八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

新年明けましておめでとうございます!

2018-01-05 23:09:54 | 2018年新春

新年 明けましておめでとうございます。

2018年はどんな年になるのか? 
なにもわかりませんが、これがわたしたちの今ある立ち位置です。

凡庸な人びとは、いつの時代でも「具体」の中でしか生きられない。
ある意味で、それ自体が生物としての人間の現実ですが、
一方で科学技術の進歩は、すでにこの地球の生態系や
人間の生物としてのありようまでも侵犯するくらいになっています。
いまのこの時代こそが、危機の世紀であると言ってもいいでしょう。

とりわけ日本という極東(far east)の島嶼国家では、
「具体」のなかでしか考えられない、
またはその空間に閉じこもっている限り、
何もかも平穏で屈託のない、浮ついた時間が過ぎていくかのようです。

でも、それは巨大な危機を前にして、
何事も過ぎ去っていくだろうと高をくくった態度とも取れます。

はたして「具体」にだけとどまっていいのか?

テロや憎悪、圧力と恫喝、戦争と差別、飢餓、悲嘆、侮蔑・・・。
世界というか地球は確実に病んでいる印象です。
「post truth」の時代、「fake news」の横行、
そして悪意と狂騒。

人びとだけでなく、多くの動物や植物の生存が破壊されつつあります。
経済利潤のみに人びとは猛進し、効率と便利さの痛快さに惑溺し、
それはあたかも、
富裕であることのみの一元的な価値観の独裁に支配されているかのようです。

人びとの心は哲学を失い、情緒を軽んじ、
人格への敬意を軽蔑に変えてしまっているのではないか。

創造という抽象への架け橋を失った状況。
これがいまの「far east」の現状ではないのか?

日々そうした思いを深くしています。

これまでの長いわたしたち人間の歴史の上に、
現在のわたしたちが存在している。
そのことに、もっと謙虚であってもいいのではないか。

歴史は、いまの時代の感覚や思い上がった目線の下に置かれ、
揶揄されたり面白がられたり、誇張されたり、またつまらないこととして、
閑却されるものではありません。
歴史は、
わたしたちが物事を考える際の諄々とした血液を送り込むものであり、
今に生きるわたしたちに反省を促し、慎みを教えるものであるように思います。

以下の詩は、森川義信という若者が1939年の年に書いた詩です。
「勾配」というタイトルがつけられています。
森川は、旧制中学校の生徒の時代から詩を書きはじめて、
昭和14年(1939年)に第一次『荒地』を鮎川信夫らと創刊した一人です。
この「勾配」という詩を書き上げた森川は、
感動のあまり、「出来た!出来た!」と嬉しそうに、
この詩を友人らに披露したそうです。

しかし、時代はあっという間に〝戦時下〟に暗転し、
森川は早稲田の高等学校中退の学歴だったため、
昭和16年(1941年)に陸軍に召集され、翌年にビルマ戦線で戦病死しました。
もっと多くの詩を書き、文学に人生をかけたかったでしょう。
時代がそれを許さなかった。
詩はこんなふうに書かれています。

非望のきはみ
非望のいのち 

はげしく一つのものに向つて 
誰がこの階段をおりていつたか 
時空をこえて屹立する地平をのぞんで 
そこに立てば 
かきむしるやうに悲風はつんざき 
季節はすでに終りであつた 
たかだかと欲望の精神に 
はたして時は 
噴水や花を象眼し 
光彩の地平をもちあげたか 
清純なものばかりを打ちくだいて 
なにゆえにここまで来たのか 
だがみよ 
きびしく勾配に根をささへ 
ふとした流れの凹みから雑草のかげから 
いくつもの道ははじまつてゐるのだ

 

2018年という年を迎えるにあたって、
わたしはこの詩の絶望と希望を噛みしめながら、
一日一日の日常を過ごせたらと思っています。

そして今年行う予定の講座や「モダーン・ヒストリー」TVを通じて、
みなさんとまたお話しできる機会を多くもちたいと思っています。

今年もよろしくお願いいたします。

八柏龍紀

 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今年度、講座終了の知らせと2... | トップ | 東京の雪と西部邁氏の死 »
最新の画像もっと見る