続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

的中をとるか?矢勢をとるか?

2010年12月26日 | 積み重ね
弓の目指す姿である中・貫・久のうち、久は技が一時のものではないことを言っているに過ぎない(とはいえこれが一番難しく、本質でもあるのだが)。

したがって、技術的な到達点だけを考えれば中と貫を極めればよいことになる。つまり、的中と矢勢である。

身体の働きでいえば、的中は弓手を開くことで得られ、矢勢は的に向かって伸びあうことで得られる。

この両者を同時に得られるようにすることが稽古の本道であり、最も難しい点である。

しかし、初心のうちは開く稽古、すなわち的中を目指すのが技術面ではよいだろう。なぜなら、胴造りが出来上がっていない段階で、伸びあおうとすると、どうしても的に身体が突っ込んでしまうからだ。

これを防ぐためにも、胴造りは不動のままに、弓手を肩根から開いていくというイメージで稽古を積むことが大切である。

こうすることにより、本当の角見の味もわかってくるし、何より、的の前から開くことで中てるという和弓において最も重要な技術が身につくはずである。

逆に矢勢を出すべく伸びあう稽古というのは相当レベルの高い技術である。なぜなら、外見上は全く動かない中で、筋肉のハタラキだけは伸びあっていくということになるからである。

これは確かに弓道の奥義なのであろうが、これを初心の頃から求めるのは酷というものであろう。

何事も順序が重要であり、特に人の成長にはそれが重要であることを肝に銘じなければならない。

竹弓を二張り持つ理由

2010年12月10日 | 積み重ね
最近めっきり寒くなり、竹弓が強く感じられる季節になった。

昔から竹弓は二張り以上もつのが良しとされる。それは、夏と冬とで強さが1~2キロぐらい上下するからである。

それを気にせずそのまま引いていると、冬で体が硬くなっているうえに、弓が知らずに強くなっているから、背中や首の筋を痛めてしまうのである。

たとえキロ数が変わらなかったとしても、引き心地が硬くなってきたら無理をせず、数キロ落とした弓を使うとよい。

私の弓もそろそろ替え時である。

半年頑張った弓を弓巻に包むとき、感謝の気持ちとともに今年も一年終わるのだなぁとしみじみ感じる。

心技一体

2010年12月06日 | 積み重ね
よく武道では、心技一体が大事だといわれる。

これは武道の一つの到達点を示した言葉であるが、どうすれば心技一体が得られるのかはあまり語られない。

多くの場合、技は技で磨きながら、心はある種の経験や場数を踏んで、自然に鍛えられるのを待つようなアプローチがなされているように思う。

しかし、これでは心技一体の本質が見えてこない。

たとえば、早気などの場合、往々にして精神的な問題、すなわち心の問題として扱われ、そちら側のアプローチがとられがちである。

しかし、心技一体ということを考えれば、心だけでその問題が解決するはずもなく、むしろ技を高めていくことで自信がつき、結果として心が安定するということもありうるはずである。

逆に、技術的にはそれなりのレベルに到達した人でも、心の動揺や不安、あるいは場の雰囲気によって、昨日今日始めたような射になってしまうことも多々ある。

そういう意味では、技を極めていくだけでもダメで、どんな場面でも、いつもと変わらず、平然と弓を引けることが求められる。

つまり、重要なことは、技と心を切り離して考えるのではなく、そのつながりを意識することである。

基本的には、初心のうちは心よりむしろ技を拠り所(よりどころ)として稽古を進め、技をある程度修めたならば心を磨いていくという段階を踏むとよいだろう。

これは心がそもそも不安定なものであり、揺れ動きやすいという性質を持っているからである。

その心を、まずは技の面から安定させるよう努め、土台ができたら心と直接向き合いながらこれをさらに安定させることを目指していくというのが、本当の意味で心を磨く稽古ということになろう。

会が短いほど的中する?

2010年11月22日 | 積み重ね
先日、当ブログの「実戦の射と芸術の射」の回を読まれた方から質問があったので、ここでも回答したい。

質問は、次のようなものである。

― 的中だけを考えれば、会は短ければ短いほどいいのでしょうか?

この質問に対し、誤解を与えてしまうような文面になってしまっていたことをお詫びしつつ、次のように回答した。

― どんな場面、どんな状況でも、会を充実させて持ち続けるということは難しいから、そういう意味で3秒くらいの会が最も中りやすい(邪念がでない)といえる。しかし、本来は会で伸び合うことによってさらに詰合いが確固たるものになっていくので、段々と焦点が定まっていくように狙いも定まっていくものだ。と。

したがって、やはり最も的中が難しいのは早気である。会がないということは、身体で狙いを絞っていく段階がないということだから、どこに矢が飛んでいくかはまさに神頼みということになる。

逆に、会に入ってからなおじりじりと伸合い、身体の詰合いを充実させていく、そういう会であるならば、会が深まるほどに狙いは一点に絞られていく。

特に、金的などの通常よりも小さな的を狙うときには、会の充実なくして的中は難しいだろう。

上達とは積み重ねること

2010年11月14日 | 積み重ね
先日、「なかなかうまくならない」と悩んでいた生徒にアドバイスした内容を書き残しておこう。

その生徒は大変まじめで、稽古も休まず、とても熱心に取り組んでいた。言われたことは素直に受け入れ、一生懸命にやろうとする。そういう子だった。

しかし、それでも本人のいうように、それがなかなか定着せず、そのうちにまた違う課題が出てきてしまうということの繰り返しだった。

そこで積み重ねることの重要性について説明した。

それは、一つのことを定着するまで続け、それが当たり前になるくらいまで何度も稽古する、ということである。

そのために、一つのことを彼女に課した。稽古の終了後、必ずその日に学んだこと、自分でやろうと決めたことを日記のようにメモしておくということだ。

これは実際に、私も何年も続けていることである。

稽古で気づいたことやつかんだことを箇条書きでよいのでメモしておく。それをいつも持ち歩き、暇なときなどに見返すのである。

これは一種のイメージトレーニングである。常に稽古をし続けることは難しいが、頭の中であれば、何度でも同じ事を繰り返しイメージできる。

これをより効果的にするコツは、稽古のあと、すぐに書くことである。身体の感覚というのは忘れやすいものであるし、ただでさえ言葉にしてしまうとその生々しさが消えてしまうものである。

それを少しでも残すためには、稽古の終わったあと、その感覚が残っている間に言葉にすることが重要である。

ちなみに、これは専門的には「省察」とか「リフレクション」などと呼ばれ、スポーツにおいても、勉強においても、上達する要として重宝される方法である。

彼女にも上達の味を早く知ってもらいたいと切に願う。


強い弓のススメ

2010年11月07日 | 積み重ね
身体を使って引くことの味を知らない人が多い理由の一つに、弓が弱いことが挙げられる。

身体を使うためには手先の力を抜くことが前提となるが、弱い弓であれば、たとえこれと一緒に身体の力が抜けてしまっても、ある程度の詰合いを維持したまま会に入れる。

しかし、強い弓ではそうはいかない。

手先の力と一緒に身体の力も抜けてしまったのでは、どうしても引分けが浅くなり、また会も浅くなる。

それを何とか深く詰合い、会を深く取ろうとするほどに、今度は手先に力が入ってしまう。

このジレンマを解消すべく稽古を積んでいくと、やがて身体で引く味を知ることになる。

しかし、弱い弓ではこのジレンマ(手先の力を抜き、身体はしっかりと力を入れる)が生じないために、試行錯誤が行われないのである。

稽古を積んで強い弓を引けるようになる、ということももちろんあるが、一方で、強い弓で稽古をすることで技を知る、ということもあることを忘れてはならない。

息合いを自然に行うこと

2010年11月03日 | 積み重ね
よく高段者の体配の稽古において見られる光景が、息合いのタイミングを体配に合わせようとしている光景である。

例えば、本座に向かって歩いていく際に、吸って、吸って、吐いて、吐いて、というようにリズムをとって行うように。

初段者の型稽古としては重要な稽古であろうが、高段者となってもこのように、体配に、息合いを合わせるやり方はうなずけない。

正しくは、息合いに、体配を合わせるのである。

なぜ息合いに合わせるのかといえば、呼吸こそ自然のものであり、生命の源であるからである。

当然のごとく、それを止めることはできないし、いわんやスピードをコントロールすることも生命のエネルギーを妨げる要因となってしまう。

したがって、息合いは深い息合いを自然に行い、それに体配、すなわち身体の動きを全て合わせていくのである。

こうすると、息合いの深さによって個人差が出るのは当然のことである。しかし、こういう息合い先行の稽古を続けることで、息合いが深くなっていき、誰もが同じようなタイミングに近づいていくのである。

最終的には、身体的な動きは全て無意識になり、呼吸だけを行って弓を引くような境地にまでなるという。

そういうところを目指すのが弓の道といえよう。

伸合いと的付けは表裏一体

2010年10月27日 | 積み重ね
私は会に入ったとき、的を満月につける。

これは師匠から受け継いだ的付けの方法で、「その方が弓手を押し開く余力が残るから」というのが理由である。

したがって、そこで終わりではなく、そこから弓手をさらに押し開き、ちょうど的が新月になる頃に離れが出ると、弓手に誘われて離れが生じたことになり、弦に矢が乗って矢勢が大変よい。

ちなみに、この方法で引くと会に入って離れまでが7秒くらい。会の長さとしてもちょうどよいように思う。

しかし、実際にはこのように的をつける人は少ないらしく、ほとんどの人は、会に入った瞬間から新月に入り、そこから弓手を動かさずに伸合い、離れまで至る。

あるいは、半月か満月につけ、そのまま伸合い、離れの瞬間に的の後ろ側に弓手を振り込むことで矢を直進させる。

いずれにしろ、的付けと伸合いの関係は深く、どちらか一方だけ研究しても中りは出ないものである。

※矢どころの高さを、矢摺り籐などを目安にして調整することを的付けと呼ぶ節があるが、これは間違いである。矢の高さはあくまで矢の水平具合で見るべきであり、極言すれば身体で覚えるのがよい。(修正してもキリがないため)

風船のごとく

2010年10月21日 | 積み重ね
弓で使う筋肉が伸筋(しんきん)であることはよく知られたことだが、伸筋を実際に使って引いている人というのは意外に少ない。

私が思うに、これはイメージの問題だろうと思う。つまり、弓を引くイメージを頭で思い浮かべたときに、弓を「引っ張ってくる」イメージなのか、それとも、弓を「押し開く」イメージなのか、という違いである。

伸筋のイメージは、明らかに「押し開く」イメージである。

言葉にしてしまうと、弓手を押すのか?胸を開くのか?というように、部分的なイメージを思い浮かべてしまうが、正しくは「身体(からだ)で押し開く」というイメージを持つことが重要である。

これを説明するときによく言っているのが、「自分の身体を風船と思って引く」ということだ。

「身体風船」に空気を入れていくように打起す。さらに空気を入れて大三を取る。さらに膨らませて爆発させるというのが引分けである、と。

このイメージは、呼吸法と相まって、本当に自分が風船になったかのように感じられるくらい、しっくりくるイメージと思う。

特に、会に入ってから伸び続けるということはなかなか実感しづらいが、この風船のイメージであれば、容易に実感できる。

一点、気をつけるとすれば、このイメージだけで引くと、どうしても妻手(利き手)が強くなってしまうので、そこは弓手に強く空気を入れるつもりで、あくまで弓手先行を意識することが重要である。

伸筋だけで行う伸合いは、本当に四方八方に飛び出さんばかりの張り詰め感を感じることができ、そこから生じる離れは本当に鋭く、何とも力強いものである。

正しい角見の利かせ方③

2010年10月16日 | 積み重ね
角見シリーズの最後として、次のことを考える。

「大三で柔らかい手の内に蓄えられた圧を、保ちながら会まで引分けるにはどうすればよいか?」

結論から言ってしまえば、身体の詰合いが緩まなければ、手の内の圧も抜けることはない。

したがって、大三で圧を蓄えたのち、手の内を意識するのではなく、身体の詰合いを意識して引分ければよいのである。

これを詳しく見ていこう。

まず、前回の復習であるが、なぜ柔らかい手の内で圧が蓄えられるのか?というと、大三に向かう際に手の内の角見(親指付け根の腹)が弓の角見に引っかかり、さらに大三に向けて握りが回るからであった。

このときに大事なことは、角見にひっかかった後、「さらに握りが回ること(接点は動かずに)」である。

ところが、手先で角見を利かせる人は、ここで「角見に力を入れていく」あるいは「親指をさらに突っ込み、手の内を固める」ことで、角見に圧がかかったような状態に持っていく。

これはまさに手先で角見を利かせているに過ぎない。

そうではなくて、前回、弦で握りを回して圧を感じてもらったように、「握りを回すこと」=「弦を弓手の角度まで引き倒すこと」が重要なのである。

これを大三で行うならば、「弦道をしっかりと身体に近づける」ということになる。

では、大三で蓄えられた圧をどのようにして抜けないようにするのか?

それは「さらに握りを回す(接点は動かずに)」ことによって、である。

このために、引分けは弓手を「押す」のではなく、「開いていく」のである。弓手を開いていくことで、弓手と弦の角度がより小さくなり、会に入るときにはほぼ並行(感覚的に)になる。

このように、角見を動かさずに(ねっとりと)、握りを大三から会に向かって回していくことで、いわゆるネジレが生じ、それが角見の圧となるのである。

これこそ自然の角見であり、決して手首や手指の力によって角見を利かせるのではない。