京都から奈良への道、現在の国道24号線です。京、奈良の間の通行はこの道が1本でしたので車が大変停滞しました。今はバイパスができまして、混雑もずいぶん緩和されていますが、それでも混雑する道路です。先日、24号線の長池の路側に昔の道標をみうけました。これより京へ三里奈良へ四里と記されています。昔の旅人は、をこれを見て歩いておられたのが偲ばれます。
煙草を宣伝媒体としての利用ができた時代に名古屋地方で使はれた煙草ケースです。浮世絵のような図柄を用いられています。名古屋で染色が地場産業とは思はれないのですが、この地方で活躍されていた花野と言ふ事業所のようです。
河内、若江鏡神社の社殿の裏てに、鏡塚といはれているお宮がありました。三韓征伐と日本書記に記されている戦の帰途、神攻皇后が鏡をこの地にうずめたと言い伝えられているようです。その鏡をうずめたところに祀られていた塚とお宮さんです。
栗東、競馬フアンならご承知のとうり、競走馬の大規模なトレーニングセンがあります。新幹線の駅の新設が知事判断モッタイナイで取りやめになった町です。そこのjr栗東駅前のバス停のところに馬のモニメントがありました。立ち上がって喜んでいるのでしょうか!、トレセンんの町らしい風景でした。
琉金を飼育しています。左端に長さ15cmほどの水温計があります。これと比べて、この金魚は、全長が頭から尾びれの端まで20cmぐらい、背びれと腹びれでの高さは15cmぐらい有ります。飼育を始めた頃は、水は美しく、水草をいれて手間をかけていましたが、失敗を重ねてくると、水が少しぐらい濁っても、ある程度そのままの方が良く育つようです。この金魚は大きくなりました。美しくと世話がすぎるのも駄目のようです。
河内西国二番霊場 念仏寺の門の屋根に座っていた鬼さんです。本堂に祀られている観音様は創建時の1200年ごろから、あちらこちらと流転の後、今の久宝寺町に祀られたらしいです。この鬼さんは何時ごろから座っておられるのか、推測しがたいのですが、当時、門のうえに電線が走ってなかったことだけは確かです。風雨にさらされて左角が折れて欠けていることからも、年月を感じます。
駅前の道端に植えられていました。梅の花の形によく似ている花がたくさん咲いていました。これは栗東市の道路にうえられていたものです。路傍に植えられている低木も、各、自治体によって特色があるようで、地域によって品種が違うようです。花の名前を特定するのは苦手なのですが、多分これはキンシバイだと思います。
福岡の柳橋通りにあったらしい 酒場やよい の煙草ピースの送呈品です。数十年前のことですが、当時休日は一般に日曜日だけ、官公庁は土曜日の午後が休みなのでうらやましく感じたものです。私もその頃、福岡での勤務経験がありますが、当時のサラリーマンはたまの日曜日に、このようなおみせに息抜きにかょって、元気回復を図ったのでしょうか………
半世紀以上まえの家庭では竈の有るのを見受けられた人もあると思います。むかし、八世紀の人達も、生活の場を持ち、火を使う場所を設けてあったように見受けます。現代人はレジャーのために、携帯バーナーを使いますが、奈良時代の人達が必要の生じたときに用いられた、取っ手付きの移動ができる竈と土釜です。当時の最先端生活用具の一つでしょうか!八尾埋蔵文化財センターにてみかけたものです。
市内にありながらまだ緑の豊かな山間地に、背丈が高いタンポポが自生していました。群れをつくって咲いていてその一部に綿帽子があり、変ったタンポポだと思っていました。ところが知人から、これはヨーロッパ原産の移入種、ブタナだと聞かされました。日本ではタンポポモドキと言ふらしいのですが、眺めて美しければ良いと言いながらも、やはり名前が解れば、もう少し興味が湧くのかな、と考えたりしています。