この橋(端)渡るべからずの立札に、それでわと真ん中を渡った頓智の一休さんは、かわいらしい小坊主の印象があります。先日京田辺市の一休寺を訪れました。寺の規模の大きさやその人物像が、想像しているものとまったく違ったものでしたので認識をあらためました。一休さんは皇族の人らしく寺の境内を入ったところに、宮内庁が陵墓として管理されている墓所がありました。慈楊塔となずけられた立派な建物の中に墓があるようでした。方丈の中央に安置されていたこの木像は一休さんが88歳のときに作らせた等身像で、頭髪と髭は一休さんのものが使用されているようです。重要文化財に指定されています。又、一休さんの自由奔放な生きざまは、人間的で男らしいとも云われているようです。
京都六地蔵の一寺、大善寺の創建は慶雲2年(705年)です。開祖定恵が熱病の病いのさ中に地蔵菩薩と出会いました。その時の地蔵菩薩の教えで一本の桜の木から六体の地蔵菩薩を刻み、京都え入る六本の街道入り口に六角形のお堂を建てて、一体ずつ分けて祀ったとされています。その中で伏見地方にある大善寺の地蔵菩薩は平安時代の製作で、座高151cm、美しく彩色され、国の重要文化財に指定されています。
江戸から明治の時代には、京都から大阪えの淀川水運は重要な輸送手段で、壕川の伏見港はその重要な拠点でした。写真は三栖閘門の京都伏見港側の閘門(水門)で閘門の下部向こう側に少し赤く見えるのが淀川側の閘門です。舟がこの門と門の間に入った時に、閘室からの操作で水位の高さを上下して、舟を淀川え、又淀川から京都の伏見港えと運航していました。明治10年陸上交通が発達するころまで、この三栖閘門で年間2万隻いじょうの通航がありました。
京都府下の南部に位置する精華町の武内神社は武内宿禰を祭神とするカラフルなお社です。文保元年(1317年)年の創立です。ここの社殿の側面に描かれている動物ですが獅子の絵と思われます。神社の社殿に絵が描かれているのは、当時の神社の、信仰にたいする畏敬の念の配慮が見えるように思われます。
乃木希典。日露戦争の日本海海戦で大勝利をされた陸軍大将です。明治天皇の崩御の際には殉死されました。この乃木希典を京都の明治天皇御陵の近辺に祀られたのが乃木神社です。この乃木神社の拝殿正面に掲げられている額縁には二匹の馬が描かれています。海戦で (うまく上手に勝った)?からでしょうか?馬勝ったで、勝負事の神様としても崇められているようです。
京都府相楽郡の武内神社は文保元年≪1317≫に祀られています。社屋の全体が彩色されていて華やかな印象をうけます。たいていの神社の正面拝殿の上に蛙又がありましてその内部には素掘りの竜の細工物をよく見受けます。ここ武内神社では嘴の赤い名前の判らない鳥があしらわれています。竜とおなじ様に架空の動物なのでしょうか??
807年に創建された京都府下精華町の春日神社、朱塗りの色鮮やかな小さなお社です。重要文化財に指定されています。このお社の絵馬堂に元和6年(1620年)に奉納された絵馬があります。絵馬には <元和六年に奉掛絵>と書かれているのが読み取れます。この絵馬が400年近くも、よくぞ保存されてきたものだと感じ入ります。この黒い馬の絵馬は、村人の雨乞いのための絵馬だったと云うことでした。逆に晴天を願うときは白馬の絵馬で祈願したようです。
京都府、精華町の木津川を望む鞍岡山の山頂付近にに1~4号の古墳郡があります。500年ごろの古墳時代には樹々も茂っていなくて、この地から木津川の景色が一望出来る景勝の地でありました。この写真は2号墳です。直径25mの円墳でまわりに幅が約2.5mの周溝があります。この古墳のふもとにある南京都高校には、ロンドンオリンピックのボクシング金メダリストでプロボクサーの村田諒太が在籍していたようです。
久しぶりに京都丸山公園の近辺を散策しました。平成30年の竣工を目指して工事中の知恩院本堂が立派な覆い屋のなかに納まっていました。国宝の本堂そのものが巨大なものなのですが、現代の技術による覆い屋と言いながらも、工事中5~6年も風雪にたえねばならないこの建物もその役目は国宝?級…
全国に祀られている稲荷大社総本社を訊ねました。京都の伏見にあります。JR奈良線稲荷駅の改札口を出ましたら目の前に、大鳥居と狐が出迎えてくれました。千本鳥居として語られます鳥居が、稲荷山の頂上に向かって隙間なく立ち並んでいました。道を下から見る分には赤いトンネルの中ですが、途中で後ろを振り返りましたら、各鳥居にそれぞれ全国からの奉納者の個人名や社名が記されていました。設置には、費用2~10万ぐらいのものから100万円をこえるものまで有るようでした。千本鳥居の入り口に立っていた最大のものは、広告代理店D社が創業記念日に建立されたもののようでした。