兵庫の赤渕神社の楼門の四隅の柱に飾られていた木鼻の彫刻です。明治時代の神仏分離令の廃仏毀釈で廃された、神淵寺の山門がこのお宮さんの山門のようです。大抵の木鼻はどの種類の動物なのか判じるのが難しいのですが、この偶像は羽があって、角らしきものもあり、架空の動物であっても、それ以上に判じにくい形体におもえます。
但馬地方の朝来市、竹田の街道筋の民家の屋根で見かけました。多くの民家の屋根瓦は黒光りした艶のある瓦で葺かれていました。その中の数軒の民家の隅瓦に頭に頭巾を被った大国さんを配した瓦がありました。大国さんは怒りの神様であるとともに、福の神でもありますので、厄を祓い福を願っての使用なのでしょうか?優しさを感じる鬼瓦です。
処暑と云いながらさすがに30度をこえる日中の猛暑も、比叡の山の端が夕闇に包まれるころには少し涼を感じます。いつも住まいからこの夕闇を眺めますと気分が涼しくなるように思います。家から琵琶湖まで5キロぐらいですが、一衣帯水、この湖水の彼方に聳える山の向うは京都の市街地です。山越え車のドライブで小一時間ぐらいかな?下りた所は大文字山麓で銀閣寺の近く…
暑さ寒さも彼岸までと云いますが、来年の春に咲く鉢植えの椿の花芽が膨らんできました。暑さがきびしかったこの夏でしたが、花芽には恵まれて数多くの花芽が育っているようです。来る春にそなえての植物のたゆまない生長を感じます。
明治27年(1894)、今から118年前、明治時代の初期の官庁の書類のようです。近代国家えの明治維新から国家体制が始まって25年目の岩手県の公文書とおもはれます。紙は和紙でサイズは330mm×245㎜,紙端は自然に漉いた状態で、一枚漉きのようです。大体B4の大きさです。厚みは今の上質コピー紙の半分ぐらいの薄さです。書式も今から返りみますと随分変わっていて、又、大変達筆で記されていますので、解読するのが難解です。煙草小売鑑札の交付を願うもののようで、岩手県知事、服部一三に依頼したもののようです。前書の通り相違ありません。明治27年5月9日とされています。これを依頼した盛岡市長、清岡等の名称が文末に大書されています。ナンバーが国策五二六号と朱書されています。現代のコンピューターの時代とは異なり、用紙、筆記具、書式、保存の方法etcの、問題にさまざまな歴史の原点がしのばれます。
私の住む街も市街地化が進みまして、以前は広く見渡せた田んぼも、いまでは1枚だけの田が耕作されていて、稔りを迎えているようです。さすがに町なかの稲作ですので、雀に食べられないように、田圃の稲穂のうえに1㍍ぐらいの間隔で赤色と銀色に光を反射するテープが張られていました。最近はスズメもあまり見かけないのですが! 以前はたしか、あぜ道にはイナゴと云はれる昆虫が跳ねていたのですが、この稲子も全く見かけなくなりました。この現象、良いことなのか?良くないこと?なのか…… 私が子供の頃にはイナゴを取り、佃煮にしたものでした。それは美味でした。
高槻市に存在する国史跡の今城塚古墳の外郭土塁上の一角に配置されていた埴輪です。実物は資料館に保存されていて、今、目にしている物はコピーですがその形や大きさ置かれていた位置は当時のままとのことでした。神殿風家形埴輪あり、武人埴輪ありで、動物もありました。全長350㍍、墳丘の長さは190㍍あり二重の周濠をもった戦のための城でもあったようです。
京都グランドホテル内の三店舗のバーが、1972年6月1日~28日まで、バーまつりの企画をされました。14階のbar"top of kyoto"と、1階のbar"kaede"さん、& 地下1階のbar"granada"の3店舗で企画されたようです。お客さんに贈られた特別包装のロングホープの煙草です。40年も以前のことですので今もこの階で、この店の名前で営業されているか?どうかは定かではありません。
華やかな色にとぼしい夏のベランダで、100円で求めた一鉢の日々草が、思いのほか長く目を楽しませてくれました。黒いビニールポットに植えられていた苗を鉢に入れて、水遣りと花柄を取り去るだけ……、これで一ヶ月以上も咲き続けています。夏の暑さに負けないで彩りを添えてくれた花に感謝です。
ここ新池埴輪の製作地は、国の史跡で、5世紀~6世紀のハニワ製作所窯跡があり、18基の窯跡が確認されています。斜面に縦に植え込まれたツツジの線がみえますが、この位置に窯があったらしくて、この写真では4つの窯跡がみえます。丘の上の茅葺小屋で埴輪が製作されたようです。日本全国では90ヶ所ぐらいの埴輪製作所跡がありますが、新池はそれらののなかでも最大規模のものです。時代の経過とともに、丘の後方にはマンションが立ち並んでいました。