風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

アントロポゾフィーからみた総選挙01

2014-12-06 07:03:04 | アントロポゾフィー
今回の衆議院選挙は、おそらく日本の現代史のなかでもっとも深刻な意味をもつだろう。

そこで投票日まで、アントロポゾフィーの観点から考え、その思考をここに書き連ねることにした。
こういう事態なので、自分の頭のなかをあからさまに書くが、丁寧な説明も省くので、
やや常軌を逸した奇妙な考え方が散見されることになるだろう。
その正しさを主張するつもりはない。誰か一人でも私の思考に触れて、一緒に考えてくれればそれでいい。
ただ、この選挙を無意識にやり過ごすことだけはあってはいけないと思う。

まずは最大の争点である「原発」。
アントロポゾフィーの観点から、もっとも重要に思えるのは、
エネルギーの起源である。
エネルギーとは生きることにほかならない。
考えるためにも、感じるためにも、体をつかって行為するためにも、エネルギーは必要だ。
原子力というと、その放射能という危険や、放射性廃棄物の問題が思い浮かぶが、
問題の本質は、私たちは何によって生きようとしているのか、ということだと思う。

アントロポゾフィーでは、古来からの人間の本能的直観を意識的に取り上げ、
世界を四大元素(地、水、風、火)で捉え直す。
それは、科学を否定して古代に戻るためではなく、
私たちの身体的直観をもって世界と向き合うためだ。

子どもが砂場で遊んだり、水で遊んだり、
凧を飛ばして風に触れたり、あるいは花火を楽しんだりするように、
根源的な遊びは、四大元素を結びついている。
人間は世界を地、水、火、風で体験する。

この四大元素は、エネルギーとも関連している。
水力発電があり、火力発電があり、風力発電がある。
そして、原子力は地(物質)による発電である。
しかし、きわめて特殊なのは、物質を人為的に破壊してエネルギーを取り出すことだ。

自然界には放射線が行き交っている。
物質のなかには自然に崩壊して、放射線を出しているものがある。
けれど、人間は意図的に中性子をぶつけて、原子核を分裂させるのだ。

古来、地球という物質の塊は次第に「霊化」していくこという考え方がある。
霊/精神というのはエネルギーのことだ。
エネルギーは物質へと凝縮し、役目を果たすとふたたびエネルギーへ還っていく。

物質とは、実はもっとも霊的な、「無私」の存在であり、
すべての生命を支えている。
ビッグバンと呼ばれる宇宙の始まりを、「意志」の爆発と見ることもできるだろう。
いわば「存在への意志」。
物質が存在を意志したからこそ、生命が発生し、今の私たちがいる。
物質のなかには「意志」が宿っている。

核分裂によって放出される放射線は、
きわめて神聖なエネルギーだ。
物質として存在する「意志」を否定されたエネルギーだ。
アントロポゾフィーから見れば、精神の力は死の力である。
私たちの体のなかでは、つねに精神=意識の力が生命を蝕んでいる。
あるいは、身体のなかで絶えず分解と死が生じることによって、
私たちの意識は成り立っている。

私たちは電力をつかって調理もするし、工具も使うが、
電力が一番似つかわしいのは、私たちの思考である。
夜、煌々と照明をつけ、パソコンに向かって作業する。
そのエネルギーを火力から得るのか、風力から得るのか、太陽から得るのか…

いずれにしても、それらはすべて自然から与えられるものだ。
けれど、原子力だけは、地を破壊してエネルギーを取り出す。

それは「地霊」を冒涜する行為だ。
そして、私たちの身体は物質でできているから、
物質を破壊して得たエネルギーによって傷つくことになる。

地球と身体はひとつにつながっている。
地球を傷つければ、私たちの身体が傷つく。

本当に霊的なものを感じる人は、
原子力に対して、物質の悲しみを感じることだろう。

本当の民族主義者は、自分たちの郷土で原子力を追求したりはしない。
本当に神を崇めるものは、物質を安易に破壊したりしない。
なぜなら、物質の中にこそ神が宿っているからだ。

原子力の危険はいうまでもないが、
霊的な意味でも、
個人に対しても、
民族に対しても、
地球そのものに対しても、
エネルギー政策の中心に原子力を据えようとする人たちは、
神聖なるものを踏みにじっているのだ。

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