武弘・Takehiroの部屋

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全てが“必然”である

2024年05月17日 02時56分48秒 | 思想・哲学・宗教

〈以下の文を復刻します。〉

私はこの世の出来事、現象は全て“必然”だと思っている。そう考えることによって、自分の人生が救われたと自覚しているからだ。 こういう考え方は、運命論や決定論と相通じるものだが、根底には「汎神論」がある。今ここで汎神論について、あれこれ述べるつもりはない。ただ一つ言いたいことは、汎神論が運命論や決定論、そして「必然論」と密接に繋がっていることを指摘しておきたい。少なくとも、私の思想の中ではそうである。
難しい哲学的な話はしたくないので、私がかつて書いた小説『青春流転』の中から、なぜ「全てが必然」だと理解したかの件(くだり)を以下に紹介したい。それを読んでもらえれば、必然論の核心が分かってもらえると思うからだ。
主人公(村上行雄)は19歳の大学1年生で、いろいろな煩悶・苦悩の末に上記の思想に到達するのである。なお、小説の時間的設定は、1961年(昭和36年)初頭となっている。

『 彼は長い間、物思いに耽ったりメロディーを口ずさんだりした後、喫茶店を出た。 もう夕刻になっていたので、帰宅を急ぐサラリーマンやOL、若者達が人波をつくって新宿駅の方へと流れていく。 行雄も人の流れに身を任せるようにして駅に向った。
 ラッシュの人込みが今日はヤケに神経に障る。群集に押しつぶされるような思いで、彼は改札口を通った。 駅構内のガヤガヤした騒音、電車の発着する音、スピーカーから流れ出る駅員の甲高い声・・・それらが混然としてうるさく耳に響いてくる。
 行雄はなにか“もうろう”とした気分になって、山手線のホームに通じる階段をうつむきながら上っていった。彼の意識は間違いなく“ぼんやり”していた。 そして、ホームに出て顔を上げた瞬間、彼は愕然として立ちすくんだ。
 その時、行雄ははっきりと見たのだ。 一瞬、群集の動きが“静止”したかと思うと、また動き出したのだ。その時、彼の頭脳を何かがはっきりと強く直撃した。 行雄は目眩を起こしホームの端の手すりにつかまった。後方から階段を上ってきた人達が、いぶかし気に彼の方を振り向いて通り過ぎていく。
 これだ! この思想だ! 行雄は心の中で叫んだ。 彼が見たのは、全ての群集が寸分の狂いもなく、己(おのれ)の運命に従って決められた通り歩いていることだった。サラリーマンもOLも、アベックも親子連れも、男も女も皆そうだ。 その瞬間、行雄は「全てが必然」だと知った。
 全てがなるようになった。全てがなるようになっている。そして、全てがなるようになっていく。つまり全てが必然なのだ。 行雄は“救われた”と思った。この思想が真理だと思った。 世の中には、偶然などというものは一切ない! 全てが必然なのだ。
 行雄は興奮を抑えることができなかった。彼は電車に乗り込んだが身体中に震えが起きて、興奮のやり場がなかった。 両手の拳を力一杯握り締めていたが、ラッシュの人込みの中では耐えるのが困難であった。
 やむをえず、彼は途中の高田馬場駅で降りると、大学の方へ向って歩き始めた。 雨がかなり強く降り出してきたが、そんなものは問題でなかった。興奮しているため、冷たい雨雫が頬を伝って流れるのが、かえって気持良く感じられた。
 この世に偶然はない! 偶然というものは、浅はかな人間が考え出した“便宜的”な一つの概念にすぎない。偶然と思われるものも、実は全て必然の中にあるのだ。 例えば人間は皆、自由意思か、規則や命令の中で動いている。実はそれ自体が、必然の中にあるのだ。
 もし、人間が思わぬ“偶発的”な事故や災難に遭ったとしよう。 人間は誰しも、事故や災難を嫌う。誰もそんなものには遭いたくないと思っている。 しかし、事故や災難はしばしば起きる。そこには、人間の意思を超越したものがあるのだ。 そして、そこには必ず然るべき“原因”があるのだ。
 ということは、誰もが嫌がる事故や災難は、初めからそれが起きるように運命付けられているのだ。 これは天災、人災を問わない。起こるべくして起きるのだ。 人間は誰しもミス(過失)を好まない。しかし、誰かのミスで人災が起きれば、そのミスが原因となる。 そのミスはなぜ起きるのか。誰もが嫌がるミスは、人間の意思や能力を超えて起きるのだ。
 人間の意思を超越したものは「運命」である。 ところで、われわれ人間は、大なり小なり「自由意思」を持って行動する。 一見して、運命や宿命に抗しようと思っているかもしれない。あるいは、運命や宿命を無視しようとしているかもしれない。 しかし、人間という動物が「自由意思」を持つのは当然であり、それ自体が人間に与えられた「必然」なのである。 もし人間が自由意思を持たなかったら、人間ではなくなってしまう。単なる猿と同じだ。
 だからこそ、人間は大いなる必然の中で、自由意思を大切にして行動しなければならない。それが人間の証明ということになる。 人間のみに与えられた「自由意思」も、天から見れば「必然」そのものではないか。だから全ては必然の中にある。 行雄は雨に濡れながらそう考えていた。』

以上、私が「必然論」に到達した経緯である。(2008年7月22日)


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