劇団夢桟敷 ☆2018.6〜山南ノート5

熊本アングラ万華鏡〜演劇とプライベートの徒然

週刊月曜日 第6号

2022-02-14 11:29:21 | 2020-2022 日記

劇団夢桟敷「週刊月曜日」

〈第62022.02.14発行〉

https://yumesajiki.jimdofree.com/

 

 

「夢先案内人」

 演劇実験部編集人 TNS

 

男はドアが開くとエレベーターに乗り込んだ。

ガールがお辞儀して、「ようこそいらっしゃいました。このエレベーターは誤解に参ります。お降りの方はボタンを押してください」

男は念の為に尋ねた。

5階はデジタル商品売り場ですよね」

ガールはお辞儀したまま、

「はい、Tsuruya百貨店は全てデジタル化しております。尚、このビルは平家一階建になっており、エレベーターは横に移動しております」

ガールは更に深く頭を下げた。

男は首を傾げて、

「え?このエレベーターは上下に動くのではないのですか?」

「エレベーターが昇降する?それは誤解です」

「それでは5階に昇ったのではないのですか?」

5階が1階より上にあるとは限りません。それは誤解です」

男はボタンを押した。

チン!

「降ります!」

男は一刻も早く、このエレベーターから降りたくなった。

いつものThuruya百貨店ではないことに気づいたからだった。

その時である。急ブレーキがかかったようにエレベーターが止まった。

ガールと男はよろけて狭い一室で転がった。

「何かに追突したのでしょうか?」男が聞くと、

「それは誤解です」とガールは答えた。

停電したのだろうか、エレベーターは暗闇である。

「停電ですか?」

「それは誤解です」

男は暗闇の中で手を弄った。するとガールの柔らかい身体を感じた。

「それは誤解です」

「あ、失礼しました。早く、復旧をお願いします。連絡してください」

ガールの息が男の耳元で荒くなり、

「それは誤解です」

とデジタルが壊れたのか、ガールは壊れたロボットのように「それは誤解です」と繰り返すばかりだった。

 

 

連載(6)寺山修司 想

 根本豊レポート

「私」の解体と構築=実験の場

 

我々は心の奥に、潜在意識とか欲望とか欲求、願望、反社会的なことなど、心の中に悪い自分、いけない子供を飼っていて、誰にも分からないように或いは、無意識にそれを養っている。

寺山さんはその子をかわいがってくれるから、いけない子供がわっと出てきて手足を伸ばして遊ばせてくれる。だから桟敷で芝居をやっているときは、どこか解放されているようなところがあった。

寺山さんは心の不良だった。

世間一般では不良を隠して生きなきゃいけないが桟敷では不良でもいいんだと思わせてくれる。

寺山さんの世界が懐かしいところがあってリラックスするのは、その不良を愛してくれるから。子供の頃の不良性を容認してくれる。心の中の魔物を上手く解き放す。

ファシストでありアナキスト。我々の前ではすぐムキになるやんちゃな兄貴。

寺山さんは劇団、劇団員に、自分では築けなかった家族を投影しているという人がいるが、家族というよりは秘密の少年探偵団の結社的つながり、ぢかもいたずら心一杯のやんちゃな集団をまとめていたと思う。

 

そして私に伝えたかったことは、既成概念をぶっ壊せ、違和感を持ち続けろ、「私」という実験を終わらせるな。

 

私捜しの元祖とか誤解されやすいが、私捜しの人と言うよりは「私」なんかないんだと。

「私」は解体した方がいいんだと言った人です。

人は気分の記憶から解放されない限りは本当に解放されない。

レミングのテーマでもある。

「私」という物を解体しながら、新しい「私」を構築してゆく。「私」を否定するのではなく「私」を実験の場とする。

 

それは現実でもフィクションでもない場、もしくは現実でありフィクションでもある場。そのような場から演劇が生まれる。だから演劇は「私」のことであり、その「私は」こそが、現実も虚構・フィクションも変革できる可能性を持つ。

 

寺山さんが私に言った言葉の記憶を最後に。

それは、寺山さんの作品「さらば映画よ」を初めて寺山さんと共同演出した時です。

それはネギの話。この作品にはネギの事なんか一つも出てきません。でも

「私が好きな芝居はこんな芝居だ。その芝居を見たあと、たとえば渋谷駅前の立ち食い蕎麦屋に入って、普段はネギなんか絶対入れないのに、なんかその日はふとネギを入れて食べてみようかなと、そんなことを思わせる芝居。これがオレの理想の芝居だ」

この想いは大事にしていこうと思っています。

 

 

遊戯療法(4)

 眠り男の終わり

 山南純平

 

眠り男はドイツ映画「カリガリ博士」に登場するチェザーレを模倣した。

しかし、日本人が眠り男の役を名づける時、チェザーレはミチロー君となってしまう。

これは丸尾末広の漫画「カリガリ博士復活」に影響されたからか?

否、日本のパンクバンド スターリンの遠藤ミチロウに近い。

ドイツ表現主義とパンクバンド、日本アングラ演劇はどこかで繋がっているように思えるけれど、それを解明することは後出しでも構わない。

要は俳優術は「遊戯療法」足りうるか?をテーマとしたドラマ作りにある。

「遊戯」を「演劇」に置き換えることに抵抗を感じる演劇人も多いことだろう。又、「演劇」を医療的な処方と考えることも医療専門分野では不可解なことだろう。

 

眠り男は目を覚さない。

夢遊病と言われる症状で夢の中と現実を行ったり来たりする。

俳優が役に入り込む時、夢遊病と言えるだろうか?

狂気を演じる時、狂人は俳優にはなれないだろう。俳優は正気でなければ狂人になれないと思うからだ。

自分の中に狂気を見つけ出す力は正気な観察力と冷静な発見する力がいる。

学者のように理力で突き詰めると、俳優としては身体がぎこちなくなる。

稽古場で眠り男を学術的に説明するようになると劇がシラケる。稽古が止まる。知識よりは役に入るきっかけと何度も繰り返す刷り込みの方が重要だからだ。

刷り込みと言っても変化する。

 

眠り男は眠らない。

目を閉じると夢が開く。

短編オムニバスで「遊戯療法」の台本を進めています。

終わりのない作業ではあるが、眠り男には終わりがある。

ネタバレに注意を払いながら、夢を見なくなったら、ハイ、オシマイよ。


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