風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

政治と生まれ変わり

2017-11-24 20:15:26 | 雑感
先に、これからの課題は「無投票層」の人たちの衝動に耳を傾けることではないかと書いた。ここではSekitoさんから投げかけられた問いを中心に、この数日間に自分に見えてきたことを書いておきたい。

たぶん誤解は避けられないと思うのだが、ぼくはもし戦争へ突き進む道をぎりぎりのところで回避できるとすれば、「霊的なこと」(スピリチュアリティ)についてストレートに語っていくことでその僅かな可能性が開けるのではないかと思うようになった。
もちろん、これまでも霊的なことについてはいろいろな場面で語ってきたけれど、それはどこかシュタイナーが言っていることの紹介であったり、自分の見解を「ぼくにはこう見えます(が、ほかの人から見れば違うかもしれません)」という留保付きで述べることであったりした。

でも、おそらくもっと批判されたり非難されたり、おそらくは嘲笑されたりすることを表明していく必要があるのだ。そして何よりもぼくが出会った個々の人々がそれぞれの感性と知性を働かせるうえで刺激となるように自分の言動のなかで心がけたいと思う。ずっと以前、真木悠介さんという人の話を聞いたとき、「伝達のコミュニケーション」と「触発のコミュニケーション」ということをおっしゃっていたのが印象に残っているが、これからは「伝達」よりも「触発」が自分の仕事なのではないかという気がしている。

でも人を触発するということはいわば自然発生的に起ることであって、意図してできることではない。ぼくはたぶん、自分自身が触発されることを求める中で、他の人々のなかにも触発は起るのではないかと思っている。
そこで「感覚」ということを考えるのである。自分が感じるためにはー、それも自分にとって未知のことを感じとるためにはー、つねに自分自身の中に新しい感覚を育てる用意がなければならない。ゲーテやシュタイナーと共に語るなら、新しいものとの出会いは、つねに新しい感覚の萌芽を呼び覚ます。問題は、そのことに気がついて、芽生えかけた新しい感覚器官を自分のなかで育てていくことができるかどうかだ。そこに他の人々や他の文化、およそすべての未知なるものとの出会いの可能性がかかっている。

この関連でぼくが重要だと思うのは、シュタイナーが「オイリュトミー」という新しい舞台芸術について述べたことである。オイリュトミーは実は
「表現」ではなく「聞くこと」なのだという。人は耳を傾けるとき、つねにオイリュトミーを行なっている。この考えの背景には、喉頭という発声器官は、他者の語りとともに動いているという彼の直観があった。オイリュトミーは喉頭の動きを全身に広げたものである。オイリュトミーとは「身体で聞く」ことなのである。私たちが語ることができるのは、聞くことができるからである。そして語りは、聞くことがあって生まれる。
私が耳を傾けたとき、おそらく他者は語ることができるだろう。そのとき、他者が実際に言葉を発するかどうかはその人の自由である。けれど、私が聞いていることが、相手の語りを引き出す。シュタイナーの言い方でいえば、対話の中では、相手が私の中で語り、私が相手のなかで語っている。シュタイナーは現代において「聞く力」が衰えつつあるからこそ、教育の中のオイリュトミーを重要視したのである。

選挙における投票も声を発すること、表現活動である。もしいわゆる無投票層の人々に選挙に行って欲しければ、まず耳を傾けなければならないだろう。選挙がなぜ必要かとか、国民の義務だとか説得するのではなく、普段から、生活のさまざまな場面で出会う人たちに耳を傾けていなければならない。そのうえで、相手がどのように行動するかはその人の自由に任せる。それがさしあたり、私たち一人ひとりにできることなのだと思う。

聞くということは、感覚を働かせることだ。相手を感じること。それが語りが、およそすべての表現活動が成立するための条件である。そして、そこにシュタイナーが法律・国家・政治を心臓や呼吸器のある「胸の領域」(リズム系)に対応させた意味があるとぼくは考えている。

政治とは、言葉を使って仲介し調停し、調和をもたらそうとする活動である。その基本は「聞くこと」でなければならない。言葉巧みに「説得」することではないのだ。感じること、聞くことができたとき、相手に届く言葉が自ずと生まれてくる。

シュタイナーは最初の著作である『ゲーテ的世界観の認識論要綱』の後半でほんの数行であるが「憲法」に触れている。彼は憲法とは、「国民の無意識にあるものを感じとって言葉にしたもの」だと書いた。同様の考えを、彼は『自由の哲学』のなかでも法律に関して述べている。
法律とは本来、なんらかの個人の考えを述べたものではなく、人々のなかに生きている願いや衝動を感じとり、それを理念として言葉にしたものだ。本来の法律は聞くことによって生まれる。

以上の考え方からも、ぼくにとって「誰が憲法を書いたか」は本質的な問いではない。重要なのは、憲法の条文を書いた人々、具体的には戦後、GHQの中で憲法作成に携わった人々がどれだけ日本の人々の願いや衝動を感じとっていたか、そして「個人」としてではなく、いわば「人類の代表」としてそれらの条文を書くことができたかである。たとえばベアテ・シロタ・ゴードンさんの手記などを読めば、いかに彼女が当時の日本人、特に日本の女性たちに思いを寄せて「男女平等」の理念をそこに書き入れたかがわかる。

そして、もっといえば、いったん憲法として言葉になったものに対しては、それに向き合う私たちが「主体」になる。
ぼくは矢部宏治氏の『日本はなぜ、「原発」と「基地」を止められないのか』や『知ってはいけない隠された日本支配の構造』などの著作は、日本の政治の現実を見つめる上で本当に重要な役割を果たしていると思うけれども、一点、憲法については見解を異にしている。9条をはじめとする日本国憲法の理念は単なる平和主義の理想ではなく、連合国の意図によって書かれたものだと彼は指摘する。けれど、書かれた言葉はそれ自身で独立している。そこにどんな意図があったとしても、それは条文として発表されてからは、書いた人の意図から自由になる。それをどう受けとめ、どう活用するかは私たち次第である。連合国の意図があったからといって、それをもって憲法を否定するのはむしろ不自由であり、主体的ではないと思う。
問うべきは、その憲法の言葉そのものが本当に私たちを不自由にしているのかどうかだ。むしろ、今の憲法は立派に権力者の側を縛ってきていると思う。

当時の連合国、そして現在の米国(米軍)の意図を明らかにしたとき、それに抗するためにも彼らが用意した憲法を否定するのではなく、むしろそれを逆手にとって私たちの自律の幅を広げていくことに力を注ぐべきではないのか。
何より、私たちが現行の憲法を否定することで一番喜ぶのは現在の米軍や権力者たちだろう。

最後に、言語について書いておきたい。
シュタイナーが「精神生活や経済生活には霊的背景があるが、国家・法律・政治だけは純粋に地上のものだ」と考えたのは、言語とは地上における「人間性の身体」といえるからではないだろうか。
私たちが生まれ変わりを繰り返すとき、私たちは地上の個々の身体のなかに「受肉」すると同時に、特定の言語圏の中に生まれることになる。
国家の本質は法体系であるとすれば、国家の本質は言語だということになる。ある特定の国家の中に生まれることと、ある特定の言語圏に生まれることとは必ずしも一致しないし、国家と言語の関係もさまざまに議論されるところではあるが(だから母国語ではなく母語という言い方をするわけだが)、国家が言語によって成り立っているということは言えるのではないだろうか。

そしてそこに最初は英語で書かれた憲法をもつ日本という国家の運命もあるのだと思う。それをただ否定するのではなく、日本という国家、そして日本語という言語の個性として見つめたいと思う。

本来、国家が言語を規定するのではなく、言語の中から国家が生まれる。私たちはなんらかの母語の中に生まれ、おそらくはなんらかの国家のなかに生まれる。もちろん、国家が存在しないところに生まれることもある。けれど人間の子として生まれるかぎりは、なんらかの言語のなかに生まれるのだ。そしてその言語を使って他の人々と共同生活(つまり社会生活)を営むうちに、決まりごとが生まれ、それが法律となってやがては小さな国家が成立するだろう。

言語と国家は同じものではないけれど、相互に支えあったり、影響しあったりして、地上の社会形成に寄り添っている。
Sekitoさんの問いかけの文脈でいえば、社会とは「社会有機体」というように地球上の生命体なのだと思う。それは生きている以上、成長したり衰えたりする。完全に死んでしまうこともあるだろう。人は自分の身体の中だけでなく、社会有機体のなかにも受肉する。ただ社会有機体は複数の人々と共有する「身体」である。

人間は、この社会という身体を地球上で形成する。生まれてきては社会形成に関与し、また霊界に還っていく。社会形成は、この地上でしかなしえない仕事である。私たちは社会を先人達から受け継ぎ、自分たちで少しずつさらに(できればよりよい方向に)形成し、そこに生まれてくる子どもたちを受けとめ、また次の世代に託していく。

男性に生まれることも、女性に生まれることも、またGLBTに生まれることもあるように、私たちはさまざまな国、文化、言語の中に生まれ変わる。そうやって自分が関わる社会の中に少しずつ多様性と普遍性を実現していく。

そのとき、きわめて意識的に、自由、平等、友愛への感覚を自分の中に育てていく必要があると思う。人が何かを創造するとき、そこには自由がなければならない。人が相互の創造作品を認め合い、それらを流通させるとき、そこには友愛が働いていなければならない。そしてお互いを偏見なく認め合い、作品を交換するための基盤が、言語による平等な関係である。

シュタイナーは、12年間の教育を通して、この自由、平等、友愛への感覚を育てようとした。幼児期の「模倣」は自由の基盤となり、学童期の教師が演ずる「愛される権威」という役割は平等の基盤となる。そして思春期の性愛を含む「人類愛」の目覚めと「真実」との取り組みは、友愛の基盤となる。

そのような精神生活(文化)の中に自由、法律の中に平等、経済生活の中に友愛の原理が働く社会は単なる理想であり、複雑で深刻な現実に対してはなんの力も持たないと思われがちである。
けれど、社会は人と人の関係から成り立っている。私たちが他者の自由、平等、友愛に対して感覚を働かせるとき、それはその人のなかのそれらの原理を目覚ませるきっかけになる。

何より、乳幼児の保育に関わる人たちは、子どもが立ち上がり、言葉を発し、考え始めるプロセスの中に自由、平等、友愛の萌芽をみることができる。そして、それらを認め、支えようとする大人の側の意志によって、社会は形成されていく。

子どもの自我は、周囲の大人が見守り、耳を傾ける中で、目覚めていく。聞くこと、感じることが変化を引き起こす。まずは自分が知ろう、理解しようと努めることが、他者のなかの意志を、さらには物質の中の意志に働きかける。それをシュタイナーは「魔術」と呼んだ。

社会に絶望する前に、今一度、人間の中の自律性、すなわち自由、平等、友愛の感覚に意識を向けたいと思う。なぜなら、私たちはこれまでもずっとこの地上の社会形成に携わり続けてきたからだ。社会こそ、私たち人間の共通の作品である。

死後の世界と、生まれる前の世界を考慮に入れて、社会を見つめてみたい。なぜなら、死後の世界と生まれる前の世界は一つにつながっているからだ。この世を去った死者たちは、「未来」において私たちの子どもになる。そして、子どもたちは死者たちのいた「過去」からやってくる。
それがシュタイナーが教育の基礎としての「一般人間学」の出発点に据えた、教育による社会形成の基本理念であった。

以上、きわめて大雑把ではあるが、ぼく自身はこのような考え方をもって「国民の意志」に、また無投票層の中の衝動に向き合っていきたいと思う。子どもの発達、自律性に寄り添い、つねに死者との共同作業を意識しながら、この地上で出会う人々の自由、平等、友愛に感覚を向けていきたい。そこから改めて、自分なりの新しいアントロポゾフィーの歩みを始めたいと思う。

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4 コメント

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政治と生まれ変わり (sekito)
2017-11-24 22:15:36
「政治と生まれ変わり」拝読しました。
なるほどと、納得しました。無意識の衝動を読み解けるように、感覚を成長させることが大切ということですね。言語はこの世の人間の体である、というのは名言ですね。自由感覚、平等感覚、友愛感覚を成長させることが大切であるというのは説得力を感じました。時間のある時に、改めてじっくり考えてみたいです。
「情報と言霊」の方を「衝動」よりも強調したいと感じた理由は、「衝動」という日本語のニュアンスが「キリスト衝動」ではなく、思考のコントロールを受けていないというニュアンスがあることと、言葉は、意志も感情も思考も超感覚的世界も現すことができる力を本来持っているので、言葉が情報化した今こそ、そのことに気づいたうえで言葉を使うことの重要性を強調したいと感じたことがあります。この点もじっくり考えてみたいと思います。取り急ぎ。感謝を込めて。
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日本人として生まれた理由 (十羅)
2018-03-04 03:03:19
入間カイさんが、コメント欄を読まれているかは判りませんが、思った事をつらねます。
カイさんのブログを読む限りでは、カイさんは日本語に堪能なヨーロッパ人のような印象を受けるのですが、実際のところどうなのでしょう? また、少し極端な言い方になりますが、言葉を重視するあまりなのでしょうか、カイさんの心底に男社会重視のような…思想(魂?)が見え隠れします。しかし、それらもカイさんが日本人でないのならば当然です。
外国人として日本人に興味を持たれるのなら、ラフカディオハーン氏など、そうだったと思うのですが、彼も語学に堪能だっただけに、古事記や「かな」文字の追求のさきに日本人の本質をみたのだと思います。また、言葉の面から日本人を知りたいのであれば、石川九楊先生の「横書きが日本人を壊している」なども簡単に読めて興味深いです。(中国人も含むかもしれません)
偉そうな事をつらつらと申し訳ないです。カイさんのブログはなるほど納得できて共感する部分もたくさんなのですが、日本を選んで日本人として生まれて来たわたしの魂の部分で少し気になったものですから…。
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古事記 (十羅)
2018-03-04 03:15:13
古事記は文字ではなく、音で読むところに醍醐味があると思うのですが、実際のこの頃の日本語の発音がどうだったのかも興味あるところです。
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Unknown (Unknown)
2018-03-07 05:06:54
LGBT表記の方が日本では一般的だと感じます。GLBTと書いているあたりで男性優位と思われるかもしれませんね。
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