今回は、まったくの鈴木の趣味です。
エッセイの書き方教室に通っていて
そこに提出した作品をアップします。
お暇でしたら~
『銭湯のヤクザさん』
ふつうの銭湯なら、入り口に「入れ墨の人は禁止」とか書いてあるはず。けど、よく行く銭湯にはない。だからなのか、ヤクザの男と一緒になることがある。シャツを脱ぐと入れ墨の龍がこちらを睨む。それそのものは怖くない。なぜなら、年老いた皺には龍までも古めかしく見えるからだ。けど、やっぱり怖い。どうして怖いんだ?もし、目が合っちゃったら、「兄ちゃん、どこ見とんねん。その指、一本くれるんか?」とドスを効かされちゃうかも、という恐怖感。ふと、ヤクザの男の指を確認すると、きちんと十本ある。安堵。けど、そんなことは絶対にないことは頭では理解しているのだ。なのにどうして?
スッポンポンになった奴は、洗い場でお湯を二、三杯身体に流している。こっちもシャワーを浴びながら、奴の行動を目で追っている。奴は湯船に使った。ふと、奴に勝ちたいと思った。さあ競争だ。どっちが長くつかっていられるかの競争だ。ヤクザの男になんかに負けてたまるか。こっちをチラリと見た。ふん、奴も負けたくないらしい。よし、とことん行こうじゃないか。しかも長くつかった方がお得な感じもする。銭湯代は460円で、貸しタオル代が10円なので、締めて470円。5分つかったとすると1分で94円かぁ。そんなことを考えていると、奴の姿がない。なんと、洗い場で黙々と身体を磨いているではないか。「黙々と」が許せない。けれど、どうして勝ちたいと思ったのだろうか。そういえば湯船につかっている間、龍は見えなかった…。
とある議員が「LGBTは『生産性』がないので支援する必要はない」と月刊誌に発言して物議を醸した。これに対して、「生産性で人の価値を計るのはおかしい」的な意見を多く耳にした。ごもっともな意見だ。だけど、リアルな社会において「生産性」を常に意識してはいないだろうか?会社でもこの言葉を聞かない日はないぐらいだ。テレビで「おかしい」とコメントしてるあなただって意識してるはず。すると、「建前ではおかしい。けどね、本音はそうだよね」と内在化してしまう気がする。これは策略ではないか。とある議員だけではなく、この手の方法を使って、世論を誘導することが多くなったように思う。あえて差別的なことを言ってのけるのだ。当然、批判が起きる。けれど、そんな白か黒かで割り切れるものか?僕にはLGBTの知り合いはいない。「だから」と言っていいのか分からないけど、差別する気持ちはある。けれど、とある議員の発言は酷いとも思う。けれど、「生産性で人の価値は計れない」と大上段に言われると、「とは言ってもね」とも思う。こうやって、最初は灰色だった物事の考え方が、いつの間にか白か黒かに染まっていく。
奴の背中に龍が見えたとき、ヤクザだと思った。だから怖くなった。湯船につかっている間は龍が見えなくなった。だから気が強くなった。そんな”いい加減さ”で行こうじゃないか。