大阪府の池田城址は、戦国時代にこの地に勢力を持っていた池田氏の居城跡です。東西330メートル南北550メートルの規模ですが、池田の町を見下ろす台地にあります。平成元年のころから城址の発掘調査が行われ11年ごろから公園化されました。天守閣は史実に忠実なものではないようですが築城当時の規模は偲ばれるようです。池のちかくに築城時の礎石がのこされていてここからも当時の城の姿が推察されたようです。
大阪、豊中の桜塚古墳群は、古墳時代中期の北摂地域を代表するものとして国の史跡指定をうけています。36古墳がありましたが宅地開発などで現在は5古墳が残っています。その中の小石塚古墳は前方後円墳で、全長49メートルで二段構成になっています。後円部の直径は約29メートル高さ3メートルで(薄く白いところ)前方(写真下の色ずいたところ)部は高さ約2メートルです。後円の部分と前方部の1メートルの高さの差がよく分かる景観になっていますので1段目と2段目の区別がよく判別できるようです。
古墳のうえに神社や他の施設があるのはよく見聞しますが、これは滋賀草津市の野上神社の境内地を墳丘とする前期古墳時代の直系38m高さ2m半の円墳です。古墳時代に当地を治めた豪族の古墳のようです。時がながれこの古墳の上に祀られた村外れの鎮守の神様も、いまでは四方を人家の用地に取り囲まれていて、ここに古墳があったのが理解できないぐらい小規模な神社になっています。しかし、草津市内にいくつかある古墳のなかでは最古級の古墳のようです。
戦国時代の有名な武将に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康があります。現代に残る史跡とされるものは徳川、豊臣、に比べて織田家は少ないように思います。信長の墓所とされる本能寺や安土城跡がありますが、史跡の数としては少なく思います。そんななかで丹波市には明治の廃藩置県まで九代にわたる織田家の存在がありました。今は廃寺となった静寂な山すそに歴代藩主の墓所が残されています。
野洲市の弥生の森歴史公園にある実物大に復元された竪穴住居です。先日恐竜の住んでいた現地で1億年前の時代に夢をふくらませました。現在、人類(猿)が出現して50万年。それに比べたら、今、復元された竪穴住居が見られる3000年~4000年まえの弥生時代は、住居や水田や狩りがあって、人類の近い近い過去の生活だとかんじました。
丹波市で発見された恐竜の化石は丹波竜と名付けられました。白亜紀の1憶2000年~1憶4000年前の地層から発見されました。現地川べりの 幅 5メートル位の歩道に恐竜が歩いた足跡と思はれる、三つ指のバレーボールぐらいの大きさのマークが、恐竜の歩幅 6メートルぐらいにあわせて点々と記されていました。歩幅から推測しても巨大な生きものだったようです。1億年もまえの時代に、この川べりを恐竜が歩いていたのかと思うと、タイムスリップして想像してみても、当時のけしきは夢のまた夢の別世界です。
丹波市の国指定史跡、八幡神社は明治の神仏分離まで同じ境内に寺院がともに祀られていました。廃仏毀釈のときに、寺院が下山され三重の塔が神社の文庫として利用されることになり、、破壊されずに残されました。残された塔は文化13年(1816年)の建立で高さは23メートルあります。この塔の一階の四隅でこのようなヒト型が建物をささえていました。約200年まえの人形ですが、現代につうじる風情のある容貌を感じます。
琵琶湖湖南の芦浦観音寺跡は25,800平方メートルの広大な寺域をもつ安土桃山時代からあった寺院です。織田、豊臣、徳川時代にわたって、歴代の住職は琵琶湖の湖上交通の管轄権を持つ船奉行で、4万石の幕府代官でした。広い境内には重要文化財の阿弥陀堂や国指定の書院があり、書院のたてものは徳川家康の宿泊所であったとも云われています。外郭は石垣や堀にかこまれていて城館のおもむきがあります。
稲荷山で広場を睥睨していた狐。稲荷山のすそのに広大な面積を占めるきょうと伏見稲荷大社、毎年初参りには大勢の参拝者があってにぎわいます。この神社の境内の広場を見下ろしている狐です。社殿から鳥居まで赤色に彩られている稲荷神社ですが、狐さんまでもが赤いよだれかけを着けていました。&、口には油揚げではなくて、何であるかよく判りませんが紐のようなものを付けた巻物のようなものを咥えていました。その後、聞きおよんだところによりますと、神社の宝物を守るための鈎を、口に咥えているとのことでした。
京都の稲荷大社の狐さんは多様な顔をみせますので、その度にこれは何?と考えさせられます。このパターンは大社正面入口に面して座っている狐です。口に咥えている油揚げはそれとしても、尻尾の先に乗っている金色の物が何であるか分かりません。酒を飲むサカズキだと云う人もいるのですが?……口に油揚、尾っぽに盃、さすがに商売繁盛の神さんを守っている、稲荷の狐はいそがしいようです