2013年11月7日(木)
昨日、ハハのいた病院に行ったので、ハハのことを思い出しながら・・・(文中、仮名)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「さようなら」
六月に入ったばかりなのに、真夏のような暑さになった。もうじき三歳になるあやを
クーラーの効いた児童館に連れて行った帰り、車に乗ると私の携帯電話が鳴った。
千葉にいる義妹の紀子さんからの電話だ。
「もしや、母が亡くなった……?」と、身構えて電話を取ると、母の容態が悪化したとの
連絡だった。紀子さんが主治医の先生と面談したところ、
「肺炎と腎盂炎が治まりません。鼻から入れている薬も痰として吐き出しています。
もう、手当てのしようがありません。まもなく、昏睡状態になるでしょう。
この夏は越えられないでしょう。……病名はついていますが、老衰ということです」
と、言われたそうだ。
〈この夏は越えられない〉
とうとう宣告されてしまった。
母の病院は、私の家から車で十五分ほどのところにあるのだが、私は今、埼玉の娘のゆりの
家にいる。ゆりは二人目の子を妊娠中で、まだ八ヶ月というのに、切迫早産になってしまった。
ゆりは横になっていなければならず、間の悪いことに、婿さんの克志さんが脚を骨折して入院となり、
私が、家事とあやの世話をしている。八月下旬の予定日まで、まだまだある。だから、この夏、
私は娘の側を離れるわけにはいかないのだ。
母の命が消えていき、女の子が生まれてくる夏。
新しい命を無事に迎えるために、手助けしてやりたい。
そうすると、母の最期に付き添えない。
それでも、この夏、娘の側から動けない。
どちらの命を選ぶかと迷うより先に、私は、選んでしまっている……。
療養型病棟に入院出来て五年、退院を促されること無く、丁寧に看てもらえたのは、母の運の強さ
だろう。母にとっても、私達家族にとっても有り難いことだった。お世話されるたびに、母は、
看護師さんや理学療法士さんに、「ありがとう」と、お礼を言っていると聞き、痴呆が進んで
しまっても、母に残された言葉が、「ありがとう」だったことは、私の心を暖かくさせてくれた。
とはいえ、この五年、母の身体が小さく縮んでいく様を見させられてもきた。腕は骨と皮のようになり、
点滴のための血管が確保できないと看護師さんを煩わせていた。折れそうな程細くなった指で筆をとり、
「一」の字を書いたお習字が廊下に張り出されていたが、私よりずっと達筆で、身に付いたものの強さを
示されたようだった。いつの頃からか、見舞いに行くといつも、「歌のリハビリ」で患者のみなさんと
歌って思い出した懐かしい歌を、母は口ずさんでいた。疲れてチャイルドシートで寝入ったあやを
乗せて運転すると、ベッドの母と声を合わせて歌った歌が思い出される。「春が来た」
「ごんべさんの赤ちゃん」「夏は来ぬ」……。
家に戻って、ゆりに話すと、「おばあちゃんが、とうとう。う~ん」と、言葉少なだ。
「ぽんちゃんがお腹にいるから、今は会いに行けなくてもしかたないよ。あなたは、ぽんちゃんを
しっかり産んでね。それが、大事」
と、私は、娘の気持ちを守るように強く言い足した。
翌日、克志さんのご両親にゆりとあやを頼み、私は日帰りで千葉に戻った。病棟に着くと、
母は、一人部屋に移されている。胸にコードが貼り付けられているのは、心臓をナースセンターで
チェックしているからだろう。母の頬がつややかで、少し安心したが、いや、これは浮腫んでいるのだ。
母はもう歌も歌えず、中指、薬指、小指を口に銜え、赤ちゃんのように、「あぐー」という声をだして
いた。顔を近づけても、母の目は泳いでいて、私のほうを見てくれない。もう母とわずかな会話を
交わすことも出来ないのだろうか。
でも、耳は最後まで聞こえるというし、私は身体を屈め、話しかけた。
「お母さん、ごめんなさい。一緒にいられなくて、ごめんなさい。
ゆりちゃんが、これから頑張って赤ちゃんを産むから。お母さんの曾孫だから。女の子よ。
無事に生まれるように、見守ってあげてね」
母の口がちょっと止まった。きっと聞こえたに違いない。そして、私は心の中で続けた。
「お母さん、さようなら」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
慌しい夏は終わり、もう晩秋・・。
年賀欠礼の挨拶状の準備をしなくちゃね・・・。
昨日、ハハのいた病院に行ったので、ハハのことを思い出しながら・・・(文中、仮名)
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「さようなら」
六月に入ったばかりなのに、真夏のような暑さになった。もうじき三歳になるあやを
クーラーの効いた児童館に連れて行った帰り、車に乗ると私の携帯電話が鳴った。
千葉にいる義妹の紀子さんからの電話だ。
「もしや、母が亡くなった……?」と、身構えて電話を取ると、母の容態が悪化したとの
連絡だった。紀子さんが主治医の先生と面談したところ、
「肺炎と腎盂炎が治まりません。鼻から入れている薬も痰として吐き出しています。
もう、手当てのしようがありません。まもなく、昏睡状態になるでしょう。
この夏は越えられないでしょう。……病名はついていますが、老衰ということです」
と、言われたそうだ。
〈この夏は越えられない〉
とうとう宣告されてしまった。
母の病院は、私の家から車で十五分ほどのところにあるのだが、私は今、埼玉の娘のゆりの
家にいる。ゆりは二人目の子を妊娠中で、まだ八ヶ月というのに、切迫早産になってしまった。
ゆりは横になっていなければならず、間の悪いことに、婿さんの克志さんが脚を骨折して入院となり、
私が、家事とあやの世話をしている。八月下旬の予定日まで、まだまだある。だから、この夏、
私は娘の側を離れるわけにはいかないのだ。
母の命が消えていき、女の子が生まれてくる夏。
新しい命を無事に迎えるために、手助けしてやりたい。
そうすると、母の最期に付き添えない。
それでも、この夏、娘の側から動けない。
どちらの命を選ぶかと迷うより先に、私は、選んでしまっている……。
療養型病棟に入院出来て五年、退院を促されること無く、丁寧に看てもらえたのは、母の運の強さ
だろう。母にとっても、私達家族にとっても有り難いことだった。お世話されるたびに、母は、
看護師さんや理学療法士さんに、「ありがとう」と、お礼を言っていると聞き、痴呆が進んで
しまっても、母に残された言葉が、「ありがとう」だったことは、私の心を暖かくさせてくれた。
とはいえ、この五年、母の身体が小さく縮んでいく様を見させられてもきた。腕は骨と皮のようになり、
点滴のための血管が確保できないと看護師さんを煩わせていた。折れそうな程細くなった指で筆をとり、
「一」の字を書いたお習字が廊下に張り出されていたが、私よりずっと達筆で、身に付いたものの強さを
示されたようだった。いつの頃からか、見舞いに行くといつも、「歌のリハビリ」で患者のみなさんと
歌って思い出した懐かしい歌を、母は口ずさんでいた。疲れてチャイルドシートで寝入ったあやを
乗せて運転すると、ベッドの母と声を合わせて歌った歌が思い出される。「春が来た」
「ごんべさんの赤ちゃん」「夏は来ぬ」……。
家に戻って、ゆりに話すと、「おばあちゃんが、とうとう。う~ん」と、言葉少なだ。
「ぽんちゃんがお腹にいるから、今は会いに行けなくてもしかたないよ。あなたは、ぽんちゃんを
しっかり産んでね。それが、大事」
と、私は、娘の気持ちを守るように強く言い足した。
翌日、克志さんのご両親にゆりとあやを頼み、私は日帰りで千葉に戻った。病棟に着くと、
母は、一人部屋に移されている。胸にコードが貼り付けられているのは、心臓をナースセンターで
チェックしているからだろう。母の頬がつややかで、少し安心したが、いや、これは浮腫んでいるのだ。
母はもう歌も歌えず、中指、薬指、小指を口に銜え、赤ちゃんのように、「あぐー」という声をだして
いた。顔を近づけても、母の目は泳いでいて、私のほうを見てくれない。もう母とわずかな会話を
交わすことも出来ないのだろうか。
でも、耳は最後まで聞こえるというし、私は身体を屈め、話しかけた。
「お母さん、ごめんなさい。一緒にいられなくて、ごめんなさい。
ゆりちゃんが、これから頑張って赤ちゃんを産むから。お母さんの曾孫だから。女の子よ。
無事に生まれるように、見守ってあげてね」
母の口がちょっと止まった。きっと聞こえたに違いない。そして、私は心の中で続けた。
「お母さん、さようなら」
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慌しい夏は終わり、もう晩秋・・。
年賀欠礼の挨拶状の準備をしなくちゃね・・・。