが
デオドラント代わりになっていたのに」と嘆いてました。これまで、タバコで店内の汗臭さをごまかして
いたのだそう。(ラジオ談)

余談ですが、数日前、地元のカフェに入ったら、あれほどタバコの煙がもうもうと渦巻いていた店内が、
まるで換気したかのように、すっきり爽やかで仰天しました。


いつにもまして長大な記事になってしまったので、とりあえずこの辺で。

ピレネーにて その12 聖マルタン大修道院

2008-01-23 | Weblog
修道院特集(?)二つ目は、聖マルタン修道院。
フランス語での正式名称はAbbaye Saint-Martin-de-Canigouです。
Café du Centre のすぐ脇から出るバスでVernet-les-Bainsという街まで行き、そこから修道院まで
歩くことになりました。バスが目的地に着いたのは10時頃だったでしょうか。


↑上方から見た Vernet-les Bainsの街(村?)

bain(複 bains)というのは、フランス語で「浴場」のこと。だから、Bainsという名のついた地名は、日本
ならさしづめ、「~温泉」というところですね。この街はどうかわかりませんが、もともと東ピレネー近郊
は温泉が多い事で知られ、~Bainsという地名も、まったく根拠のないものではないようです。
とあるレストランでは、湯治が目的で来たという中年のカップルにも出会いました。


↑ もう少し拡大するとこんな感じ。

聖マルタン修道院はガイド付き。時間も決まっているので、聖ミシェル修道院のように自由に見学
するというわけにはいきません。ツアーは朝の11時、1時、3時、4時の4回だけ。 一般道路を経由
して行くのはさすがにつまらないので、山道経由で行くこと・・・。




手始めにまず、街を見ることにしたのですが、真っ先に目についたのが教会。
「カタロニア賛歌」でご紹介した、カタロニア語の入った日時計は、この教会の壁にあったものです。
この教会には中世風のお城がついているのですが、古いのは教会(12世紀)だけで、お城の部分
は、最近、復元されたもののよう。このお城は、現在、個人の所有であるため、一般公開はされて
ないそうです。私たちが行った時は、残念ながら、教会も閉まっていました。




聖マルタン修道院へ至る山道は、本格的な登山とまではいきませんが、かなり歩きがいのあるコース。
一ヶ所ですが、スリル満点の場所があって、正直、冷や冷やものでした。この状況で写真を撮る度胸は
なかったので、お見せできないのが残念。




雪がうっすらと積もった斜面で、危険を見越してか、岩壁にはロープが渡してあります。
これを両手で掴んでしっかりと体を支え、念のため、登山用ステッキで足元を安定させながら歩いた
のですが、これが意外に長い。何の安全対策も施されていない中途半端に危険な道より、ちゃんと
補強してあった分、よかったのかもしれませんが・・・。




寄り道ばかりしてたので、修道院がようやく見えてきた頃には、すでに3時55分。これじゃあ、最終回
にも間に合わないから、せいぜい周りだけ見て終わりだな・・・とこんな時だけ日本人の私は、すでに
諦めかけていたのだけど、相棒は慌てず騒がず、「あそこから撮ったらいいんじゃない」とさらに脇へ
入ろうとします。確かに理想的なアングルだったけど、焦りすぎて、シャッターを押す指さえ震える始末。

急ぎ足で、ようやく下に降りると、修道服姿のシスターが一人。
わらにもすがる気持ちで、彼女にツアーのことを聞くと、「ああ、それならそこでチケット買って待っていて
ちょうだい」と修道院の脇にある建物を指差すではありませんか。
この時にはもう、4時をまわっていました。



↑ 焦りながら大急ぎで撮った写真。幸いピントは合っていました。

実は、このシスターが、私たちのガイドさんだったんです。
10分ほど遅れ、他のメンバーが待っている出発点に着きましたが、そこはさすがフランス。
私たちよりさらにウワテがいました。その後に来た男性が、「いやぁ、実はまだ全員じゃないんですよ。
あと二人来るんですけど、どうしましょうかねぇ・・・」いやはや、あんなに焦っていた自分が馬鹿みたい
です。シスターは慣れているのか、「じゃあ、ゆっくり始めましょう。そう広いとこじゃないし、着き次第、
合流してくれればいいから・・・。」

この修道院、聖母、聖ミシェル、聖マルタンの三聖人に捧げられたものだそうで、まず、聖マルタン像
(聖ミシェル像だったかも)のある一角を見学してから、回廊へと案内されました。


↑ 回廊


「あくまでもひとつの解釈だけど・・・」と前置きをした後、シスターは、柱頭のモチーフについても
話してくれました。たくさんあるので、もちろん全部ではありませんでしたけど・・・。


↑ 
例えば、これは、悪魔の象徴である猿と犬の友情を妬み、嫉妬のシンボルである蛇が邪魔しようと
しているところ。日本と違い、こっちの犬と猿は仲が良いのでしょうか。



↑ 
これは「沈黙」を表す欧州版の「言わ猿」。猿じゃなくて馬ですけど(笑)




これは、ギリシャ神話の地獄(タルタロス)を下敷きにした地獄の風景。
目前の餌に舌が届かず苦しむ犬の姿が見えます。




これはちょっとうろ覚えなのですが・・・。
ライオンの前足に挟まれた人の顔が見えるでしょうか。
実は裏面にもうひとつ顔があって、一方は笑顔、一方は渋面を作っています。
ちなみに写真に写ってるのは笑顔の方。これは、ライオンの解釈に二種類あることからきていて、
ライオンは、一方では、「権力」(だったかな?とにかく人間に苦しみを与える概念)の象徴であり、
一方ではキリストの象徴でもあることから、喜びと苦しみの両方を与えるものとして、二つの表情
をもつ人面が彫られているというような話だったと思います。




これは当時の葬儀の様子を表しているそう。
棺の前後で支えている小さな人物は子供で、中世には、学校教育はすべて修道院で行われたため、
つまり、教会が経営する学校しかなかったため、在学中の子供も葬儀の手伝いに引っ張り出された
というような話でした。でも、中世絵画って、重要な人ほど大きく描かれるものだし、子供じゃなくて、
単に重要度の低い人物のようにも見えるのですが・・・。


ガイドはフランス語のみですが、チケット売り場で各国語のパンフレットが配布されています。
カタロニア語はもちろんのこと、欧州言語はかなり揃っていましたが、残念ながら、日本語はなし。
英語版にしても、記載されているのはほんの概要のみで、ポーランド語版は、英語版より省略が
多かったです。


↑ 中庭


Wikipediaによれば、ここの教会がElneの司教に奉納されたのが1009年の11月10日ということなので、
聖ミシェル修道院とほぼ同時代のものですね。ちなみに、当時、聖ミシェル修道院の神父は、ここの
司教と兄弟だったとか・・・。


↑ クリプト。ギリシャ風のエンタシスが見えますね。


↑ ローマの神殿にあったらしい柱の周囲が補強されています。


この修道院には、聖ゴデリックの聖遺物(本物かどうかは?ですが)も保管されています。
聖ゴデリックと言うのは、この地方でしか知られていないローカル聖人で、なんでも、雨乞い専用の
聖人なのだそう。この辺は、いかにも南国らしいですね。正確には、この修道院と、PradesやRia の
あるRoussillon地方、海に近いPerpignonを守る守護聖人なのだとか。Pradesにも、聖ゴデリックを
祭った聖廟がありました。

「子供ができたら、ゴデリックという名前もオリジナルでいいかも・・・」と相棒に言ったら、「そんな
名前つけると、行事で雨が降るたびにいじめられるから、やめた方がいい。」(笑)



↑ これはお御堂。ここの柱も古そうです。


↑ 譜面台にはグレゴリアン聖歌の楽譜が・・・。こんな古い譜がいまだに使われているんですね。


一言、付け加えておくと、この修道院、現在に至るまで、さまざまな辛酸を舐めてきたようです。
過酷な立地条件のせいもあって、間もなく衰退し、12世紀以降は、Audeにある Lagrasse 修道院の
管轄下に置かれていたとか。1428年の大地震でかなりの痛手を蒙り、建物の大部分が破損。

1782年以降は、ルイ16世の庇護下に置かれましたが、王の処刑後、前世紀初頭まで、ずっと閉鎖
されていたそう。19世紀に活躍した、この地方出身の大詩人、ポール・ヴァレリーが、自作の中で、
この修道院の荒廃ぶりを嘆いたお陰で、再び日の目を見ることになったという話を聞いた気がするの
ですが、かなりうろ覚え。現在は、修道士、修道女の他に、ここでの信仰生活を望む共同体の人々
(俗界に身を置きつつ、信仰に生きる人々)が共同生活を営んでいるそうです。

ピレネーにて その11 聖ミシェル大修道院

2008-01-22 | Weblog
↑ 道すがら見たChirachの古い教会。


このところ、雨ばかりで、外に出る気力が失せているので、ブログばかり進みます。
今回の旅では、この地方の主要な修道院を三ヶ所ほど周ったのですが、今回、ご紹介するのは、
RIAの街から徒歩で一時間半くらい(だったと思う)の距離にある、聖ミシェル教会。

フランス語の正式名称は、Abbaye Saint-Michel de Cuxa。
Cuxa は、いまいち読み方に自信がないのですが、地元の人の発音を小耳に挟んだ感じでは、
「クジャ」と読むようですね。


↑ 土台は974年、鐘楼とクリプトは11世紀、それ以外は12世紀の建立。


この修道院を訪れたのはクリスマスの日。
その前日、イヴの深夜ミサについて聞いた際、ファーブルさんが薦めてくれたのがここだったのです
が、例の生誕劇で、十分、満足してしまったので、翌日、ゆっくり訪問することになりました。

ここは、ミサが朝の11時、見学は午後の2時以降。
それで、せっかくだからと、朝のミサに顔を出し、その後、近場を少し散歩して、から、午後、修道院
に再び舞い戻ることに・・・。


↑ この辺りは、ほんの少し足を伸ばすだけで、古い時代の廃墟に出会います。


↑ この近くの小村、Taurinia の語源は「雄牛」。 古い教会の鐘楼にまで


↑ こんな彫刻が・・・


↑ 通りのプレートにも牛がいます。(カタロニア語で「教会通り」(?))


この辺は桃の産地で、あちこちに桃畑があるのですが、ここもそうで、修道院の周りに、ぎっしりと
桃の木(苗?)が植えられています。中世以来、ヨーロッパの修道院は、新鮮な食材、お酒、薬草
の宝庫。ここにも秘蔵の桃リキュールとかがありそうですね。

入り口でCDを売っていたので、カタロニア語のクリスマスソングがはいったものを買ったのですが、
ここにいたおじさん(修道士さん?)も、イヴの名残か、ほんの少しだけ、お酒の匂いが・・・。


↑ 修道院の前方に広がる赤味がかった部分が桃畑


正直、パリでは、街中に鳴っている「プチ・パパ・ノエル」と「ジングルベル」にうんざりしていたので、
ミサではこの地特有のクリスマス聖歌が聞けるかなあと思ったのですが、さすが歴史のある修道院
だけあって、ラテン語のグレゴリアン聖歌が中心でした。




ミサは南仏方言とカタロニア語。
これは面白かったです。カタロニア語がフランス語と違うのは当たり前だけど、南仏方言とパリ近郊
のフランス語もかなり違っていてびっくり。

例を挙げると、Matin(朝)が「マテン」(北方では「マタン」)、Pain(パン)が「ペン」(北では「パン」)
という具合で、一番のカルチャーショックはMaintenant(今)と言う言葉。こっちでは、「マントゥノン」
に近い発音ですが、南仏方言では「メンテナン」。ちなみに、パリ付近で話されているフランス語は、
鼻音や微妙な母音が多いせいで、カタカナにするとかなり無理があるのですが、南仏のフランス語
なら、まったく問題なし。日本人にはこっちの方が楽かもしれません。

南仏でフランス語を学んだ外国人が、何も知らないまま北に出ると、私とは逆の意味でカルチャー
ショックを受けるかもしれませんね。お陰でようやく、フランス語の綴りが表音表記ではなく、歴史的
表記である理由がわかった気がしました。




ここから、肝硬変・・・じゃなくて、観光編に入ります。

まずは教会から・・・
ちなみに、974年に建立された土台の部分は、ローマン様式以前の建造物として、かなり貴重なもの
なのだそう。ちなみに、11-12世紀に建てられた部分は、ローマン様式初期のものとして分類されます。
鐘楼の部分には、ローマン様式の特徴であるアーチ型の小窓も。


↑ お御堂にあった「オリーブ山のキリスト」(15世紀)

有名なオリーブ山のシーンが題材にとられています。眠りこけている弟子だけでなく、啓示を受ける
キリストさえ、どことなく人間くさいところが、いかにもルネッサンスらしいですね。



↑ こちらはミサ用の台。

普通、この場所は観光客入場(?)禁止なのだけど、この教会は例外のようで、ガイドブックの
観光スポットにもしっかりとり上げられていました。さすがに写真を撮るのは気が引けたけど・・・
(と書きつつも、しっかり撮っている私)

柱の上に乗っている板の部分、フランス革命時に売り払われ、一時、一般家屋で、ベランダの床
として使われていたそうです。修道院内の資料館に当時の写真が貼ってありました。私が「民主」
革命と言われるものに心から賛同できない理由は、こういうところにあるのかもしれません。元は、
古代ローマ時代の神殿で使われていたものらしいです。



↑ お御堂の横の小さなチャペル。これもかなり古いもののよう。


↑ こちらはクリプトの内部。



ここから修道院の中庭に移ります。







柱頭のモチーフにはいつも気持ちが惹かれますが、残念なのは、ここで使われているアレゴリーの
意味が理解できないこと。パンフレットやガイドブックでも、たいていの場合、歴史的な事項と建築
様式の説明だけで終わってしまうんですよね。これが正統と言い切れる解釈がない・・・と言うのが、
その理由のようですが・・・。




ここまで書いたら日が差してきました。久しぶりに散歩でもしようかな・・・

ピレネーから その10 料理編 (2) Villefranche

2008-01-21 | Weblog
↑ 聖ジャン通りにて(「城塞地帯」の内部は、いまだに中世の佇まいが保たれています)


今日はまた食べ物の話題。
歴史や文化の話になるとしどろもどろになるのに、この手の話ばかり筆(キー?)が冴えるのも
情けない話ですが・・・。

Vllefranche、観光スポットとしても盛りだくさんの街でしたが、久しぶりに、満足できる食事にあり
つけました。「城塞地帯」観光の前に腹ごしらえをした Au Grill, Restaurant La Senyera という名
のレストラン。長い名前ですが、今回、食べた中では一番おいしく、メニューも内装も個性的でした。
働いている人たちも、とても感じがよかったし・・・。唯一、残念だったのは、ランチタイムしかやって
いなかったこと。注文したのは、例のごとく、一番手頃なランチセットです。


↑ この橋の先に門があって、そこを通り抜けると旧市街に出ます。


メインディッシュに白ブダンがあったので、これまで白ブダンを食べたことのなかった私は、喜び
勇んで注文したのですが、そこでウェイトレスのお姉さんからひとこと。

「これ、一応、白ブダンと名前が付けられてますが、そこらの白ブダンとはまったく別物なんですよ。
この近くのSahorreという地方で、純カタロニア風の製法で作られたものなんです。だから、心して
食べてくださいね。」

そう言われても、「そこらの」白ブダンさえ、まだ食べたことのない私は、較べようがなかったりする
のだけど・・・。と言うわけで、せっかくの特製メニューにもかかわらず、この時の印象は、白ブダン
って、焼く前に見ると本当に真っ白(に近い)けど、焼くとやっぱり、普通のお肉の色になるんだな、
と言うことと、味は意外と黒ブダンに近いかな、と言うことくらい。


↑ 店内の壁や天井には、昔の農具や古いケーキ型が飾られていました。


ここではもうひとつ、面白い話がありました。
メインディッシュの付け合せに、黄色っぽいミニ豆腐みたいなのがのっていて、食べるとしんなりと
柔らかく、まさにマシュマロのような舌触り。それでつい、興味がわき、ウェイトレスのお姉さんに
聞いてみたのですが・・・。

私:「これ、何ですか?」
ウェイトレス:「ああこれ?ニューキ・ア・ラ・ローマンって言うんですよ」

ニューキ?にゅうき?乳基? 相棒に聞いたところ、「ここの郷土料理じゃない?」の一言で終わり。
でも、郷土料理なのに「ローマ風」って・・・。


↑ 本物に見えますが、電熱を利用した「偽」暖炉です。


同じ人に二度聞くのはさすがに気が引けるので、そばを通りかかったもう一人のウェイトレスさんに、
今度は綴りを聞くことに・・・。

おっとりして、人の良さそうな彼女は、「ああこれ、イタリアの料理だから、綴りが複雑なのよねぇ」
と少し考え、おもむろに書いた言葉はGNOCCHI。えっ?ニョッキ?それなら、日本のイタリア料理店
でもお馴染みの料理だけど、イタリアのニョッキって、これとはかなり違うんじゃ・・・。
ここまでくると、やっぱりこのお店のオリジナルと言えるんじゃないでしょうか。

このお姉さん、すごく真面目な性格のようで、
「自信ないから、もう一度、メニュー調べてきますね。確認出来次第、また、ご連絡します。」

時間の関係で一度しか行けませんでしたが、夕方も開いていたら、毎日、通いたくなるような
レストランでした。



まずは「前菜」から・・・


↑ 砂肝サラダ


↑ ヤギの乳のチーズとベーコンのグラタン


メインディッシュ


↑ 「カタロニア風」白ブダン


↑ 鶏肉のジャンボネット。中には肉餡が入っています。一番手前に見えるのが「ニョッキ」


そして、お待ちかねのデザート・・・


↑ 上下を逆さまにして焼くタルト・タタン


↑ お馴染みのクレーム・カタラン(ちなみに、この器、お土産やさんでも売られていました)





メニューはもちろん二人分です。
念のため・・・

ピレネーにて その9 Villefranche (3) 城塞地帯  

2008-01-20 | Weblog
↑ リベリア砦から臨んだ Villefrancheの街


Villefrancheの観光スポット、最後の見所は「城塞地帯」(Remparts)です。
民家の周りをぐるりと城塞が囲んでいます。
欧州の街って、昔はどこもこんな感じだったんじゃないかなあ。

ところが、平和な時代の到来と共に、存在価値を失った城塞は撤去され、主要な門だけを残して、
道路や緑地帯へと変えられていく・・・。こんな風に、今でも城塞全体が保存されているケースは、
意外と珍しい気がします。

土台の壁の部分は、ギョーム・レイモン・サルダーニュ公の手により、1092年に完成。13世紀頃、
塔の部分が加えられ、その後、さらに強化する目的で、17世紀から18世紀にかけて、砦の部分が
増築されました。この時は、前述したVaubanが尽力したそうです。壁内部の細い通路は、18世紀
以降に作られたようですね。歴史にも建築にも疎いので、しどろもどろで申し訳ないです(汗)

ところで、下の写真でご紹介している「悪魔」の塔。口をぽかーんと開けた間抜けな表情に見えて
しまうのは私だけでしょうか(苦笑)

場所的には、ここが一番、Villefrancheの駅から近いのですが、開館時間の関係上、日を改めて、
最後に行くことに・・・。前述のスポットは26日、「城塞都市」観光は31日の大晦日でした。



↑ お堀


↑ 女王砦(17世紀)


↑ 外側から見るとこんな感じ


↑ 後方にリベリア砦が見えますね。


↑ 「ヴィグリー塔」(左:Tour de la Viguerie)と聖ジャック教会(右:12世紀)


↑ 「悪魔の塔」(Tour du Diable)。「1441年着工、1454年竣工」と言う文字が刻まれているそう。


↑ 塔の内部


↑ 「櫓」というのでしょうか。


↑ 壁の内部は通路になっています。(「あと~mで屋外に出ます」という但し書きも)


↑ ここで武器を鋳造していたようですね。

ピレネーにて その8 Villefranche (2) 大カナレット洞

2008-01-19 | Weblog

続いて行ったのが「大カナレット洞」。
日本でもよく見られる鍾乳洞の一種です。

同じ岩山の内部に、「バステラ洞」(Cova Bastera)、「カナレット洞」(Glotte des Canalettes)、
「大カナレット洞」(Glotte des Grandes Canalettes)と3つの洞窟があって、この中で一番大きく、
一番見応えのあるのが、この「大カナレット洞」です。

ここの良い点は、この手の洞窟には珍しく、ガイドなしで自由に見学できるところ。
通路用の階段は、混乱を避けるため、往路は青の照明、復路は赤の照明で色分けされています。
これなら、方向音痴の人でも安心ですね。

今はどこもそうなのかもしれませんが、照明と音楽がとても効果的に使われていて、まるで質の
いいスペクタクルを見ているよう。往路が復路にかわる折り返し地点は、小さなコンサートホール
になっていて、洞窟一杯に響きわたる音楽をバックに、鍾乳石の色と形が、多彩な照明によって、
さまざまな角度から、ドラマチックに映し出されます。







 















へたくそな写真ですが、雰囲気だけでも感じていただけたでしょうか。

ピレネーにて その7 Villefranche (1) リベリア砦

2008-01-17 | Weblog
↑ 上方から見たリベリア砦


フランスには、例えば、Villejuive (←ville juive ユダヤ人街)のように、「街」という単語とそれを
修飾する形容詞が一語に縮められた地名が見られますが、ここも同じで、語源は、中世の自由
都市を意味するVille franche。Evol 同様、「フランスの美しい村」に指定されています。

Villefrancheという地名は、フランスのあちこちにあるそうで、この街の正しい名称は、Villefranche
-de-Conflent。古き時代の面影を色濃く残す堅固な城塞都市で、現在、UNESCOに、世界遺産へ
の登録を申請中だとか。主な見所は、「リベリア要塞」「城塞地帯」「大カナレット洞」の三ヶ所。

最初にこの街を訪れたのは、クリスマスの翌日に当たる26日の月曜日。
Riaからなら電車で一駅だし、大した距離ではないので、歩くことにしたのですが・・・。





車道脇を恐る恐る歩きながら、ふと傍らを見上げると、一本の細い道が見えます。

「あっちの方が歩きやすそう・・・」

ろくに確かめもせず、一目散に駆け登ると、なんとそこは線路の脇。
「次の電車までまだ間があるし、線路の上を歩くわけじゃないんだから・・・」と相棒は涼しい顔。
幸い、電車に遭遇することもなく、罰金を取られることもなく、無事、Villefrancheに着きましたが、
その間に味わったスリルは並大抵のものじゃありませんでした。


↑ 鉄橋で撮った写真。「もう撮れない世界はない・・・」(?)


この日、最初に行ったのは「リベリア砦」(Fort Libéria)。
この砦は小高い丘の中腹にあって、内部が見られるようになっています。
1681年、ヴォーバンの指揮によって建てられました。多才な人で、軍事建築家以外にも、随筆家、
都市デザイナー、水道設計技師(?)など、多くの肩書きを持っていたとか。ヴォーバンが築いた
砦は、当時、「難攻不落」と謳われたそうです。さすが城塞建築の専門家だけあって、敵側の砦を
包囲し、陥落させる術にも長けていたそう。昨年は、ヴォーバン生誕300周年でした。

砦は3層。見た目より広く、通路も複雑なので、かなり見応えがありました。
一番、面白かったのは、通称、「千階段」と呼ばれる地下の階段。薄闇の中、ひたすら続く長~い
階段を降りていくと、突然、日の光が射し込み、出口へと至ります。


↑ 窓越しにチャペルが見えます。


↑ 上からの眺めはこんな感じ


↑ これは女囚用の地下牢


↑ 後方には、この地方のシンボル、カニグー山も


↑ 下から見上げて撮ったもの


↑ これが目玉の「千階段」。 実際には734段しかないそうです。

(追記) この記事に掲載した写真は、一部変更されています。(1/19)

カタロニアを知り初めし頃・・・

2008-01-16 | Weblog

ここでカタロニアにちなんだ思い出話を・・・。

今から15年近く前、ポーランド語学校の初級クラスに在籍していた頃の話です。
当時、初級は3クラスあって、まったくの初心者が第1グループ、英語話者は第2グループ、それ以外
は第3グループ・・・という構成でした。

重度の英語アレルギーだった私は、もちろん第3グループ。
英米人こそいなかったものの、ブラジル人、ハンガリー人、フランス人、ドイツ人、ロシア人、トルコ人、
日本人、中国人、韓国人・・・と、とにかく国際色豊かなクラスでした。

抱える問題もさまざまで、発音ひとつ取っても、巻き舌のできない日本人、hが言えないフランス人、
やたらと喉を鳴らすハンガリー人、どすの利いたロシア人・・・という具合。



スペイン女性もいました。
陽気なカトリックのシスターと、ネウスという名の若いスペイン語教師です。

二人のポーランド語を聞いているうちに、私は面白いことに気づきました。
シスターはzの発音ができなくて、ザジズゼゾがすべてサシスセソに変わってしまうのに、ネウスは、
とても正確な音で、何の苦労もなく、zを発音をするのです。

不思議に思った私は、ある日、ネウスに聞いてみました。
「ねえ、シスターと同じスペイン人なのに、どうしてあなたは、そんなにきれいに発音できるの?」

すると、彼女は、柔らかな笑みを浮かべながら、こう答えました。
「それはね、私がカタロニア人だから。カタロニア語にはzの音があるのよ。」

私がカタロニアを意識したのは、この時が最初だった気がします。
その二年前に行われたバルセロナオリンピックで、この名は何度も耳にしていたはずなのに・・・。
その時は、カタロニアを訪れ、その言葉を、直接、聞くことになるなど、思いもしなかったのだから、
運命とはわからないものですね。

昔の話はこのくらいにして、そろそろ、旅の話に戻ることにします。

ピレネーから その6 料理編 (1) RIA と PRADES

2008-01-15 | Weblog
この辺で、休憩がてら、RiaとPradesのレストランについて書いてみます。写真はすべて35ミリマクロ。
このレンズで撮ると、どんな料理でもおいしそうに見えるから不思議ですね。
まずは、前の記事でご紹介したCafé du Centreから・・・。


↑ レモンピールが入ったアイスクリーム


駅まで続くこの村のメイン通りにあるから Café du Centre。気持ちはよくわかるのですが、あいにく、
Riaは無人駅なので、古ぼけた元駅舎がホームの前にあるだけ。運転手さんに頼まなければ停車
すらしてくれず、乗るときは、列車の前方で手を振るヒッチハイクの要領。メイン通りと言う言葉から
想像する華やかさとはまったく縁がなかったりします。


↑ この地方の定番、クレーム・カタラン

日本にもあるカスタードプリンや、フランスのクレーム・ブリュレとよく似ていますが、キャラメルソース
が液体ではなく、ぱりぱりに固まっているのが特徴。すごく薄っぺらいべっこう飴みたいな感じかな。


Café du Centreですが、おじさんの強烈な個性と話術だけではなく、料理の方もなかなかでした。
私たちが食べたのは日替わりセットだけですが、遊び疲れた子供と働き疲れたお父さんがうちに
帰った時、食卓で待っているのは、こういう料理なんじゃないでしょうか。言わば「おふくろの味」
ですね。


↑ リブロースのペッパーソース


料理は必ずしもカタロニア風というわけではないようで、メインは牛肉。
日替わりセットの献立はかなり自由で、メニューには載ってないような料理も・・・。


↑ 子牛肉のフォーレスト風ソテー(これもメニューにはありません)


一番、おいしかったのは、前菜に出てくる野菜、ハム、ソーセージの盛り合わせ。
これも、日替わりセットでしか食べられないメニューですが、新鮮な野菜と自家製のカタロニア風
ソーセージが大皿にのって出てきます。


↑ こちらはサーモンとゆで卵


サラダは毎日変わるので、私たちみたいに3日連続で通っても問題なし。
女性なら、これにパンをつけるだけでも十分なくらい、ボリュームがあるので、単品で注文できない
のは、ちょっと残念かも・・・。


↑ こちらはツナと人参のサラダ


ちなみに、3日通ったのになぜ2枚しかないのかと言えば、初日は空腹に耐えられず、焦って撮ったら、
見事にぶれていて、とても出せる状態ではなかったため。取り直そうにも、被写体はすでにお腹の中。
こういうときは、やっぱり、手振れ補正がほしいです。

量良し味良しの前菜に比べると、メインディッシュは少し味が落ちるかな。
サラダでお腹がいっぱいだったせいもあると思うけど(汗)
一般家庭の食卓に上る料理を髣髴とさせる素朴で素直な味です。

同じセットでも、もう少し上のメニューだと、牛肉のガスパッチョとか、トゥルヌドーとかがつくので、
また印象も変わっていたかもしれませんが・・・。帰る日の前日にも寄りたかったのですが、新年
休暇が明けていなかったようで閉店でした。残念。





ファーブルさんが薦めてくれたもうひとつのお店についても書いておきましょう。
プラドの中央広場にある「ヨーロッパ」というカフェレストランで、Café du Centre同様、カフェの隣が
レストランになっています。


↑ アンチョビのカナッペ


ここはちょっと見掛け倒しでした。行った時期が悪かったと言うべきか・・・。
「カタロニア風」と銘打たれているセットメニューを頼んだら、前菜に出てきたのが、ムール貝の
にんにくソース。ガイドブックによると、このソースがまさにカタロニア風なのだそう。

相棒が席を外していたので、ゆっくり写真を撮っていたら、ウェイターのお兄さんがすごい勢いで
飛んできて、「お客さん、ムール貝は冷めてしまったらおしまいなんです。もう一度温めますから、
待っていて下さい。」


↑ これがそのムール貝。温めてもらった後に見たら、ソースの部分が半分以下に縮んでました。


さすがファーブルさんお勧めだけある、気合が入ってるなあと感心し、前菜でさえこうなのだから、
きっと熱々のメインディッシュが運ばれてくるに違いないと思っていたのですが・・・。


↑ デザートの焼きりんご


期待に反して、料理は生ぬるく、野菜も冷たい・・・。
それもそのはず。ウェイターとレジの両方を、このお兄さんが一人でやっていたんです。
開店と同時に来た私たちは、この日の一番乗りでしたが、メインディッシュが運ばれてくる頃、周りを
見ると、奥行きのある細長いホールは、すでにほとんど満席。彼がいくら働き者でも、すべてを一人
でこなすのは無理があるというものです。

シーズンオフのせいか、休暇で人手が足りなかったのか・・・。
たぶん、その両方なのでしょうね。

ピレネーにて その5 黄電車沿線

2008-01-14 | Weblog

昨日は無駄口だけで終わってしまったので、今日は、黄電車で行ける観光スポットをご紹介します。

最初は、前回の記事でも少し触れたFont Remeuから。
標高がかなり高いため、この辺りは雪が多く、スキーの名所として親しまれていますが、最近は
温暖化の煽りを受け、人口雪を使うケースが増えているそう。カントリースキーをやろうと言う話も
あったのですが、情報不足で、どこで滑れるのかよくわからなかったのと、あまりに天気がよかった
せいで、急遽、雪見ハイキングに変更。


↑ スキー客用の施設がぎっしりと立ち並んでいます。

到着が遅れたせいで、二つ先のMont Luis駅まで歩く予定が果たせず、そのひとつ前のBoloquère
駅で妥協しなければならなかったのは残念でした。ちなみに、この電車は無人駅が多いので、車輌
の前方で合図し、列車を止めることになります。


↑ 最近は以前より降雪量が減ってきているとか・・・

それでも、雪見をするという最初の目的は果たせたので、まあ満足。
雪のないところには、馬や牛など、家畜も放牧されているので、なんとも牧歌的な風景でした。
雪はところどころが白くなっている程度で、スキーをするにはちょっと不安が残りそう。



日光が豊富な地域だけあって、太陽エネルギーを有効利用する研究が盛ん。
Font RemeuとMont Luisにも研究所と博物館があります。時間の関係で、博物館内の見学は
パスしましたが、太陽光を集めるプレートを屋根に設置した一般家屋をあちこちで見かけたので、
ちゃんと実用になっているのでしょうね。本当に雲ひとつない、抜けるような青空でした。



これが昨年の12月28日。
その3日後にあたる元旦にもこの電車を使う機会がありました。この日はまず、前回、20分あまり
待たされたOletteで下車。VillefrancheやEus同様、「フランスの美しい村」に指定されている
Evolと訪ねました。


↑ Oletteの教会

駅を出るとすぐ、ハイキングコースを示すとてもお茶目な看板に出くわしました。
この辺は、馬を使う人も多いようですね。馬用とハイキング用の目印はあるのに、サイクリスト用の
表示がないのも面白い。自転車は禁止なのかな。確かにちょっと危ないかも・・・。



ふと足下を見下ろすと、古塔が日光に照らされて輝いていました。



Oletteからしばらく歩くと、小さな可愛らしい村が見えてきました。この村がEvol。
石造りの家屋が、小さな路地の両脇に、ほとんど隙間なく建てられています。
こんなとこ、住んでみたいけど、「美しい村」のノルマを果たすのは、傍から見ているほど楽では
ないかもしれませんね。住民もかなりの努力を強いられそうです。私みたいにだらしない人間に
はとても無理かも・・・。


↑ 右上方に古城(廃墟)、中央後方に教会の塔が見えます。

今回、訪ねた東部ピレネー地方の村々では、両脇、あるいは三方の壁を隣家と接しているおうちが
多いそう。庭もないので、一軒家と言っても、感覚的にはアパートみたいな感じかも。その分、近所
づきあいは大変かもしれないですね。でも可愛い・・・


↑ 近くで見るとこんな感じ。石の壁と石畳の路地がよくあっています。

この辺りは、10世紀前後に立てられたローマン形式の古い史跡がたくさん残っていますが、ここの
お城と教会も同じ頃の建築だそう。


↑ 教会の墓地

この地方では、十字架中央にハート型の名札をつけたシンプルなものが多いです。
上方に修道院、その後ろが古城の廃墟。


↑ 城跡から臨む聖アンドレ教会。日差しが強かったのでフレアっぽくなってしまいました。

再び、Oletteへ向かう途中、こんな可愛い住人(?)に出会いました。
牛や馬の牧場はあちこちでよく見かけますが、この地方では、ロバ専用の飼育場も・・・
ロバ好きの私にはたまりません。



Oletteから再び黄電車に乗り、1駅先のNyersへ。車輌は旧型でした。
ここにも古城があるので、ここを見てから、その先の目的地に向かうはずだったのですが・・・


↑ 残念ながら工事中。(左端の塔が見えるでしょうか)

気を取り直し、次の目的地である、絶壁に囲まれたChapelle de la Roqueへ。
難しいコースではありませんが、高所恐怖症の方は避けた方がいいかも。


↑ これだけ見れば大した事ありませんが、実は・・・


↑ こんなところに建っていたりします。


というわけで、今回はこの辺で。
(まだまだ続きます。すでに食傷気味の方、ごめんなさい・・・)

ピレネーにて その4 黄電車 (Train Jaune)

2008-01-13 | Weblog

Ria、Pradesと並んでよく使ったのが、Perpignonから出るローカル線の終着駅、Villefranche。
街自体に見所が多い上、黄電車(Train Jaune)の始発駅でもあるので、電車での移動時は、
たいていこの駅にお世話になりました。



この街の見所については後日に回すことにして、今回は黄電車の話題。
黄電車というのは、この地方の登山電車で、スキー客がよく使うのですが、観光に焦点を合わせて
いるだけあって、車窓からの眺めは絶景です。


↑ 線路の幅は一般車両より狭くなります(向かって左)

車両は新型と旧型の二種類。新型は窓が広く、その分、外の風景がよく見えるのはいいのですが、
旧型にあった車両間のバルコニー席(屋根がなく、外が直接見える)がないので、写真を撮ろうと
すると、どうしても映り込みが入ってしまうし、デザイン的にも、細長い箱を無造作に繋げたような
旧型の方が可愛かったりします。(これは好みの問題ですが)


↑ これが新型

観光客相手とは言え、そこはやはりフランス国鉄。運行中のトラブルはここでも日常茶飯事のようで、
初乗りの印象は最悪でした。

スキー場の多いFont-Romeuという村にハイキングに行ったのですが、駅に着くと、発車時刻が近い
はずなのに、乗客はまだ電車の外。おかしいなあと思っていたら、案の定、「接続の問題で点検中の
ため、発車が遅れます」というアナウンス。


↑ こちらは夏専用の観覧車輌でしょうか。これなら写真も撮れる?

「せめて乗車位置まで電車を移動してくれたら、車内で待てるのに」とぼやくと、相棒があきれたよう
に、「乗客を乗せた後から点検したって意味ないよ。」横で私たちの会話を聞いていた女性もここで
ぷっと噴出し、「でも、あなたの言うことわかるわ。本当にそうよねぇ。」


↑ こっちが旧型。新型より角張っています。

しばらくすると、今度は、駅員さんが来て、「まだもうしばらく時間がかかりそうなので、皆様、駅の
構内にてお待ちください。」嫌な予感はますます増大。結局、電車は40分遅れで発車しましたが、
旧型を出す予定が、これにも故障があったのか、急遽、新型に変更。「旧型より信頼できそうだし、
かえって良かったんじゃない?」なんて能天気に話していたのだけど、そうは問屋がおろさない。


↑ Boloquère駅にて

この電車、どうやら発車にはこぎつけたものの、暖房は故障、トイレは使用禁止。
目的地まで一時間半以上かかると言うのに・・・。

列車がOletteという小さな駅に着くと、車掌さんがやって来て、「乗客の皆様、この電車、このあと
20分ほど停車いたします。」暖房のない車内は重ね着していても凍てつくような寒さ。「ただでさえ
先は長いのに、この上、20分なんて我慢できない!」と、もう泣きたい気分でいたら、さすがに車掌
さんも察したのか、「水は流れないけど」とドアを開けてくれました。私と同じ気持ちの乗客は他にも
いたようで、数人がトイレに直行。使用禁止ということでかなり覚悟して入ったのに、パリの電車より
ずっと清潔な状態に保たれていたのは皮肉。ちゃんと紙もあったし・・・。


↑ 壁にはこんな落書きも...

すでに40分も遅れているというのに、重ねて20分の停車。どうにも納得がいきませんでしたが、
しばらくして理由がわかりました。実際には30分近く待ったと思いますが、車両の向かい側から
もう一台の電車が・・・。ケーブルカーの例にもれず、この路線も中央複式単線。この駅以外は
車線が一本しかないため、ここで交差しないと、上りと下りが鉢合わせすることになるんですね。


↑ 暗かったのでブレブレです。(Nyersにて)

お陰で結局、計一時間以上の遅れ。その日の予定が大幅に狂ったことは言うまでもありません。
くさい話と愚痴をたらたら書いていたら、ずいぶん長くなってしまったので、観光先の写真は、次の
記事でご紹介します。

ピレネーにて その3 カタロニア賛歌

2008-01-12 | Weblog
↑ 
この地方でよく見られるドアの花飾り。
湿度によって開き加減が変わるため、湿度計がわりに使われるそう。


カタロニアというと、ミロ、ピカソ、ガウディなどを生んだスペイン側がよく引き間に出されますが、
カタロニアの文化はフランス側でも健在。正直なところ、私も、ここまでカタロニア語が浸透して
いるとは思ってもいませんでした。街をちょっと歩くだけでも、通りのあちこちから、カタロニア語
の会話が聞こえてきます。

車のない私たちは、ヒッチハイクに頼ることが何度かあったのですが、Marcevolというところから、
民宿のあるRiaまで私たちを送り届けてくれた若いカップルの会話も、フランス語とカタロニア語
のちゃんぽんでした。

標識も、通りの名前も、フランス語、カタロニア語の二言語表示。
教会のミサも両方の言語で行われます。学校でも、カタロニア語教育が次第に見直されてきて
いるとのこと。スペイン側と違い、こちらではまだ公用語として認められてないそうですが、「私は
カタロニア人」と胸を張る人を何人も見かけました。



スペイン側のカタロニアで生を受け、フランコ政権によるカタロニア人迫害を理由にPradesへ亡命した
大チェリスト、パブロ・カザルスは、この地の英雄的存在。そんな彼の胸像の前で、不覚にも大失態
を演じてしまいました。

胸像の下にPAU CASALSと彫ってあったので、「これ、もしかして、Lが抜け落ちてるんじゃない?」と
私が言ったら、背後から中年の女性がすっと近づいてきて、「話の腰を折ってごめんなさいね。でも、
ちょっと気になったものだから。これ、カタロニア語だから、PAUで正しいのよ。」「そうだったんですか。
すみません。ご教示ありがとうございました」とお礼は言ったものの、思わず赤面。



また、ある教会の日時計には、カタロニア語で箴言らしきものが彫られていたのですが、
「フランス語と似ているからなんとなくわかるよ。私は陽光に生かされている、と言う意味
じゃないかな。」相棒が訳し終わったとたん、「お見事。その通りよ」と言う声。振り向くと
品のいい女性がひとり。「カタロニア語、ご存知なんですね」と言うと、「ええ、私はカタロ
ニア人だから。」


↑ これがその日時計。文字盤の上にカタロニア語の文章が見えます。

今回、出会った人々の中で、カタロニアへの愛国心(愛郷心?)を一番感じたのが、Café du Centre
というカフェレストランを経営しているおじさん。この食堂、基本的は昼間だけで、事前に電話を入れた
場合のみ、夜も開店と言うシステム。ファーブルさん行きつけの食堂というのがここで、Riaには他に
飲食店がないこともあり、三晩続けて通うことに。

夫婦で経営しているのですが、配膳その他で店内を走り回っているのはいつも奥さん。
ご主人はゆったり座り、お客さんを相手に、おしゃべりに花を咲かせていました。たぶん、料理と給仕
は奥さん、事務関係は旦那さんという形で役割分担しているのでしょう。


↑ カフェレストラン、Café du Centreの夫婦

このおじさん、カタロニアの闘士とでも呼ぶのがふさわしいような熱血漢。話がカタロニアに及ぶと、
もう止まりません。その横で奥さんが、半ばあきれたような顔をしながら、私に向かって、小声で、
「うちの主人、凝り性で歴史に目がないのよ。悪いわね」と言うので、つい笑ってしまいました。

最初に話してくれたのが、カタロニア人同様、ピレネーの両側に住んでいる少数民族、バスク人と
の違い。「混同する奴が多いんだよなあ。ぜんぜん違う民族なのに。どこが違うか知ってるかい?」
「言語でしょう」と思わず相棒と口を揃えると、「それもそうだが、一番違うのはアイデンィティーの
持ち方だ。カタロニア人は、愛するカタロニアの地を離れるようなことは絶対しないが、バスク人は
そうじゃない。ただ、彼らの場合、どこにいても、バスク人としてのアイデンティティーは、断固として
保ち続けるんだな。」バスク人って、ユダヤ人とよく似たところがありそうですね。

カタロニア人が、終生、故郷を離れないという話も興味深かったです。
パブロ・カザルスが、国こそ違え、終生、カタロニアの領内に留まったのも、同じ理由からだったの
でしょうか。一番の愛奏曲が、カタロニア民謡「鳥の歌」だったいうエエピソードも、カタロニアへの
愛情の深さを物語っている気がします。

この辺りでは御神木のように扱われている松の大木、「王者の松」の話をしてくれたのも、カニグー
山で、夏至に祝う聖ヨハネ祭の篝火が炊かれると教えてくれたのもこのおじさんでした。残念なのは、
南部訛りが強すぎたせいで、半分くらいしか理解できなかったこと。


↑ この地方を象徴する山、カニグー

話を聞いた翌日、王者の松を探してみたのですが、結局、たどり着けないまま終わりました。
(というか、いくら大木でも、森で木を見つけるのは難しい) 

ところが、そのまた翌日、このお店のすぐ脇にある停留所でバスを待っていたら、Riaの上方にすっく
と立つ巨大な松のシルエットが見えるではありませんか。「ねえ、あれ、もしかしたら・・・」と相棒と
話し始めたとき、店を開けに来たカフェの主人が、私たちに気づき、こっちに近づいてきました。
前方に見える松の木を指差すと、「そう、あれが、王者の松(Pi del Rei)だよ。」


↑ 王者の松(Pi del Rei/ 仏 Pin du Roi) 

ずっと謎だったのが、小さな村を散策していると、時折、目に入る「○人のカタロニア人云々」という
絵入りの小さな看板。何度か見かけたので、最後の日、せっかくだから、とよくわからないままカメラ
を向けていると、その家の住人らしい女の人が近づいてきました。

自宅の門前にいる私を見て、最初はぎょっとしたようでしたが、カメラを見ると目を細め、「ああ、この
看板を撮ってたのね。これはね、カタロニアの伝統舞踊であるサルダーナを踊る人がいるという目印
なの」と教えてくれました。最初は、他のカタロニア人に、同胞が住んでいる場所を知らせているのか
と思っていたのだけど、そういうことだったんですね。サルダーナ、いつか見てみたいなあ。


ピレネーにて その2 クリスマス

2008-01-11 | Weblog

毎年、頭を痛めるのがクリスマス休暇。
と言うのも、ほかの休日なら面白い旅行先を考えるだけですむけど、この時期だけは、荘厳で
アットホームな雰囲気を味わいたいから。相棒は両親が宗教嫌いだったせいで未信者、私は、
ポーランド滞在中、狂信的な信者の毒気(誤解を避けるため書いておくと、ポーランド人の大半
は、暢気で人のいいごく普通の信者です)にあてられ、教会に行かなくなった転びキリシタン、
こんな時ばかり宗教的荘厳さを求めるのも、勝手といえば勝手なのだけど、長年の習慣と言う
のは怖いもの。

クラクフ時代は、国中を覆う宗教的神秘的な雰囲気に辟易していたのに、いざそれがなくなって
みると、今度はたまらなく懐かしくなったりする。こういうのをないものねだりというんでしょうね。
今回、この地を選んだのも、せめてクリスマスくらい、言葉の通じる国で過ごしたいと思ったから。


↑ 教会もクリスマスの装い(Prades)

出発前、「レストランなら大丈夫」と太鼓判を押してくれたファーブルさんでしたが、実際、着いて
みると、「ごめんなさいね。近所のレストランに聞いたら、24日と25日はお休みらしいの。Prades
に出れば、選択肢はたくさんあると思うわ。」

Pradesは、夏、パブロ・カザルスの名を冠した音楽祭が行われるような町だし、どこかでクリスマス
コンサートでもあるのではないかと期待して聞いてみると、「シーズンオフだし、コンサートは無理ね。」
これにはさすがにがっかりしたものの、深夜ミサに行けば、この地方特有のクリスマス聖歌くらいは
聴けるだろうと考え、気を取り直すことに。


↑ イルミにもカタロニア的な美意識がこめられている気がします。

ファーブルさんが、「これから買出しに行くから一緒に来ない?電子レンジも食器もうちにあるから、
いざと言う時は、うちで簡単な食事をとればいいでしょう」と言ってくれたので、お言葉に甘え、某
巨大マーケットへ同行。祭日前だけあって、思ったとおりものすごい混雑でしたが、買ったものを
ファーブルさんが車で持ち帰ってくれたお陰で、手ぶらで町を歩けたのは助かりました。

残念ながら、Pradesのレストランもイヴは休み。
ただ25日に手頃なクリスマスメニューがあるお店があったので、24日は粗食に甘んじることにして、
バスと電車の時刻表を調べた後、再び宿へ戻ると、思いがけない朗報が・・・。

「今、地方紙を見たら、夕方の五時から、村の教会で生誕劇をやるらしいのよ。カタロニアの歌も
歌うはずだから、行ってみたらどうかしら」とファーブルさん。


↑ 生誕劇が行われたRiaの教会

ローカル言語好きな私は、カタロニア語と聞いただけでもう行く気満々。
幸い、まだ時間があったので、聖書に出てくるバベル城みたいなリアの村を一通り見てから、教会
へ向かうことにしました。


↑ Riaの集落。夜には頂上の星が道しるべになります。

生誕劇は、信者さんの学芸会といった趣で、歌や演技もいかにも素人っぽい感じなのに、不思議と
心惹かれました。物心ついたばかりの子供から老人まで、世代も与えられた状況もまったく違う人
たち。ダウン症とおぼしき青年もひとりいて、地の底から響いてくるようなバスで合いの手を入れて
いました。



これ以外に、歌や踊り、演技など、一通り身につけたセミプロ級の出演者が数人。
お世辞にもうまいとは言えない聖家族や大天使の演技をフォローし、劇に彩を与えていました。

後で聞いたところ、劇の出演者は、この教会の信者さんではなく、独立したひとつの劇団として、
この辺りの教会を巡回しているそう。



台詞も歌もフランス語とカタロニア語のバイリンガル。フランス語も、南部特有のアクセントがあり、
パリで話されている言語とは別物。

合唱を指揮していた女性のイタリア語の聖歌が素晴らしく、教会を包む荘厳な雰囲気と相俟って、
思わず目がウルウル。隣に座っていた相棒をのぞき見ると、彼の目の奥にも光るものが・・・。


↑ 前方で指揮をしている女性が、この後、名歌手に変貌。

3時間近く続いた演劇鑑賞が終わり、出口へ向かうと、係の人が何人か立ち、大きなブリオッシュ
をちぎり、来た人みなに配っていました。ほんのりと甘い上品な味。帰ってから食べたイヴの晩餐
は、レトルトパックとカップスープというお粗末なものだったけど、そんなことがまったく気にならなく
なるくらい、この時のブリオッシュは格別でした。

私はいまだに、フランスの伝統的クリスマスを体験したことがないのですが、典型的なクリスマスの
メニューとして、七面鳥、フォアグラ、白ブダンなどがあるようですね。25日にPradesのレストランで
食べたクリスマスメニューも、カタロニアの家庭料理ではあるけど、必ずしもクリスマスにこだわった
メニューではないとのこと。残念。


↑ 黒ブダンとホタテ


↑ フォアグラ