葛禮本神社の境内に(栄鉾祠)と言われる小社があります。5千年ぐらいまえに子授けの神として崇められた石を祀神とされています。これを縄文の石棒と云われています。縄文時代の中期に子授けの神として男性器を形どったものを祀られたもので、長さが95cm細大径19㎝重さは57㌔で、傘状2段の頭部をもっています。その他にもこのお社には子連れの狛犬があり、正面社殿の大屋根には金色に輝くハートマークがあって、神社の境内には子授けの神さんらしい雰囲気がありました。又、この地域は縄文時代には大規模な集落があったと推察されています。
丹波、今の京都綾部地区、山家の藩主一万六千石の谷家が、上林川の左岸に築かれた崖縁城の遺跡です。現在は公園化されて郭、空堀、そして写真の模擬城門がのこされています。たまたま訪れた時は積雪があり、空掘りなどは雪でよく識別できませんでした。しかし山城であつたことは、山あり谷ありの崖ぶちに建つ、その厳しい地形からも偲ぶことができました。明治維新の廃藩置県で廃城になっています。
京都府下木津市の蟹満寺は宝暦9年、1579年に再建され250年を経て平成22年に改築されました。平安時代から後は今昔物語に見られる《蟹の恩返し》の語り伝えで有名です。話は、観音さんを信仰する娘が蟹を助けました。その父が蛇に飲まれそうな蛙をたすけるために、呑まなければ娘婿にとすると約束したのですが、約束を違えました。蛇は怒り荒れたのですが、娘に助けられた蟹が蛇をハサミで寸断すると云う民話です。蛇と蟹の物語をあらわしたとおもはれる掲額の場面がこの絵姿です。
篠村八幡宮は京都に通じる山陰街道筋の亀岡にあります。足利高氏が後醍醐天皇の勅旨をうけ鎌倉幕府倒幕の旗につきました。この挙兵のとき、1333年に篠村八幡宮に戦勝を祈願して六波羅探題を攻め、鎌倉幕府を倒しました。そのご、240余年つずいた室町幕府の初代将軍となっています。この故事に倣って、明智光秀もこの社から挙兵し本能寺の変で織田信長を倒しています。
京都府下亀岡市の桑田神社の祭神大山昨命と鍬山神社の祭神は、大昔に湖であった亀岡を保津峡を開削することで湖の水を流出し盆地化したとされています。亀岡盆地の誕生です。このようなことから開拓に使った鍬と短剣が桑田神社の御祭神となっています。社殿は保津峡入り口近いやまの中腹にありました。
京都府下の宇治田原町に元長五年(828)に弘法大師が開かれた真言院があります。この寺院の境内に、弘法大師が錫杖を使って掘られたと云われる井戸があります。亀の井戸となずけられて小さな覆い屋の中にありました。
前出した普済寺の参道を出たところに、開基者である足利尊氏の妹、仏性院千種を祭る五輪塔が立っていました。その近辺には信者さんである方の、角柱の簡素な墓標があり、周囲の山々とよく調和して静寂な雰囲気をただよわせていました。参詣用の大きいものを建てるようになったのはもっと後の時代になってからのようです。
京丹波町の普済寺は南北朝時代(1357)の創建で,開基されたのは足利尊氏の妹、千種姫とされています。建築としての建物の特徴は、軒先の曲線が隅で大きく反りあがっていることのようです。旧法の国宝建造物に指定されていました。たまたま訪れた日が千日参りの日で、村人が仏殿の清掃に来られていて、閉じられていた扉を開けてくださいました。千日参りに訪れた御かげでしょうか。
丹後半島に存在する古墳時代中期<千年ぐらい前>の、ニゴレ古墳群から出土した船形埴輪です。この古墳からは家、兜、盾、甲冑など多様な埴輪が出土しました。出土品の一つである船形埴輪は造船が部分的に行われた準構造と云われる方法が取られており船首は波切のため鋭角になっています。又、舳先にはしぶきを遮る盾状のものがみえます。丹後の当時の古代人は、この船によって日本海を渡り朝鮮半島との交流があったであろうと推察されます。
園部城跡は、京都府下南丹市の園部町にあります。明治元年、陣屋としてあったものに櫓門と二つの櫓が建てられて日本で築かれた最後の城となりました。現在は城跡に京都府立園部高校があります。城の櫓門がこの高校の正門として現存されています。門の左側には大砲を打つための砲口を出す穴がもうけられています。この門に大砲を載せたと云うことは、当時の大砲は小振りなものだったと思われます。門に通じる坂道は城壁に囲まれていて、その内部に美しい巽櫓,三層櫓が現存しています。