武弘・Takehiroの部屋

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ド・ゴールと毛沢東・・・右と左の“核武装”主義者

2024年06月20日 12時28分45秒 | 政治・外交・防衛

<この記事は2004年9月21日に書いたものですが、一部修正して復刻します。>

    ド・ゴール

 毛沢東         

1) ド・ゴール(1890年生れ)と毛沢東(1893年生れ)・・・共に20世紀を代表する世界的な政治家だが、両者の生い立ちや経歴、活躍した環境などは余りにも違いがある。 フランスのド・ゴールは軍人出身で、右派の代表のような存在だが、中国の毛沢東はマルクス主義者で、左派の代表のような革命家である。 しかし、この二人には妙に似通う点があるように思われる。 それは何だろうか?
まったく異質に見える二人なのに、共通項が大いにあると思えてならない。 ド・ゴールは第二次大戦中に、ナチスドイツに対して徹底的な抵抗(レジスタンス)を呼びかけて戦った。毛沢東も同じく大戦中に、大日本帝国に対する徹底抗戦を完遂した。 そこには、思想・信条を乗り越えた“民族の魂”のようなものが感じられる。
ナチスドイツと大日本帝国を倒して、二人は“救国の英雄”となった。 その後、それぞれの辿った道はもちろん異なるが、両者とも「民族と国家」の運命を担うという強烈な自負には、いささかも違いはなかったように思う。それぞれが、フランスと中国の栄光と国際的地位の向上に邁進したのである。
二人の業績を詳しく述べる時間はないが、ただ一つ強調しておきたいのは、両者とも自国の「核武装」に全力で取り組んだことである。 その善し悪しは別として、フランスと中国の国際的地位は結果的に向上し、両国とも他国から侮られることのない軍事力、政治力を確保したのである。

2) まず、ド・ゴールの場合から見てみよう。 彼は第二次大戦の終結直前に亡命先のイギリスから帰国し、臨時政府を組織して首相となったが、小党乱立のフランス政界の“渾沌”から下野せざるを得なくなり(1946年)、以後12年間、髀肉(ひにく)の嘆をかこつことになる。
ところが、1958年になって、フランスは「対アルジェリア戦争」をめぐって国家分裂の危機を迎える。 これは、今の私たち日本人には到底想像も出来ないほどの危機で、植民地・アルジェリアの独立問題をめぐり、現地のフランス軍とコロン(白人系入植者)が“反乱”を起こし、中央政府と軍事対決する事態となった。(実際に、コルシカ島は反乱軍によって占領された。)
フランスは内戦に突入するのか・・・全世界が固唾を呑む緊迫した情勢の中で、現地軍やコロンは第二次大戦の“救国の英雄”ド・ゴールを擁立し、「フランスのアルジェリア」を確保しようと動いた。 これに対し、共産党や社会党などの左派は、右派の大物であるド・ゴールの登場を阻止しようとした。
しかし、ド・ゴールを除けば、誰もフランスの内乱を止めることは出来ない。 議会はついに、国家分裂を防ぐためにド・ゴールの政権復帰(当初は首相、後に大統領)を認めたのである。 ところが、驚くべきことにド・ゴールは、植民地・アルジェリアを確保しようという勢力に推されたにもかかわらず、政権を取るやいなや「民族自決」の理念から、アルジェリアの独立を認めてしまったのである。

 20世紀の国際政治の中で、これほど“劇的”な展開を私はほとんど見たことがない。ド・ゴールとは何と凄い人だろうかと思ったものである。 しかし、彼を擁立した軍部やコロン、右派の陣営の一部は、完全に裏切られたと激昂し、復讐を誓ってド・ゴールの暗殺を執拗に企てるのである。(フレデリック・フォーサイスの有名な小説『ジャッカルの日』を読んでもらえれば分かるだろう。)
話しが少し逸れてしまったが、政権に復帰したド・ゴールが直ちに行なったのは「アルジェリア問題」の解決だけではない。 復帰早々、フランスの「核武装」を宣言したのである。以後、2年も経たないうちに原爆実験を、8年後には水爆実験を行なうのである。
「フランスの栄光」を目指したド・ゴールは、核実験だけでなく、米英主導の(特にアメリカ主導の)国際政治を嫌い、西側先進国では初めて「共産主義・中国」を承認し、ソ連との関係改善、NATO軍からの脱退等、東西冷戦時代に異色の独自外交を展開していった。
歴史上の評価はいろいろあるだろうが、真の民族主義に裏打ちされたド・ゴールの政治は、フランスだけでなく、今でも多くの国の指針になると思うのである。 軍人出身の右派の大物と言われたド・ゴールは、しばしば左派も呑み込むスケールの大きさを示した。 このような政治家は、100年に1人現われるかどうかといった逸材であろう。

3) 次に毛沢東の場合だが、この人はド・ゴールと違い、隣国・中国の大革命家だっただけに、多くの日本人が知っているだろうから、詳しく述べる必要はないと思う。 しかし、共産主義者・毛沢東ではなく、“民族主義者”としての彼の側面を見ていきたい。
1920年代以降の国際共産主義運動は、ソ連の影響力が圧倒的に強かった。 コミンテルン(第三インターナショナル)の総本山はモスクワにあり、事実上スターリンの指令によって、各国の共産主義運動は展開していったと言ってよい。
中国の場合も、モスクワ詣でをして帰国したコミュニストが運動を指導するケースが多く、それは概して“都市型”の革命戦略であったが、毛沢東は中国本土の農民に根ざした“農村型”の戦略を取り、「農村によって都市を包囲する」という戦術で「モスクワ派」と鋭く対立した。
結局、毛沢東路線が中国共産党内で勝利し「モスクワ派」は退くことになるが、農村重視の戦略自体が、極めて民族主義的な側面があったと言える。 これは、都市労働者(プロレタリアート)を主体とするレーニン主義のソ連の革命戦略とは、大きな隔たりがあったからである。(ちなみに、毛沢東自身も中農の出身であった。)

 1949年、内戦で国民党に勝利した共産党は「中華人民共和国」を成立させ、ほどなく毛沢東は国家主席に就任した。 建国後10年ほどは中国とソ連の関係は良好に推移したが、やがて政治路線(“平和共存路線”をめぐる論争)や国益の対立から、中ソ関係は急速に悪化していく。
こうした経緯の中で毛沢東は「核武装」に全力を傾注していくが、中ソ対立が表面化した直後の1964年、ついに初の原爆実験に成功する。 奇しくもこの年は、中ソ対立が決定的となり、ド・ゴールのフランスが中国を承認した画期的な年にも当たるのである。
中ソ関係はその後、国境での武力紛争が相次ぐが、その間、中国は1967年に初の水爆実験に成功、ミサイル実験等も重ねて「核大国」への道を突っ走る。 当初はアメリカを主要な仮想敵国にしていたのに、この頃はソ連の“覇権主義”を第一の敵とするまでになった。 この国際共産主義運動の大分裂の背景に、毛沢東の強烈な「中華民族主義」があったことは言うまでもない。

4) 21世紀の現在に至って、ド・ゴールや毛沢東の評価は低くなっているかもしれない。 私は上記の短い文章で、ド・ゴールの方を高く評価したようだが、実際に、毛沢東の方は「文化大革命」の発動で中国を大混乱に陥れた責任から、国内でも「功績第一、誤り第二」と評価が落ちているようだ。
しかし、毛沢東が全力で取り組んだ「核武装」について、中国当局は“誤り”だとは言っていない。 同様にフランス国内でも、ド・ゴールの「核大国化」政策を間違っていたと批判する声は、ほとんど聞こえてこないようだ。 両国とも核を廃絶していないのだから、二人が推進した「核武装」は、両国民の支持をおおむね受けていると思われる。
ここで私は、日本も自国の安全のために直ちに核武装すべきだとは言わない。 但し、いつでも「核武装」が出来る態勢を取っておくべきだと言いたい。これは、日本の栄光やステータスの問題ではなく、まさに「安全」のためである。
朝鮮半島の動静(北朝鮮、韓国の核武装の恐れ)を見極める必要はあるが、私が言いたいのは、国の安全のための「核抑止力」ということである。 この“言い古された言葉”は、言い古されているだけに真実である。 核兵器があるから、大戦争が起きるのではない。核兵器があるから、大戦争は起きないのである。 核の恐怖が戦争を抑止しているのだ。 

 アメリカが日本に原爆を二度投下した後、核兵器は世界中の軍事大国に広まったが、あれから60年近くも経っているのに、一度たりとも核兵器は使用されていない。大国同士の力の均衡(バランス オブ パワー)という事態もあったが、いつでも使われそうなのに、核兵器は使われなかった。
逆に、通常兵器の方が著しい発達を遂げ、ありとあらゆる戦争で使われている。 この事実は、核を使えば全てが終りになるという恐怖感が人類を支配しているからである。核の抑止力が、戦争の拡大と破滅的結果を防いでいる。
インドとパキスタンが好い例だ。 両国とも核兵器を持ったから大戦争は起きにくくなった。これが通常兵器だけだったら、もっと激しく戦争を繰り返すだろう。 言い方は悪いが、通常兵器だと、人間は「一定の範囲」だという“安心感”から戦争を起こしてしまう。 ところが核兵器があると、決定的破滅を招くのではないかという恐怖心から、自制せざるを得なくなるのだ。
話しが戦争論になってしまったが、どの核保有国も、自ら先に核兵器を使うとは言っていないし、現に諸々の戦争で核を(先制攻撃を含めて)使っていない。 しかし、自国が攻撃を受けて破滅寸前になったら、使うことになるだろう。この最後の“切り札”が、戦争の拡大と決定的破滅を防いでいるのである。

5) 話しを元に戻すが、ド・ゴールは「核抑止力」の意味を最もよく理解していたと思われる。核武装をすることによって、通常兵力を削減することもできたし、NATO軍から脱退することもできたと言えるだろう。 毛沢東の方は、お粗末な通常戦力ではとても米ソの軍事力には敵わないので、核武装に踏み切ったのだ。
今から30年も40年も前の話しで、21世紀の今日とは、国際情勢も安全保障のあり方も随分変ってしまったから、参考にならないと言う人がいるかもしれない。 しかし、「国家」というものが存続する限り、また「核抑止力」が現実に生きている限り、われわれは核開発と核武装の可能性を“なおざり”にするわけにはいかない。
唯一の被爆国として、核廃絶を唱えるのはもちろん結構だが、核を廃絶しただけで「安全」と「平和」が実現すると思ったら大間違いだ。 核兵器を廃絶すれば、“発達した通常兵器”による戦争が一段と増えるだろう。悲しいことだが、それが人類の現実である。
もし、本当に戦争を止めさせたいなら、通常兵器や核兵器の他に、原潜、空母、戦闘機、戦車はもちろんのこと、全ての武器を廃絶しなければならない。また、世界中の軍隊も廃止しなければならない。(それでも、民兵やゲリラ、テロリスト集団などは残ってしまう。) そういうことが、現在の人類に出来るだろうか。残念ながら、とても無理だろう。(何百年後には、それが実現することを期待して・・・)
21世紀中も、もちろん「国家」は存続するだろう。そこには、われわれ国民が生きている。国民の生命と財産は守られなければならない。“具体的に”どのようにして守るのか。 そう考える時、「核抑止力」を真剣に追求したド・ゴールと毛沢東の戦略を、われわれは改めて検証する必要があるのではないか。 (2004年9月21日)


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