映画に 乾杯! / 知の彷徨者(さまよいびと)

名作映画に描かれている人物、物語、事件、時代背景などについて思いをめぐらせ、社会史的な視点で考察します。

〈おにぎり〉は世界最高のランチ  ヘルシンキの日本食堂  その2

2012-07-22 16:08:31 | 人生を考える
■おにぎり万歳!■
 さて、すっかり常連になったマサコだが、ついにカフェだけでなく和食を食べる場面となった。
 注文したのは、おにぎり。サチエは張り切ってつくった。
 おにぎりを乗せたかごをマサコのテイブルに運んだ。店にはかなりフィンランド人の客が来ていた。彼らは全員、〈おにぎり〉という食べ物にがぜん注目した。
 で、彼らは食べたり飲んだりするのを止めて、おにぎりを食べようとするマサコを見つめた。意味を飲んで見つめている。
 みんなの注目を知ってか知らずか、マサコはしばしおにぎりを見つめた。そして優雅に手でもってから、おにぎりにかみついた。そして、にっこり。やはり、日本人にとって、おにぎりは格別の食べ物なのかもしれない。
 マサコが美味しそうにおにぎりを食べるのを見て、ほかの客たちはほっと安堵して、ふたたび自分の飲食物に手を伸ばした。

 このおにぎりに注目するシーンは、この作品のクライマックスかもしれない。フィンランド人たちがおにぎりという日本食を知り、注目する場面なのだ。

5 くだんの女性の悲しみの理由

 すっかりかもめ食堂の顔なじみになったマサコも、店を手伝うことになった。食堂にやって来る客数もだんだん増えてきたから、うまく人手を増やすことになった。

 そんなある日、あの悲嘆にくれて茫然自失したような中年女性が窓の外に立っていた。今日は前よりも思いつめたような顔つきだった。彼女は意を決して店に入ってきた。すごく険しい表情で。そのため、ミドリは腰が引けてしまった。
 その女性は言葉をぶつけるように「コスケンコルヴァを!」と注文した。
 コスケンコルヴァとは、すごく強い蒸留酒らしい。アルコール濃度が30%~60%で、無色透明、ブルーベリー風味もあるとか。
 サチエが女性のテイブルにコスケンコルヴァの瓶を持っていって、小さなグラスに注いだ。女性はあおるように一口で飲みほしてしまった。目がすわったところで、サチエにも酒を勧めたが、サチエは断った(ひるんだ)。
 すると、彼女は「誰か付き合わないか」という目つきで周囲を見回した。マサコと目が合った。マサコがうなづいた。というわけで、サチエはグラスをマサコのテイブルに移して、1杯注いだ。マサコは平然と飲みほした。
 あの中年女性はマサコの隣に移ると、グラスを引き戻して人さし指を上げた。「もう1杯」ということだ。
 だが、飲み干す前にアルコールが回って倒れてしまった。3人は駈けよって介抱しようとした。

 結局、トンミが女性を背負い、サチエがトンミのバッグをもち、ミドリがトンミの自転車を押し、マサコが付き添って、その女性の家まで送り届けることになった。家に着くと、食堂の女性3人が女性の手当てを始めた。
 なかでもマサコは女性を奥のソーファに座らせて水を飲ませて、女性に語りかけた。「ヤケ酒」の原因となった彼女の悲しみ(屈託)の原因を聞き出そうとした。というよりも、女性の打ち明け話を、うなづきながら聞き取る役目を引き受けた。
 もちろん、マサコはフィンランド語を知らない。だが、身振りを交えて話す女性の言い分を正確に理解したようだ。

 女性が落ち着きを取り戻したので、3人は店に戻ることにした。
 サチエとミドリはマサコの介抱の手際がすばらしいとほめた。マサコは、病身の両親の介護で培ったものだと語った。
 サチエはマサコに、女性が訴えていた苦悩は何だったのかと尋ねた。
「あの女性の夫が先頃、突然に『もう一緒に暮らせない』と言い出して急に家を出ていってしまった。愛していたのに、理由も告げずに出ていってしまって、彼女は途方に暮れ、深く悲しんでいるのです」 
 というのが、マサコの返答。
「マサコさんはフィンランド語が理解できるんだ!」
と2人が感嘆すると、
「いいえ、まったくわかりません(でも、彼女の言い分はわかりました)」
というのが、マサコの返答。
 だが、2人は妙に納得してしまった。事実もそうらしい。相手の苦痛や苦悩を読み取る(聞き取る)のは、マサコの能力なのだろう。

■「丑の刻参り」■
 翌日、あの女性がお礼を兼ねて来店した。
 それなりに自分の気持ちに整理をつけたせいか、その日は髪の毛の手入れもきちんとしていて、服装も化粧もきっちり決めていて、持ち前の美しさが回復してきたようだ。
 その日は、カフェとシナモンロールを注文した。
 前日の世話のお礼を言いながら、彼女は日本人女性3人に「人を呪う方法」を尋ねた。
 3人ともやったことはないが、日本の古典的な呪術としての「丑の刻参り」を教えた。真夜中に、呪いをかけたい相手に見立てた藁人形を大きな釘で樹の幹に打ちつけるという方法だ。
 もちろん、日本人女性3人は半ば冗談として話したのだろうが。

 ところが、その女性は丑の刻参りを実行した。人形の藁は麦藁だろう。そして、たぶん呪う相手は家を出ていった自分勝手な夫だろう。真夜中に、樹の幹に藁人形を釘で打ちつけた。
 一方、どこかのホテルにいた夫は、テレヴを見ているときに、急に胸の痛みに襲われた。胸の痛みといっても、妻を捨てて家を出たことへの胸の痛み(良心の疼き)だったかもしれない。

 ともあれ、そういう経緯で、サチエ、ミドリ、マサコとフィンランド人女性の4人はかなり親しくなった。
 その後、女性の夫は寂しさ(と心の痛み)を感じて戻ってきた。「やはり妻と一緒に暮らすのが一番いい」と。

6 マッティの醜態

 ある日、店の休業日、4人は海岸に日光浴に出かけた。女4人が帽子とサングラスのいでたちで、並んで椅子にかけている。すっかりくつろいでいるようだ。おしゃべりに興じたり、食べたり飲んだり…。
 かの女性は、ふとサチエに話しかけた。
「夫が出ていってからすぐに、可愛がっていたペットの犬が死んでしまったの。あなたの顔を見ると、その犬を思い出すわ。よく似ている。…あの食堂はあなたにふさわしい店だわ」

 やがて、4人は店にあるいて戻ることにした。
 帰り道での会話。
ミドリ:「マサコさんはサウナ風呂我慢大会に出ればいいわよ。優勝できるわ、きっと。だって、あの熱いサウナに20分も入っていられたんだから」これにはマサコ以外の3人とも賛同。
マサコ:「あら、私はエアギター大会に出てみようと思っているのに」
サチエやミドリ:「マサコさんなら、エアギターも格好いいわよ、きっと」

 ところが、店に戻るとドアの鍵が開いていた。なかに入ってみると、男が侵入している。サチエは男を捕まえて、合気道の技で投げ飛ばした。ひっくり返った男の顔を見ると、「あら、マッティじゃない!」
 マッティは、以前この店舗でカフェを経営していた。店を閉めたときに、カフェ豆挽器を置き忘れてしまったとらしい。で、その日にこっそり忍び込んで持ち出そうとしたのだという。
「そんなら、言ってくれれば引き渡したのに」というのが、サチエの言い分。

 さて、サチエたちは、落ち着いてみると空腹を感じた。そこで、おにぎりをつくって食べることになった。塩鮭と梅干しとオカカを具にして海苔を巻く。お茶も用意して。かごに乗せてテイブルに運んだ。
 日本人女性3人とあの中年女性、そしてマッティの5人がテイブルを囲む。
 サチエ、ミドリ、マサコが美味しそうに海苔を巻いたおにぎりを食べるのを見て、かの女性も手を伸ばした。すいにマッティも食べ始めた。

 この映画では、食べ物が物語を進める狂言回しの役を演じているかのようだ。カフェ、シナモンロール、おにぎり、サケの塩焼きなどなど。

7 マサコ、カバンを取り戻す。だが…

 ある日、マサコが航空会社に電話すると、カバンが見つかったという。ようやくカバンを取り戻すことができた。
 手元に届いたカバンを開けてみると、なかにはたくさんのキノコが詰まっていた。先頃、森林遊歩のときに取ったのだがなくしてしまったキノコだ。
「カバンが戻ったのですが、私のものと少し違うようなのですが…」とマサコは航空会社に連絡してみた。けれども結局、受け入れたのではなかろうか。
 というのも、カバンに詰まっていたキノコは、マサコが森のなかに置き忘れたものなのだから。キノコは寓意だと思われる。
 これは〈映像のイコノロジー(図象学)〉なのだ。モノに寓意が込められているのだ。

 とにかく、マサコはかもめ食堂に寄って、カバンを取り戻したことを告げておいたので、ミドリとサチエは、
「カバンも見つかったし、マサコさんは日本に帰るのですかね」
「どうするにせよ、それはマサコさん自身が決めることですから、その決心を喜んであげましょう」
「私が日本に帰ると決めたら、サチエさんは寂しいですか」
「ミドリさん自身が決めることですから、私は喜んで見送りますよ」
「なんだ、寂しがってほしかったのに。私がいなくなっても寂しくないんですね」
「いや、そりゃあ寂しいですよ」
などという会話をしていた。
 なかなかに、面白い会話だ。

 そういえば、ミドリがサチエの家に居候して間もなくの頃の会話に、こういうものがあった。文脈としては、サチエが日本食堂を開こうと決心したことをめぐる会話なのだが。
サチエ:「あした世界が滅びるとしたら、今日は何をします?」
ミドリ:(少し考えてから)「美味しいものを食べようと思います」
サチエ:「でしょう。私もそうするわ。食材をたくさん買い込んで、うんと美味しいものをつくって、仲のいい友だちを呼んで、みんなで食べるの」
ミドリ:「えーと、その仲間に私も入れてもらえるんですか? ぜひ呼んでください」
という具合だ。
 何やらずれているようで、なかなかに核心を突いた会話ではないか!

 さて、マサコは、これからの身の振り方というか行動計画を考えようと、湊に来て海を眺めていた。すると、ここでいつも出会う中年男性がやって来て、彼が抱えていた猫をマサコに手渡した。何も言わなかったが「世話をしてくれ。あなたなら、信頼できる」という態度だった。
 マサコは猫を預かることにした。この街で。

 翌朝、マサコは間も目食堂に来た。
「昨日、海岸で男性から猫を預かったのです。だから、当分ここにいることにしました。
 だから、これからもここで働かせていただきます。よろしく」
と挨拶した。
 事態の転回の鍵は、今度は猫だった。

8 そして、かもめ食堂は

 とういわけで、かもめ食堂はこれからも日本人女性3人が営むことになった。
 来客数はそれから増え続け、ついに満席になる日がやって来た。ヘルシンキの人びとが〈おにぎり〉を美味しそうに食べるようになった。
 トンミも相変わらず毎日のように訪れて無料のカフェを楽しみ、3人連れの老婦人たちも知り合いを連れて来店して、食べ物とおしゃべりを心いくまで楽しでいる。
 サチエは来客で満席になる日を自分自身で祝うようにプールに出かけた。すると、プールのなかで周囲にいた人びとが、(みんななじみの客になって)祝ってくれた。これは、心象風景の描写だろう。

 最後のシーンも3人の不思議な会話だ。
ミドリ:「ねえ、知ってました?! マサコさんの『いらっしゃいませ』って、丁寧すぎるんですよ」
サチエ:「あら、そう?」
マサコ:「そんなことはありませんよ。ごく普通ですよ」
ミドリ:「じゃあ、試しにやってみてくださいよ」
マサコ:「いらっしゃいませ」(ミドリの言うとおり、相当に丁寧な言い方だ)
ミドリ:「ほら、すごく丁寧でしょう」
サチエ:「でも、マサコさんらしくて、いいんじゃないかしら」
マサコ:「ミドリさんの『いらっしゃい』は、そっけないわね」
ミドリ:(試しに言ってみる)「いらっしゃい」
マサコ:「ほらね」
ミドリ:「サチエさんの『いらっしゃい』は、すごくいいんですよ」。言ってみてくださいよ」
マサコ:「言ってみてください」
サチエ:「いいですよ」(と言って言わない)
 ところが、そこにお客がやって来る。
サチエ:「いらっしゃい!」
 ミドリとマサコの中間あたりの、ちょうどいい丁寧さで、たしかにほどよいかもしれない。

■たまにはこんな映画もいい■

 この作品では、事件というほどの大きなできごとが起きるわけではない。さりとて、ごく普通の日常を淡々と描くわけでもない。
 3人の日本人女性がそれぞれ単独ではるばるフィンランド・ヘルシンキに旅して、サチエはごく普通の日本食堂を開き、さしたるあてもなくやって来たミドリと出会い、さらにマサコと出会う。という意味では、かなりに珍奇なできごとではある。
 だが、突発的な事件や非日常のできごとに直面して立ち向かうとか奮闘する、という物語ではない。
 3人とも、ごくごく自然体でマイペイスである。

 その物語の運びは、日常生活や仕事であくせくしている私たちにとっては、不思議なほどに特異で安堵を与えてくれる。場所が、フィンランドのヘルシンキだからだろうか。

 エアギターとかサウナ風呂我慢の世界大会や泥の海でのサッカー大会とか、何十年もの伝統を誇る神妙な行事を一生懸命におこなう、というお国柄のせいだろうか。個人の自由・自律と選択を尊重した教育制度とか、広大で美しい国土に少ない人口がゆったりと暮らしている、というイメイジのせいだろうか。

 日本は、いい意味でも悪い意味でも「東アジアの国民(国家)」だ。ヨーロッパ、ことに北欧諸国と比べると、圧倒的に人口密度が大きく、古来から人口の密集・集住を土台=前提とする農業構造(水田稲作)や都市構造によって社会を形成し営んできた。
 だから、集団や組織の生き残りのために個人の自律が後回しになるような社会の規範や心理・行動スタイルができ上がってきた。
 もちろん、人口の密集状態のなかで、互いの距離を保つ工夫もいくつもあるのだが。

 だが、近代工業化とか金融自由化が進んでみると、どうも日本の高い人口密度の社会は、(どこの国も不適応状態にはなっているが)ことさらに不適応で住みにくい状況になってしまったような気がする。

 ところが、人口が少なく密集度が小さいところでは、個人の高い自律性を保たなければ、集団の生存も相互の協力も成り立たないだろう。人びとの接触を密にすることには不向きで、できるだけ一人ひとりの生存能力を高めなければならない。
 独特の社会福祉の仕組みは、そのために生まれてのかもしれない。

 人びとの接触の濃度が小さいから、シャイな性格も生まれるのかもしれない。
 とはいえ、ほどほどの距離を保って協力し合わないと、社会が成り立たない。いざというときの結集力というか相互協力とか忍耐力は、逆に大きいかもしれない。他人に対する期待とか社会に対する義務感や期待感を強める工夫が社会福祉制度なのかもしれない。
 何しろ、そうしないと社会が成り立たないのだから。
 個人の自律と社会のなjかでの相互依存意識の両方を高める工夫というか…。






 
 



 

 



  
 



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