↑
この地方でよく見られるドアの花飾り。
湿度によって開き加減が変わるため、湿度計がわりに使われるそう。
カタロニアというと、ミロ、ピカソ、ガウディなどを生んだスペイン側がよく引き間に出されますが、
カタロニアの文化はフランス側でも健在。正直なところ、私も、ここまでカタロニア語が浸透して
いるとは思ってもいませんでした。街をちょっと歩くだけでも、通りのあちこちから、カタロニア語
の会話が聞こえてきます。
車のない私たちは、ヒッチハイクに頼ることが何度かあったのですが、Marcevolというところから、
民宿のあるRiaまで私たちを送り届けてくれた若いカップルの会話も、フランス語とカタロニア語
のちゃんぽんでした。
標識も、通りの名前も、フランス語、カタロニア語の二言語表示。
教会のミサも両方の言語で行われます。学校でも、カタロニア語教育が次第に見直されてきて
いるとのこと。スペイン側と違い、こちらではまだ公用語として認められてないそうですが、「私は
カタロニア人」と胸を張る人を何人も見かけました。
スペイン側のカタロニアで生を受け、フランコ政権によるカタロニア人迫害を理由にPradesへ亡命した
大チェリスト、パブロ・カザルスは、この地の英雄的存在。そんな彼の胸像の前で、不覚にも大失態
を演じてしまいました。
胸像の下にPAU CASALSと彫ってあったので、「これ、もしかして、Lが抜け落ちてるんじゃない?」と
私が言ったら、背後から中年の女性がすっと近づいてきて、「話の腰を折ってごめんなさいね。でも、
ちょっと気になったものだから。これ、カタロニア語だから、PAUで正しいのよ。」「そうだったんですか。
すみません。ご教示ありがとうございました」とお礼は言ったものの、思わず赤面。
また、ある教会の日時計には、カタロニア語で箴言らしきものが彫られていたのですが、
「フランス語と似ているからなんとなくわかるよ。私は陽光に生かされている、と言う意味
じゃないかな。」相棒が訳し終わったとたん、「お見事。その通りよ」と言う声。振り向くと
品のいい女性がひとり。「カタロニア語、ご存知なんですね」と言うと、「ええ、私はカタロ
ニア人だから。」
↑ これがその日時計。文字盤の上にカタロニア語の文章が見えます。
今回、出会った人々の中で、カタロニアへの愛国心(愛郷心?)を一番感じたのが、Café du Centre
というカフェレストランを経営しているおじさん。この食堂、基本的は昼間だけで、事前に電話を入れた
場合のみ、夜も開店と言うシステム。ファーブルさん行きつけの食堂というのがここで、Riaには他に
飲食店がないこともあり、三晩続けて通うことに。
夫婦で経営しているのですが、配膳その他で店内を走り回っているのはいつも奥さん。
ご主人はゆったり座り、お客さんを相手に、おしゃべりに花を咲かせていました。たぶん、料理と給仕
は奥さん、事務関係は旦那さんという形で役割分担しているのでしょう。
↑ カフェレストラン、Café du Centreの夫婦
このおじさん、カタロニアの闘士とでも呼ぶのがふさわしいような熱血漢。話がカタロニアに及ぶと、
もう止まりません。その横で奥さんが、半ばあきれたような顔をしながら、私に向かって、小声で、
「うちの主人、凝り性で歴史に目がないのよ。悪いわね」と言うので、つい笑ってしまいました。
最初に話してくれたのが、カタロニア人同様、ピレネーの両側に住んでいる少数民族、バスク人と
の違い。「混同する奴が多いんだよなあ。ぜんぜん違う民族なのに。どこが違うか知ってるかい?」
「言語でしょう」と思わず相棒と口を揃えると、「それもそうだが、一番違うのはアイデンィティーの
持ち方だ。カタロニア人は、愛するカタロニアの地を離れるようなことは絶対しないが、バスク人は
そうじゃない。ただ、彼らの場合、どこにいても、バスク人としてのアイデンティティーは、断固として
保ち続けるんだな。」バスク人って、ユダヤ人とよく似たところがありそうですね。
カタロニア人が、終生、故郷を離れないという話も興味深かったです。
パブロ・カザルスが、国こそ違え、終生、カタロニアの領内に留まったのも、同じ理由からだったの
でしょうか。一番の愛奏曲が、カタロニア民謡「鳥の歌」だったいうエエピソードも、カタロニアへの
愛情の深さを物語っている気がします。
この辺りでは御神木のように扱われている松の大木、「王者の松」の話をしてくれたのも、カニグー
山で、夏至に祝う聖ヨハネ祭の篝火が炊かれると教えてくれたのもこのおじさんでした。残念なのは、
南部訛りが強すぎたせいで、半分くらいしか理解できなかったこと。
↑ この地方を象徴する山、カニグー
話を聞いた翌日、王者の松を探してみたのですが、結局、たどり着けないまま終わりました。
(というか、いくら大木でも、森で木を見つけるのは難しい)
ところが、そのまた翌日、このお店のすぐ脇にある停留所でバスを待っていたら、Riaの上方にすっく
と立つ巨大な松のシルエットが見えるではありませんか。「ねえ、あれ、もしかしたら・・・」と相棒と
話し始めたとき、店を開けに来たカフェの主人が、私たちに気づき、こっちに近づいてきました。
前方に見える松の木を指差すと、「そう、あれが、王者の松(Pi del Rei)だよ。」
↑ 王者の松(Pi del Rei/ 仏 Pin du Roi)
ずっと謎だったのが、小さな村を散策していると、時折、目に入る「○人のカタロニア人云々」という
絵入りの小さな看板。何度か見かけたので、最後の日、せっかくだから、とよくわからないままカメラ
を向けていると、その家の住人らしい女の人が近づいてきました。
自宅の門前にいる私を見て、最初はぎょっとしたようでしたが、カメラを見ると目を細め、「ああ、この
看板を撮ってたのね。これはね、カタロニアの伝統舞踊であるサルダーナを踊る人がいるという目印
なの」と教えてくれました。最初は、他のカタロニア人に、同胞が住んでいる場所を知らせているのか
と思っていたのだけど、そういうことだったんですね。サルダーナ、いつか見てみたいなあ。
この地方でよく見られるドアの花飾り。
湿度によって開き加減が変わるため、湿度計がわりに使われるそう。
カタロニアというと、ミロ、ピカソ、ガウディなどを生んだスペイン側がよく引き間に出されますが、
カタロニアの文化はフランス側でも健在。正直なところ、私も、ここまでカタロニア語が浸透して
いるとは思ってもいませんでした。街をちょっと歩くだけでも、通りのあちこちから、カタロニア語
の会話が聞こえてきます。
車のない私たちは、ヒッチハイクに頼ることが何度かあったのですが、Marcevolというところから、
民宿のあるRiaまで私たちを送り届けてくれた若いカップルの会話も、フランス語とカタロニア語
のちゃんぽんでした。
標識も、通りの名前も、フランス語、カタロニア語の二言語表示。
教会のミサも両方の言語で行われます。学校でも、カタロニア語教育が次第に見直されてきて
いるとのこと。スペイン側と違い、こちらではまだ公用語として認められてないそうですが、「私は
カタロニア人」と胸を張る人を何人も見かけました。
スペイン側のカタロニアで生を受け、フランコ政権によるカタロニア人迫害を理由にPradesへ亡命した
大チェリスト、パブロ・カザルスは、この地の英雄的存在。そんな彼の胸像の前で、不覚にも大失態
を演じてしまいました。
胸像の下にPAU CASALSと彫ってあったので、「これ、もしかして、Lが抜け落ちてるんじゃない?」と
私が言ったら、背後から中年の女性がすっと近づいてきて、「話の腰を折ってごめんなさいね。でも、
ちょっと気になったものだから。これ、カタロニア語だから、PAUで正しいのよ。」「そうだったんですか。
すみません。ご教示ありがとうございました」とお礼は言ったものの、思わず赤面。
また、ある教会の日時計には、カタロニア語で箴言らしきものが彫られていたのですが、
「フランス語と似ているからなんとなくわかるよ。私は陽光に生かされている、と言う意味
じゃないかな。」相棒が訳し終わったとたん、「お見事。その通りよ」と言う声。振り向くと
品のいい女性がひとり。「カタロニア語、ご存知なんですね」と言うと、「ええ、私はカタロ
ニア人だから。」
↑ これがその日時計。文字盤の上にカタロニア語の文章が見えます。
今回、出会った人々の中で、カタロニアへの愛国心(愛郷心?)を一番感じたのが、Café du Centre
というカフェレストランを経営しているおじさん。この食堂、基本的は昼間だけで、事前に電話を入れた
場合のみ、夜も開店と言うシステム。ファーブルさん行きつけの食堂というのがここで、Riaには他に
飲食店がないこともあり、三晩続けて通うことに。
夫婦で経営しているのですが、配膳その他で店内を走り回っているのはいつも奥さん。
ご主人はゆったり座り、お客さんを相手に、おしゃべりに花を咲かせていました。たぶん、料理と給仕
は奥さん、事務関係は旦那さんという形で役割分担しているのでしょう。
↑ カフェレストラン、Café du Centreの夫婦
このおじさん、カタロニアの闘士とでも呼ぶのがふさわしいような熱血漢。話がカタロニアに及ぶと、
もう止まりません。その横で奥さんが、半ばあきれたような顔をしながら、私に向かって、小声で、
「うちの主人、凝り性で歴史に目がないのよ。悪いわね」と言うので、つい笑ってしまいました。
最初に話してくれたのが、カタロニア人同様、ピレネーの両側に住んでいる少数民族、バスク人と
の違い。「混同する奴が多いんだよなあ。ぜんぜん違う民族なのに。どこが違うか知ってるかい?」
「言語でしょう」と思わず相棒と口を揃えると、「それもそうだが、一番違うのはアイデンィティーの
持ち方だ。カタロニア人は、愛するカタロニアの地を離れるようなことは絶対しないが、バスク人は
そうじゃない。ただ、彼らの場合、どこにいても、バスク人としてのアイデンティティーは、断固として
保ち続けるんだな。」バスク人って、ユダヤ人とよく似たところがありそうですね。
カタロニア人が、終生、故郷を離れないという話も興味深かったです。
パブロ・カザルスが、国こそ違え、終生、カタロニアの領内に留まったのも、同じ理由からだったの
でしょうか。一番の愛奏曲が、カタロニア民謡「鳥の歌」だったいうエエピソードも、カタロニアへの
愛情の深さを物語っている気がします。
この辺りでは御神木のように扱われている松の大木、「王者の松」の話をしてくれたのも、カニグー
山で、夏至に祝う聖ヨハネ祭の篝火が炊かれると教えてくれたのもこのおじさんでした。残念なのは、
南部訛りが強すぎたせいで、半分くらいしか理解できなかったこと。
↑ この地方を象徴する山、カニグー
話を聞いた翌日、王者の松を探してみたのですが、結局、たどり着けないまま終わりました。
(というか、いくら大木でも、森で木を見つけるのは難しい)
ところが、そのまた翌日、このお店のすぐ脇にある停留所でバスを待っていたら、Riaの上方にすっく
と立つ巨大な松のシルエットが見えるではありませんか。「ねえ、あれ、もしかしたら・・・」と相棒と
話し始めたとき、店を開けに来たカフェの主人が、私たちに気づき、こっちに近づいてきました。
前方に見える松の木を指差すと、「そう、あれが、王者の松(Pi del Rei)だよ。」
↑ 王者の松(Pi del Rei/ 仏 Pin du Roi)
ずっと謎だったのが、小さな村を散策していると、時折、目に入る「○人のカタロニア人云々」という
絵入りの小さな看板。何度か見かけたので、最後の日、せっかくだから、とよくわからないままカメラ
を向けていると、その家の住人らしい女の人が近づいてきました。
自宅の門前にいる私を見て、最初はぎょっとしたようでしたが、カメラを見ると目を細め、「ああ、この
看板を撮ってたのね。これはね、カタロニアの伝統舞踊であるサルダーナを踊る人がいるという目印
なの」と教えてくれました。最初は、他のカタロニア人に、同胞が住んでいる場所を知らせているのか
と思っていたのだけど、そういうことだったんですね。サルダーナ、いつか見てみたいなあ。
私はスペイン側のカタロニアしか行ったことがないですが、フランス側もちゃんとカタロニアの民族的アイデンティティーが存続しているのですね。
カタロニア語というのは、フランス語とスペイン語の間くらいの感じですか?
文字だけ見るとフランス語に近いですね。
バスク人も有名ですね。
いつか私もバスクを通ってサンチャゴへの聖地巡礼の旅をしたいです。
最後のカニグーの写真も素晴らしいです。
今年の夏もヨーロッパの何処かには行くぞ!
私は中央よりローカルな文化に惹かれるところがあるので、
カタロニアとかブレターニュ、コルシカとかの方が、パリ
より面白かったりします。
書きたいことはたくさんあるのですが、文才がないので、無骨で
ごつごつした文章になってしまうのが残念。
カタロニア語、南仏方言とスペイン語を足して荷で割ったような感じでしょうか。
スペイン語、知らないので、単なる想像の域を出ませんが・・・。
同じカタロニア語でも、スペイン語圏とフランス語圏ではかなり差があるようで、
相互理解に支障をきたすことさえあるそうです。
スペイン語圏のカタロニアもいつか行ってみたいですね。
バルセロナとか・・・。ガウディの変な(!)建物を近くで見たいです。
一気に読んだら、あまりに盛りだくさんで、
なにをコメントしていいやら判らなく、、、(笑
あえて言えば、ローカル感が最高!
続きもありそうですし、また寄らせていただきます(^^
ご訪問いただき、ありがとうございます。
本当に、文字通りのド田舎です。
お陰で、こてこてで癖のある人たちにたくさん出会えました。
これは大都会にはない面白さですね。
写真、本当はもっと厳選して載せるべきなんでしょうが、つい愛着が
わいてしまって・・・。
このシリーズ、まだ当分、続く予定ですので、また遊びに来て下さいね。
ところで、「世界の車窓から」って、まだやってるんでしょうか?
短くて地味な番組だったけど、好きでした。
今日、昔好きだったカタロニア出身のジャズ・ピアニスト・Tete MontoliuのCDを偶然見かけて買ってしまって、それで検索していたら到着しました。
カタロニアといえばミロ、ピカソ、ガウディ、カザルスといずれも劣らぬユニークで根源的な創作をしてきた人々ですね。
Tete Montoliuのアルバムでは、Catalonian Fireを最初に買ったような記憶があります。30年くらい前の話です。このピアニストもいったんアドリブを始めると楽想が途切れることなく、止めどなく湧き上がるような演奏をします。
お邪魔しました。
カタロニア、小国(それも独立してない)なのに生み出された
芸術家の数はすごいですね。カザルスというと十八番だった
「鳥の歌」を思い出します。私もヘムレンさん同様(?)
辛酸をなめつつも誇りを失わない小国に惹かれる傾向がある
ので、フランスでもパリよりブレターニュやカタロニアの人々
により親近感を感じますね。愛郷心、誇り、人の良さが同居して
いるところがいいです。スペイン側のカタロニアもいつか行って
みたいなぁ。
カタロニアのジャズ、面白そう。ネットで検索して
みようかな。
突然の闖入者にレスいただきましてありがとうございます。私などはベルセロナにたった一度だけ足を踏み入れたにすぎませんが、ガウディの独創的かつわが道を行く的勝手さに、いたく動かされました。
先日、カタロニア出身のピアニスト、テテ・モントリュー(Tete Montoliu)のCDを偶然見かけて買ったのがきっかけで、ずいぶん昔の学生時代にこのピアニストを聴いた思い出がよみがえった、というわけです。
もしもご関心があれば、YouTubeにいくつかテテの演奏が上がっています。かれの代表作の一つ、Piano for Nuriaの主題曲を演奏しているこれ(↓)など、かなりいい線いっていると思います。
http://jp.youtube.com/watch?v=sQPJ7Jexjxk&eurl=http://mixi.jp/view_diary.pl?id=930513001&owner_id=655223
今、ヘッドホンで聴きながら書いています。カタロニアのジャズと
いうので、かなりぶっ飛んだものを想像していたのだけど、意外と
スタンダードな感じですね・・・と書いていたら少し
調子が変わって
きたので、この後大胆に変身するのかな。何だか気になるところで
録音が切れてしまいました。
私はこのブログでよくポーランドの話を書くのですが、ある時、
ポーランドとはまったく無関係のブログでポーランドジャズについて
の記事を読み、灯台元暗しだなぁとおかしく思った覚えがあります。
ヘムレンさんのブログも拝見しました。
建築のお仕事をされているんですね。
このところずっと放りっ放しになっていたこのブログ、一時は閉鎖
しようかとも思いましたが、このまま続けていくことにしました。
これからもよろしくお願いしますね。
最近の動向はあまり詳しくありませんが、ヨーロッパからのジャズの発信はかなり多くなっているという印象があります。
ポーランドのジャズですか…面白そうですね。ショパンの国だから、ちっとも不思議ではないです。