新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

ふうふう

2006年08月29日 07時59分49秒 | 管理・運営
 今年から教員個人の自己評価をネット上の評価情報システムに書き込むことになった。8月末が締切だというので、かなりの時間を費消して書き込んでいたのだが、ちょいと腹が立った。項目は教育、研究、国際交流、地域連携、管理運営の領域をそれぞれの個性に応じた重みをつけ、自由筆記をすることになっている。自由筆記であるということは教員個人の活動に対して形式的な枠組みを当てはめられなかったからだろうが、
 それならば、控えてもらいたかったのが各項目と関連のある中期計画の番号の記載だ。部局の中期計画と個人の教育、研究の計画とは書く視点がまったくちがう。本質的にちがったものを強引にくっつけさせようというのだから、おかしくなる。殊に教育、研究は無理だ。教育についての中期計画はほとんどハード、ソフトいずれについても条件整備や制度改革であって項目的には管理運営に相当するし、個人の教育に対する取り組みとはほど遠い。
 研究についてもそうだ。COEなんかにかかわった教員には近い中期計画の項目はないわけではないが、それらとて部局の看板となる研究戦略であって、個人ひとり一人をフォローするものではない。個人の研究計画を部局の中期計画との結びつきで評価していくとしたら大学という組織はいびつなものとなっていくだろう。人間の身体で言うならば脳や心臓だけで人間は存在しているわけではない。髪の毛なんてのは生き死に関係ないだろうが、それが人間の生活にとって重要なものではないのか。人間の暮らしに意味があるから人は櫛やブラシを使い、床屋に通うのであるし、薄くなったり無くなった人も逆に個性化や自己主張の原資にしたり、一方で鬘や植毛といった産業にも結びつく。存在理由の薄いものでも存在して人間としての意味が出てくる。
 部局や大学の重点施策は理解できるが(とりあえず管理職だし)、それのみを評価するような個人評価は慎んだほうがいい。幸い教員は社会的評価よりも自分の研究関心を重視しているし、そのことで大学はいびつにならずにすんでいる。これが評価を経て給与や昇進に影響するようになったら大学はまちがいなくいびつになる。
 中期計画は部局のもの、個人の業績評価は個人のものであるから個人の自己評価をさせるのならまず個人の中期計画でも書かせればいいのだ。おっ、仕事がまた増えるな。だから大学はあまり個人には介入しない方がいいのだ。


学校は軍隊に似ている―学校文化史のささやき

福岡県人権研究所

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