武弘・Takehiroの部屋

人生は 欲して成らず 成りて欲せず(ゲーテ)

ドン・キホーテよ、現われよ!

2024年06月20日 12時35分53秒 | 思想・哲学・宗教

<昔、書いた記事を一部修正して復刻します。念のため、2002年8月に書いたものです。>

1) 真夏の暑い日が続くので、家の中で何か本でも読もうと思い、図書館へ行って本を借りることにした。 いろいろ物色していたら、スペインの作家・セルバンテスの「ドン・キホーテ」が目に付いたので借りてきた。 50年ほど昔の少年時代に、たしか子供向けの「ドン・キホーテ物語」というのを読んだ記憶があるが、本物を読むのは初めてである。
 「ドン・キホーテ」(岩波書店発行・牛島信明訳)は膨大な分量があり、涼しいエアコンの下でじっくりと読むには相応しい大長編小説である。 今から400年ほど前に書かれたこの小説は、世界文学の中でも最も有名な作品の一つに挙げられている。

 ストーリーは、“騎士道物語”を読み過ぎて頭がおかしくなった初老の男が、自分も騎士になることを決意し、この世の不正と戦い、悪者を退治しようとスペイン国内を遍歴するというものだ。 オンボロの鎧兜に身を固めたドン・キホーテは痩せ馬にまたがり、従士のサンチョ・パンサを引き連れて数々の戦いに挑んでいく。
 ところが、風車や羊の群れ、商人や修道士などをことごとく敵と間違え、荒唐無稽で滑稽きわまりない戦いをしていくので、全編これ腹を抱えて笑うようなパロディーとなっている。 数多くの冒険に挑戦しては失敗し、やがてドン・キホーテは失意の内に故郷に帰るという物語だ。
 しかし、数多くの失敗を繰り返しながらもドン・キホーテは颯爽としている。毅然とした“騎士”の精神を貫いていく。 どのような嘲笑、失笑、冷笑を買おうとも、騎士の誇りを堅持していくのだ。この辺が、大笑いのパロディーになっていても、ドン・キホーテの魅力なのである。

2) 人間の性格、人格を分析する時に、よく「ハムレット型」「ドン・キホーテ型」という言葉が出てくる。これは非常にポピュラーなものだ。 シェークスピアの戯曲の主人公で有名なハムレットは、優柔不断でなかなか決断出来ない人間の典型となっている。 これに対しドン・キホーテは、現実を無視し独りよがりの正義感から、向こう見ずな行動に走るタイプと言われている。
 人間を2つのタイプに分けるのは、もとより乱暴であり無理がある。しかし、ハムレット型とドン・キホーテ型は典型的な区分としては分かりやすいものだ。 我々が見る限り、この世にはハムレット型の人間が多過ぎるのではないか。 逆に言えば、ドン・キホーテ型の人間は少ないように見える。
 特に現代の管理社会では、企業でもどんな組織でも、自分勝手な判断で独走するなどということは出来るはずがない。 組織の中では独りよがりの行動は出来ないのである。 従って、ドン・キホーテのように行動するとなれば、フリーの人間か、フリーの集団でなければ不可能である。このため、ドン・キホーテ型の人間は益々少なくなってきたのだろう。

 ハムレットのように高貴な精神を持っていようがいまいが、優柔不断でグズグズしている人間は多い。こんな例は我々の周りにいくらでもある。 逆にドン・キホーテのように、他人から何と言われようとも、毅然として我が道を突き進むという人は滅多にいない。 ということは、ドン・キホーテ型の人間は希少な価値があると言えるのではないか。
 また日本では、明治維新から第2次世界大戦の終了までは、善し悪しは別として「男子 志を立てて郷関を出づ」とか、「少年よ 大志を抱け」といった勇壮な気概が充溢していたと思うが、戦後は時が経つにつれて、偏差値教育などの影響からか、気宇壮大な志というものはだんだん影が薄くなってきたように見受けられる。
 勿論、少数の若者達には、高邁な理想や大志といったものが生き続けているだろうが、戦前のようなダイナミックで勇壮な気概は、一般的に失われてきているようだ。 戦後は全体的に“小市民的”な風潮が根強くなってきたと言える。

3) 私はなにも、戦前の方が善いなどと言っているのではない。 戦後民主主義の成熟の中で、平和で穏やかに小市民的に暮らしていくのも結構なことだ。 しかし、そうした風潮が“事なかれ主義”と“惰性”を助長してきたのも事実である。
 最近の雪印食品や日本ハムの「偽装隠ぺい事件」などを見ていると、多くの日本企業がそういう体質に堕落してしまったのか、と思わざるをえない。 関係者の誰かが、どうして偽装工作の最中に何らかの適切な措置を講じることが出来なかったのか。 これでは、会社ぐるみで偽装隠ぺいに走ったと見られても仕方のないことだ。
 事件が発覚して、雪印食品や日本ハムはかえって大打撃を蒙っている。 事件が発覚すればこうなるだろうということは、大方の役員や社員は予測できただろうに実に愚かなことである。 なぜ目先の利益だけに捕われて、会社の将来的な大局の利益を見失うのだろうか。
 こうした場合、その会社の関係者は偽装工作の途中で、なぜ勇気ある行動が取れなかったのか。“勇気”と言ったが、別に大層なことをするわけではなく、当たり前のことを会社の上層部に言えば済むことなのだ。 当たり前のことすら、会社の中で言うことが出来ないなら、その企業はもう終わりだ。
 会社自体が潰れてしまった雪印食品の某社長は、事件発覚当時の記者会見で、「うちの社員は真面目だから、(上司の)言う通りにするしかなかった」と発言した。 冗談ではない! 真面目だから不正をするのではなく、不真面目だからするのだ! 事ほど左様に、企業倫理は崩壊してしまったのだ。
 今の日本の企業の中には、ドン・キホーテのようにはっきりと物を言う人間はいないのだろうか。 ここで“ドン・キホーテ”の名前を挙げたこと自体が、(創作上の人物とはいえ)彼に対して失礼でさえある。ドン・キホーテのように勇気がなくとも、企業の中で当たり前のことを言う人間は、もっと大勢いていい筈だ。

4) 現代がいかに管理社会であろうとも、事なかれ主義と惰性が蔓延してしまっては病弊以外の何物でもない。 取るに足りないつまらない事で、クヨクヨと思い悩む“小ハムレット”は沢山いる。 私自身だって小市民だから、そんなようなものだ。
 であるからこそ、現代においては益々ドン・キホーテのような人物が求められるのだ。 小心翼々としてケチ臭い人間はいくらでもいる。目先の利益だけに汲々として、さもしい事ばかり考えている人間も沢山いる。 だからこそ、今やドン・キホーテのような人間が必要なのだ!
 企業でも社会でも、本気で改革をしようとなれば優柔不断は許されない。 ハムレットのような人間では、改革をやり抜くのは困難である。 必ず何人、何十人かの“ドン・キホーテ”が必要となってくる。どんなに嘲笑や冷笑を受けようとも、そういう人間が必要となってくるのだ。

 先日、どこかのテレビを見ていたら、今の日本の子供達は「疲れる」とか「疲れやすい」と大勢が言うそうだ。 一体、どうしてそんなになってしまったのだ! 老人が疲れるのは分かるが、子供までが疲れるとはどういうことなのか。 我々の子供の頃には、想像もつかなかったことである。 世の中が余りに管理社会化してしまって、子供までが疲れてしまうのだろうか。 だから教育でも「ゆとり、ゆとり」と言うのだろうか。現代の病弊には分からないことが多い。
 古来、偉大な指導者、改革者、創造者にはドン・キホーテ型が多かった。誇大妄想と言われようとも夢を持ち続け、その夢を実現しようと戦った。 これは現代にも通じることである。政治や産業の面だけでなく、芸術や文化の創造においてもドン・キホーテ型の人間が不可欠なのである。
 以上、セルバンテスの「ドン・キホーテ」を読みながら、私のような“老境”に入りつつある人間にとっても、その精神を大切にしていかねばと思うのである。「ドン・キホーテよ、現われよ!」と叫びたい。 (2002年8月12日)


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