●映画の物語におけるCoincidency●
Coincideとは、「物事や出来事が同時に生じる」、「偶発的にいくつかの事件が符合する、結びつく」ということだ。Coincidenceとは、その名詞形。そして、題名の「コインシデンシー」とは、物事や出来事が偶発的に共時化したり、符号し、結びつく傾向性を意味する。
あるいは、偶発的な出来事=incidenceに接頭辞のCoがついたものと考え、いくつかの出来事が同時に起きたり、結びついたりすること、と考えればいい。
このブログは、映画評論ではない。映画への礼賛である。ここで取り上げた作品については、100%、いや200%おススメだ。とにかく観てほしいということだ。
そして、映画をもっと楽しみ、描かれた素材や状況をとにかく、自分の好きなように突つき回そう、ということだ。
私は、映画を評価・評論はしない。ひたすら「乾杯!」するだけだ(もっとも、私は酒をほとんど飲まない)。
1 問題の設定
ここで考察するのは、映画作品の物語の筋立ての「つじつま」について、だ。
およそ文芸や芸術作品が描く物語は、現実世界での経験・知覚を何ほどか反映しながら、人びとの主観のなかで組み立てられた「筋立て」にほかならない。
たとえば小説。
佐々木譲『笑う警官』(ハルキ文庫:角川春樹事務所)の筋立てを一瞥すると、
北海道警察内部の腐敗の事実について県議会で証言することになっていた警官(刑事)が、冤罪をかけられて指名手配され、しかも、「発見しだい射殺すべし」という方針が出た。この公式の捜査方針に対して、警察幹部の腐敗や謀略をかぎつけたその警官の仲間たちは、公式の道警の捜査とは別個に、同僚の冤罪を晴らすべく、午後遅くから夜中を徹して、独自の捜査を繰り広げる。そういう物語だ。
そんなことは、現実には起こるはずがないし、まして、1晩で事件の真相が解明されるなんて、ありえない。
つまり、物語の筋立てには、ものすごく無理がある。けれども、この作品は、読者を物語の世界に引きずりこみ、深い感情移入をもたらす。傑作である。
そして、道警察という官僚・行政組織の現代における組織的=制度的劣化・硬直性や腐敗の現実、他方で犯罪捜査に取り組む現場の捜査官=人間たちの情熱や正義感、反骨精神などを、見事に描き出している。
したがって、かなり無理がある物語の展開に対しては、批判はほとんどなく、むしろ高い評価が与えられている。
そうだ、これはフィクションだからだ。
そして、この小説が描き出そうとしたテーマや問題状況が、きわめて高く評価された。
ところが、映画作品となると、同じフィクションでも、物語の筋立てについての評価の目は格段に厳しくなる場合が多い。
どうやら、多くの人びとは、実写映像を観ると、その物語の筋立てについて「リアリティ」を求めがちになるらしい。フィクションなのに。
そのため、映像作品の物語が描き出そうとしたテーマや問題について考える前に、物語の筋立てについての「リアリティ」に関心が向いてしまい、映像作品が提起したテーマ=話題についての吟味が忘れられてしまうようだ。
ここで、私の叙述の結論を先に言っておくと、「現実社会の真理・真実」と「芸術的(ないし文芸的)真理・真実」とは異なる、ということだ。
もっとも「現実社会の真理・真実」とはいっても、それは(カント的な意味合いでの)観念上の想定にすぎない。実際にあるのは、「現実社会の真理・真実」についての私たちの認識や意識、想念にすぎない。だから、それは、日常の経験的知覚において把握され、形作られた《リアリティのイメイジ》というべきかもしれない。
つまり、現実社会での出来事の筋立ては「こうあるべきだ」という個々人のイメイジ(因果律のイメイジ)があって、映画作品のストーリー展開について、そのイメイジを尺度として評価しがちだということだ。
映画を楽しむためには、筋立ての「つじつま」が合うかどうかということよりも(もちろん、こだわりたい人は大いにこだわっていい)、そのような物語で何を描き出そうとしたかを思索すべきだということだ。
2 フィクションの「因果律」
これは、映画作品におけるリアリティとかリアリズムのあり方をめぐる問題でもある。
「つじつま」が合わないと思うのは、物語の展開について「因果律」が成り立たないと判断するということだ。
映像作品の制作者たちは、テーマを描き出すために、物語における出来事の流れ(連鎖)とか状況設定について独特の加工を施す。したがって、ストーリー展開は「テーマ描出」という目的の手段でしかない。
だから、とりわけアクションものや政治スリラー作品では、現実の世界ではめったに起こらないような偶然を立て続けに引き起こし、シンクロさせ、テーマを訴えるクライマックスや大団円に強引に持ち込んでいく。つまり、映画作品の舞台というテーブルの上では、サイコロの目は「1」(あるいは「6」)ばかりが100回連続で出続けるのだ。
そんなことはあるはずがない。
では、なぜ、あるはずがない出来事を描くのか。
要するに、何か言いたいこと、テーマを語るためだ。
それゆえ、観る側から言うと、「そんなにうまく運ぶはずがない」ことが立て続けに起き、「いかにも都合のいいように、物語の筋立てが動いていく」ことになる。ストーリー展開は、テーマを語るのに都合のよいように結びつき、共時化し、符合していく。これを「コインシデンシー」と呼ぶ。
■事例研究■
① 「ダイハード」
たとえば「ダイハード」。
主人公のジョン・マクレイン(NYPD警部補)は、キャリアウーマンとしてロスアンジェルスに単身赴任している妻に会うために、はるばる大西洋岸(NY)からロスのナカトミ・ビルディングまでやって来る。よりによってその夜に、テロリストグループがこのビルを襲撃して乗っ取る。
つまりここでは、殺しても死なない、決してめげない(i.e.:die hard)現役の警察官(というよりもサヴァイバリスト)が来た日にまるで合わせるかのように、テロ集団の襲来が起きたのだ。
そのあと、マクレインはいくども危地に追い込まれるが、運命の偶然の針は、かろうじてマクレインが生き延び、テロリストをしだいに焦燥に追い込むように回り始める。
こうして、物語の筋立ては、マクレインのダイハードな挑戦=戦いが少しずつ優位を獲得していくように展開していく。
*「ダイハード」の意味は、どんなに追い詰められても死なない、めげない、信念や節操を曲げない、ということ。転じて、「死に損ない(しぶといヤツに対する悪口)」とか「とことん夢中になる」という意味もあるらしい。
②「エネミー・オブ・アメリカ」
NSAのレイノルズ一味が貯水池の畔で下院議員を殺害するシーンを録画したMCDを持ってNSAエイジェントたちから逃げ回るザーヴィッツは、首都のショッピング街に逃げ込み、偶然、大学の同窓生のクレイトンに遭遇する。
そして弁護士クレイトンは、訴訟闘争の手段としての情報を得るために、昔の恋人のレイチェルに映像の盗撮を依頼するが、盗撮の実行者がブリルだった。ブリルはもとNSAのアナリストで、この機関が世界と国内の市民社会の監視のための監視衛星システムや盗聴システムを構築するさいに、その開発を手がけたエンジニアだった。
彼はNSAの企図の恐ろしさに気づいて、スピンアウトし、地下にもぐった男だった。
こうして、NSAの1部門の謀略に関する決定的な情報が、主人公クレイトンの手許に転がり込むことで、彼が陰謀の渦中に巻き込まれるような出来事の連鎖反応が起き続ける。しかも、クレイトンの戦いの武器となり仲間となるブリルとのコネクションが手の届くところにあった。
まさに、この物語の筋立ては、すっかり用意されている。
このように、小説や映画作品のストーリー展開は、テーマ(アクション活劇)を表現するために過不足なく(いや、過剰なくらいに)誂えてあるわけだ。現実にはそんなに拍子よく(主人公にとっては危機の連続だから、拍子悪くというべきか)物事は運ばない。
■筋立てに対する好みは、人それぞれ■
政治スリラーとかヴァイオレンス・アクションものには、この手の筋立てが多い。この意味では、物語り全体としての(つまり客観的に見た場合の)状況設定は、リアリティに乏しいとはいえる。
だが、筋立ての面白さをこのような「リアリティ」に求めるかどうかは、人それぞれだ。なかには、ジェットコウスターのようなその場そばその場での切迫感や興奮を楽しみたいという人もいるだろう。他方で、筋立ての客観性というか現実味、あるいはプロットの巧みさを求める人にとっては、取ってつけたようなストーリー展開や状況設定は鼻白むものかもしれない。
けれども、この手の活劇の物語の発端、状況設定がダメということになると、そもそも物語が成り立たない。筋はどうあれ、とにかく物語は始まらなければならない。だから、《初期設定》に難癖をつけても始まらない。
「ビッグバン」(つまりは所与とされる仮説)がなければ、宇宙創成の物語はそもそも成り立たないのだ。
したがって、映画作品のストーリー展開は、if…then/given that,…というゲイム的な論理の世界にあるのだ。
3 筋立てについての見方
さて、先ほど、物語の筋立てはテーマを効果的に表現するための手段(道具立て)にほかならない(でしかない)と述べた。だとすれば、筋立てについての評価(もし評価を下すとすれば)の尺度は、その筋立てによってどれほど効果的にテーマが表現されたか、ということになる。
その場合、効果の度合いとは、説得力とか、活劇のなかに観客を引き込む魅力、感情移入を誘導する手際ということになろうか。
とすれば、「百歩譲って」物語の初期設定をひとまず認めて、状況設定を受け入れようということになる。では、その状況設定のなかで、物語に登場する人物たちは、作品で描かれているような心理状態になり、そういう言動をおこなうだろうか、ということになる。
一定の状況下での心理状態とか言動反応がリアルかどうかについては、観る人の経験や「常識」、好み、価値観によって左右される。となると、人それぞれで、まちまちになる。
ということは、やはり堂々巡りになってしまう。結局、人それぞれということになる。他人が「リアリティ」の評価を提示し、押し付けても、「余計なお世話」ということになる。
■映画観は「転んでもタダでは起きるな!」■
で、ここで映画バカとしての私の見方を示しておく。
どんな映画であれ、観たら何かをつかめ。
楽しさ、面白さを拾って来い。
見ることができただけ、ありがたいと思え。
考える素材を取り出せ。
ゴミからも宝物を探し出す鑑識眼(と心の広さ、好奇心)を持て。
このキャッチコピーの含意は、こうである。
映画から何を取り出すかは、その人しだいであるということだ。「つまらない」という反応は、正直ではあるが、その人の知識や経験、思考力の薄っぺらさを表すことになるということだ。
それは、制作者たちは、どのような準備をしたか、そのような設定、道具立ては、どのような考えによるものか。彼らの方法論や目論見、意図、心理を、読み取れ。もちろん鑑賞者の好き勝手に、だ。
ただし、自分なりの根拠づけ、起承転結をもって。
これは、映画で描かれた物語に対して、自分なりの物語仮説を対置させるということだ。作品の物語に欠落や説得力不足があれば、自分で補えばいい。作品をもう一度観ながら好き勝手に補っているうちに、それまでには気づかなかったことにハッと気づくことがある。
「ああ、そうだったのか」と。
そうなったら、しめたもの。どんな作品からも学ぶことがある。
どうしても、気に入らない作品は観なくてもいい。何を観るかは、好みしだいだ。
■作品の狙い=テーマを読む■
さて、では具体的な作品を取り上げて、検討してみよう。
●「シューター」のテーマを読む●
この作品は、原作の物語がものすごく長大だった(翻訳文庫本で1300ペイジを超える)。そのまま映画にすれば、少なくとも5時間にはなる。映画の日本向けヴァージョンでは、約2時間ちょっと。ということは、原作の物語をかなり絞り込んで映像化してある。
しかし、この物語は、全体の流れを一通り描かなければ、起承転結をつくることことができない構成になっている。だから、物語の要点をすべて羅列しなければならないという制約がある。
そうなると、脚本づくりと演出、映像編集はかなり難しい。相当の力量が必要だ。この要件を満たしても、わずか2時間ばかりの作品にするとすれば、観客はスト-リー展開と人物描写などについて不満を持つだろう。
したがって、物語の筋立て=展開はかなり大雑把にしてある。
では、そのうえで、制作陣は何を提示したかったのか。テーマは何か。
私が考えるに、最有力のテーマは「超遠距離射撃の世界」(または狙撃手の世界)を映像化することだったのではないか。これを描き出せれば、物語の筋立ては多少大雑把でもいい、としたのではないか。
すると、次の問題は、このテーマをどのような状況設定のなかに位置づけるのか、ということになる。つまり、原作の物語が描いた事柄のどの部分を強調するかということになる。
それは、
①アメリカ軍部と癒着した軍事コンサルティング企業の暗部
②PKO活動のいかがわしさ(①と絡むから)
だと、私は勝手にこじつけたい。
狙撃という現象は、さまざまな状況のなかに組み込むことができる。たとえば、戦場で。あるいは、都市での要人暗殺。
いずれにせよ、狙撃をめぐる状況をリアルに表現しなければならない。エティオピアでの狙撃はスポッターのドニーの行動も含めてリアルに描かれている。
このことから、制作陣は、狙撃手とその補助者はフィールド(現場)でどういう動きをするかを精密に描き出したかったのだ、という強い意図が読み取れる。
次に状況設定の①と②を検討しよう。
◆ペンタゴンと民間軍事顧問会社との後ろ暗い癒着◆
パクスアメリカーナの時代にあって、政府組織としての軍部と軍事企業との持ちつ持たれつの関係は、きわめてありふれた、恒常的な事象だった。この事象は、軍の中枢や大統領府=政権中枢も絡む大がかりで系統的なものから、ペンタゴン内部の派閥闘争(路線闘争)と結びついた分派運動めいたものまで、実にさまざまな様相をもつ。
ペンタゴンの強みは、中枢部が、一部の跳ね上がり分子が分派行動しても、それがアメリカの覇権を維持強化する方向にあるものであれば、意図的に見逃すという「大らかさ」にあるともいえる。たとえば、超保守派=右翼が、ペンタゴンや大統領府の強硬派と結びついて、イランや中央アジア、ラテンアメリカ(ことにニカラグア)で反左翼運動や軍事独裁政権を支援するために、CIAとも絡みながら、非公式のルートを利用してきたことは、周知の事実である。
それは、「右翼跳ね上がり」に寛容な共和党政権時代に多かった。
その意味では、この作品でジョンスン大佐率いる軍事顧問会社が、民間の石油大手企業の権益ために、アフリカで暗躍するのは、リアルな背景があるということになる。
◆PKOという名目での営利活動◆
日本人(日本のメディア)は、国連のPKOといえば、何でも、その地域の平和を構築するための中立的で公平な活動であるかのように考える場合が多いようだ。だが、PKOは、国連の論争で多数派を握った勢力が推進する営利活動でもある。というのは、参加する軍隊に大きな名誉と巨額の財政資金が分配されるからだ。
まして、多数派にとって都合の良い、どちらか一方の勢力による平和=秩序を構築することが、先進諸国の多国籍企業の経営基盤を地ならしする結果を生むことも多いのだ。
胡散臭さが特に問題化したのは、旧ユーゴスラビアへのNATO軍の介入である。このPKO(PMO:平和形成作戦)は、セルビア民族による弱小民族への抑圧や弾圧、そして虐殺に対する国際世論の強い批判を背景にして正当化された。
だが、悲惨な戦闘が終わってから暴露された事実は、おぞましいものだった。
たしかに多数派=セルビア人による圧迫は事実だった。だが、国際世論の誘導・操作のために、ヨーロッパとアメリカの巨大広告代理企業が大がかりなキャンペインを展開したことで、「多数派」の世論が形成されたのだ。広告会社の企画によって、先進諸国では、セルビア民族の残虐性や横柄さが過剰に強調されたメディア報道が繰り返された。
制裁や抑止のための軍事活動は必要だったとしても、それがNATOによる大規模な空爆や砲撃が必要なほどのものだったのか? この過剰な攻撃関与を正当化した「世論」の内容を吟味したのか?
というわけで、PKOという名目があれば、何でも中立で公正な平和活動であるかのような外見は「まやかし」である。なかには、相当に怪しくいかがわしいものもある。この意味では、作品のプロットはそれなりにリアルな背景状況があってのものである。
◆作品の外部的事情はどうだったか◆
こうしてみると、この作品はそれなりの物語の完結性をもつといえる。
ただし、狙撃の世界を描きたかったのだとすれば、あまりに長い物語を選んでしまったという感じはする。とはいえ、狙撃の世界を迫真の物語で描いたのがこの原作しかなかったのだとすれば、仕方がなかったということになる。
映画の日本向け配給システムの関係で、日本向けヴァージョンについて、あるいは無理やり物語を2時間余りに切り縮めたということはありえる。何しろ、日本の映画劇場の経営は、課税率の大きさという問題もあって、上映の回転率をかなり高くしないと成り立たない、という現状がある。つまり、2時間以上の上映時間の作品を営業ベイスに乗せるのがむずかしいのだ。
そうだとすると、商業的な制約から、制作陣に狙いは日本人にはよく伝わらない編集になっているということになる。
ヨーロッパ向けヴァージョンはどうだったのか? ぜひ知りたいものだ。
4 映画の観方
結局のところ、フィクション映画については、小説やマンガと同じく、テーマを語るためにきわめて特異な状況や筋立てを設定するのだから、そのつもりで観るべきだ。しかし、それでも、物語が現実世界とどれほどの違い=距離があるのかということが、私たち観る側がどれほどの現実味を感じるかの程度の差を生み出す。
たとえば、「バットマン」のような物語はファンタジーに近く、そもそも生起するできごとが現実離れしている。しかし、現実離れした事件の展開の個々の場面、局部的な場面では、登場人物たちは(かなりの誇張はあるが)現実世界の人間たちと近い感情を抱き言動をおこなう。
というのも、小説であれ、映画であれ、読み手や観客を物語りに引き込むためには、登場人物たちへの彼らの感情移入が不可欠であるからだ。より深い感情移入をもたらすためには、登場人物たちの心情や行動が私たちに近い存在でなければならない。そこで、物語り全体は荒唐無稽でも、個々の場面での人物たちの心情や言動は現実世界の人間と共通するものをより多く持つように設定される。
そもそもフィクションは、人間の現実世界への見方(世界観、歴史観、人生観など)の投影である。物語が、たとえ「ハリー・ポッター」のような純然たるファンタジーであっても。ことに善悪や好悪の尺度、世の中や他人への態度(友情とか恋愛感情、競争心など)については、そうだ。
その意味では、どんなに荒唐無稽な物語であっても、観客に理解できるものであるためには、必ず何ほどかの現実味を備えていなければならない。というよりも、フィクシャスな物語のあれこれの部分は、現実世界から切り取ってきた素材・材料によって組み立てられているのだ。
Coincideとは、「物事や出来事が同時に生じる」、「偶発的にいくつかの事件が符合する、結びつく」ということだ。Coincidenceとは、その名詞形。そして、題名の「コインシデンシー」とは、物事や出来事が偶発的に共時化したり、符号し、結びつく傾向性を意味する。
あるいは、偶発的な出来事=incidenceに接頭辞のCoがついたものと考え、いくつかの出来事が同時に起きたり、結びついたりすること、と考えればいい。
このブログは、映画評論ではない。映画への礼賛である。ここで取り上げた作品については、100%、いや200%おススメだ。とにかく観てほしいということだ。
そして、映画をもっと楽しみ、描かれた素材や状況をとにかく、自分の好きなように突つき回そう、ということだ。
私は、映画を評価・評論はしない。ひたすら「乾杯!」するだけだ(もっとも、私は酒をほとんど飲まない)。
1 問題の設定
ここで考察するのは、映画作品の物語の筋立ての「つじつま」について、だ。
およそ文芸や芸術作品が描く物語は、現実世界での経験・知覚を何ほどか反映しながら、人びとの主観のなかで組み立てられた「筋立て」にほかならない。
たとえば小説。
佐々木譲『笑う警官』(ハルキ文庫:角川春樹事務所)の筋立てを一瞥すると、
北海道警察内部の腐敗の事実について県議会で証言することになっていた警官(刑事)が、冤罪をかけられて指名手配され、しかも、「発見しだい射殺すべし」という方針が出た。この公式の捜査方針に対して、警察幹部の腐敗や謀略をかぎつけたその警官の仲間たちは、公式の道警の捜査とは別個に、同僚の冤罪を晴らすべく、午後遅くから夜中を徹して、独自の捜査を繰り広げる。そういう物語だ。
そんなことは、現実には起こるはずがないし、まして、1晩で事件の真相が解明されるなんて、ありえない。
つまり、物語の筋立てには、ものすごく無理がある。けれども、この作品は、読者を物語の世界に引きずりこみ、深い感情移入をもたらす。傑作である。
そして、道警察という官僚・行政組織の現代における組織的=制度的劣化・硬直性や腐敗の現実、他方で犯罪捜査に取り組む現場の捜査官=人間たちの情熱や正義感、反骨精神などを、見事に描き出している。
したがって、かなり無理がある物語の展開に対しては、批判はほとんどなく、むしろ高い評価が与えられている。
そうだ、これはフィクションだからだ。
そして、この小説が描き出そうとしたテーマや問題状況が、きわめて高く評価された。
ところが、映画作品となると、同じフィクションでも、物語の筋立てについての評価の目は格段に厳しくなる場合が多い。
どうやら、多くの人びとは、実写映像を観ると、その物語の筋立てについて「リアリティ」を求めがちになるらしい。フィクションなのに。
そのため、映像作品の物語が描き出そうとしたテーマや問題について考える前に、物語の筋立てについての「リアリティ」に関心が向いてしまい、映像作品が提起したテーマ=話題についての吟味が忘れられてしまうようだ。
ここで、私の叙述の結論を先に言っておくと、「現実社会の真理・真実」と「芸術的(ないし文芸的)真理・真実」とは異なる、ということだ。
もっとも「現実社会の真理・真実」とはいっても、それは(カント的な意味合いでの)観念上の想定にすぎない。実際にあるのは、「現実社会の真理・真実」についての私たちの認識や意識、想念にすぎない。だから、それは、日常の経験的知覚において把握され、形作られた《リアリティのイメイジ》というべきかもしれない。
つまり、現実社会での出来事の筋立ては「こうあるべきだ」という個々人のイメイジ(因果律のイメイジ)があって、映画作品のストーリー展開について、そのイメイジを尺度として評価しがちだということだ。
映画を楽しむためには、筋立ての「つじつま」が合うかどうかということよりも(もちろん、こだわりたい人は大いにこだわっていい)、そのような物語で何を描き出そうとしたかを思索すべきだということだ。
2 フィクションの「因果律」
これは、映画作品におけるリアリティとかリアリズムのあり方をめぐる問題でもある。
「つじつま」が合わないと思うのは、物語の展開について「因果律」が成り立たないと判断するということだ。
映像作品の制作者たちは、テーマを描き出すために、物語における出来事の流れ(連鎖)とか状況設定について独特の加工を施す。したがって、ストーリー展開は「テーマ描出」という目的の手段でしかない。
だから、とりわけアクションものや政治スリラー作品では、現実の世界ではめったに起こらないような偶然を立て続けに引き起こし、シンクロさせ、テーマを訴えるクライマックスや大団円に強引に持ち込んでいく。つまり、映画作品の舞台というテーブルの上では、サイコロの目は「1」(あるいは「6」)ばかりが100回連続で出続けるのだ。
そんなことはあるはずがない。
では、なぜ、あるはずがない出来事を描くのか。
要するに、何か言いたいこと、テーマを語るためだ。
それゆえ、観る側から言うと、「そんなにうまく運ぶはずがない」ことが立て続けに起き、「いかにも都合のいいように、物語の筋立てが動いていく」ことになる。ストーリー展開は、テーマを語るのに都合のよいように結びつき、共時化し、符合していく。これを「コインシデンシー」と呼ぶ。
■事例研究■
① 「ダイハード」
たとえば「ダイハード」。
主人公のジョン・マクレイン(NYPD警部補)は、キャリアウーマンとしてロスアンジェルスに単身赴任している妻に会うために、はるばる大西洋岸(NY)からロスのナカトミ・ビルディングまでやって来る。よりによってその夜に、テロリストグループがこのビルを襲撃して乗っ取る。
つまりここでは、殺しても死なない、決してめげない(i.e.:die hard)現役の警察官(というよりもサヴァイバリスト)が来た日にまるで合わせるかのように、テロ集団の襲来が起きたのだ。
そのあと、マクレインはいくども危地に追い込まれるが、運命の偶然の針は、かろうじてマクレインが生き延び、テロリストをしだいに焦燥に追い込むように回り始める。
こうして、物語の筋立ては、マクレインのダイハードな挑戦=戦いが少しずつ優位を獲得していくように展開していく。
*「ダイハード」の意味は、どんなに追い詰められても死なない、めげない、信念や節操を曲げない、ということ。転じて、「死に損ない(しぶといヤツに対する悪口)」とか「とことん夢中になる」という意味もあるらしい。
②「エネミー・オブ・アメリカ」
NSAのレイノルズ一味が貯水池の畔で下院議員を殺害するシーンを録画したMCDを持ってNSAエイジェントたちから逃げ回るザーヴィッツは、首都のショッピング街に逃げ込み、偶然、大学の同窓生のクレイトンに遭遇する。
そして弁護士クレイトンは、訴訟闘争の手段としての情報を得るために、昔の恋人のレイチェルに映像の盗撮を依頼するが、盗撮の実行者がブリルだった。ブリルはもとNSAのアナリストで、この機関が世界と国内の市民社会の監視のための監視衛星システムや盗聴システムを構築するさいに、その開発を手がけたエンジニアだった。
彼はNSAの企図の恐ろしさに気づいて、スピンアウトし、地下にもぐった男だった。
こうして、NSAの1部門の謀略に関する決定的な情報が、主人公クレイトンの手許に転がり込むことで、彼が陰謀の渦中に巻き込まれるような出来事の連鎖反応が起き続ける。しかも、クレイトンの戦いの武器となり仲間となるブリルとのコネクションが手の届くところにあった。
まさに、この物語の筋立ては、すっかり用意されている。
このように、小説や映画作品のストーリー展開は、テーマ(アクション活劇)を表現するために過不足なく(いや、過剰なくらいに)誂えてあるわけだ。現実にはそんなに拍子よく(主人公にとっては危機の連続だから、拍子悪くというべきか)物事は運ばない。
■筋立てに対する好みは、人それぞれ■
政治スリラーとかヴァイオレンス・アクションものには、この手の筋立てが多い。この意味では、物語り全体としての(つまり客観的に見た場合の)状況設定は、リアリティに乏しいとはいえる。
だが、筋立ての面白さをこのような「リアリティ」に求めるかどうかは、人それぞれだ。なかには、ジェットコウスターのようなその場そばその場での切迫感や興奮を楽しみたいという人もいるだろう。他方で、筋立ての客観性というか現実味、あるいはプロットの巧みさを求める人にとっては、取ってつけたようなストーリー展開や状況設定は鼻白むものかもしれない。
けれども、この手の活劇の物語の発端、状況設定がダメということになると、そもそも物語が成り立たない。筋はどうあれ、とにかく物語は始まらなければならない。だから、《初期設定》に難癖をつけても始まらない。
「ビッグバン」(つまりは所与とされる仮説)がなければ、宇宙創成の物語はそもそも成り立たないのだ。
したがって、映画作品のストーリー展開は、if…then/given that,…というゲイム的な論理の世界にあるのだ。
3 筋立てについての見方
さて、先ほど、物語の筋立てはテーマを効果的に表現するための手段(道具立て)にほかならない(でしかない)と述べた。だとすれば、筋立てについての評価(もし評価を下すとすれば)の尺度は、その筋立てによってどれほど効果的にテーマが表現されたか、ということになる。
その場合、効果の度合いとは、説得力とか、活劇のなかに観客を引き込む魅力、感情移入を誘導する手際ということになろうか。
とすれば、「百歩譲って」物語の初期設定をひとまず認めて、状況設定を受け入れようということになる。では、その状況設定のなかで、物語に登場する人物たちは、作品で描かれているような心理状態になり、そういう言動をおこなうだろうか、ということになる。
一定の状況下での心理状態とか言動反応がリアルかどうかについては、観る人の経験や「常識」、好み、価値観によって左右される。となると、人それぞれで、まちまちになる。
ということは、やはり堂々巡りになってしまう。結局、人それぞれということになる。他人が「リアリティ」の評価を提示し、押し付けても、「余計なお世話」ということになる。
■映画観は「転んでもタダでは起きるな!」■
で、ここで映画バカとしての私の見方を示しておく。
どんな映画であれ、観たら何かをつかめ。
楽しさ、面白さを拾って来い。
見ることができただけ、ありがたいと思え。
考える素材を取り出せ。
ゴミからも宝物を探し出す鑑識眼(と心の広さ、好奇心)を持て。
このキャッチコピーの含意は、こうである。
映画から何を取り出すかは、その人しだいであるということだ。「つまらない」という反応は、正直ではあるが、その人の知識や経験、思考力の薄っぺらさを表すことになるということだ。
それは、制作者たちは、どのような準備をしたか、そのような設定、道具立ては、どのような考えによるものか。彼らの方法論や目論見、意図、心理を、読み取れ。もちろん鑑賞者の好き勝手に、だ。
ただし、自分なりの根拠づけ、起承転結をもって。
これは、映画で描かれた物語に対して、自分なりの物語仮説を対置させるということだ。作品の物語に欠落や説得力不足があれば、自分で補えばいい。作品をもう一度観ながら好き勝手に補っているうちに、それまでには気づかなかったことにハッと気づくことがある。
「ああ、そうだったのか」と。
そうなったら、しめたもの。どんな作品からも学ぶことがある。
どうしても、気に入らない作品は観なくてもいい。何を観るかは、好みしだいだ。
■作品の狙い=テーマを読む■
さて、では具体的な作品を取り上げて、検討してみよう。
●「シューター」のテーマを読む●
この作品は、原作の物語がものすごく長大だった(翻訳文庫本で1300ペイジを超える)。そのまま映画にすれば、少なくとも5時間にはなる。映画の日本向けヴァージョンでは、約2時間ちょっと。ということは、原作の物語をかなり絞り込んで映像化してある。
しかし、この物語は、全体の流れを一通り描かなければ、起承転結をつくることことができない構成になっている。だから、物語の要点をすべて羅列しなければならないという制約がある。
そうなると、脚本づくりと演出、映像編集はかなり難しい。相当の力量が必要だ。この要件を満たしても、わずか2時間ばかりの作品にするとすれば、観客はスト-リー展開と人物描写などについて不満を持つだろう。
したがって、物語の筋立て=展開はかなり大雑把にしてある。
では、そのうえで、制作陣は何を提示したかったのか。テーマは何か。
私が考えるに、最有力のテーマは「超遠距離射撃の世界」(または狙撃手の世界)を映像化することだったのではないか。これを描き出せれば、物語の筋立ては多少大雑把でもいい、としたのではないか。
すると、次の問題は、このテーマをどのような状況設定のなかに位置づけるのか、ということになる。つまり、原作の物語が描いた事柄のどの部分を強調するかということになる。
それは、
①アメリカ軍部と癒着した軍事コンサルティング企業の暗部
②PKO活動のいかがわしさ(①と絡むから)
だと、私は勝手にこじつけたい。
狙撃という現象は、さまざまな状況のなかに組み込むことができる。たとえば、戦場で。あるいは、都市での要人暗殺。
いずれにせよ、狙撃をめぐる状況をリアルに表現しなければならない。エティオピアでの狙撃はスポッターのドニーの行動も含めてリアルに描かれている。
このことから、制作陣は、狙撃手とその補助者はフィールド(現場)でどういう動きをするかを精密に描き出したかったのだ、という強い意図が読み取れる。
次に状況設定の①と②を検討しよう。
◆ペンタゴンと民間軍事顧問会社との後ろ暗い癒着◆
パクスアメリカーナの時代にあって、政府組織としての軍部と軍事企業との持ちつ持たれつの関係は、きわめてありふれた、恒常的な事象だった。この事象は、軍の中枢や大統領府=政権中枢も絡む大がかりで系統的なものから、ペンタゴン内部の派閥闘争(路線闘争)と結びついた分派運動めいたものまで、実にさまざまな様相をもつ。
ペンタゴンの強みは、中枢部が、一部の跳ね上がり分子が分派行動しても、それがアメリカの覇権を維持強化する方向にあるものであれば、意図的に見逃すという「大らかさ」にあるともいえる。たとえば、超保守派=右翼が、ペンタゴンや大統領府の強硬派と結びついて、イランや中央アジア、ラテンアメリカ(ことにニカラグア)で反左翼運動や軍事独裁政権を支援するために、CIAとも絡みながら、非公式のルートを利用してきたことは、周知の事実である。
それは、「右翼跳ね上がり」に寛容な共和党政権時代に多かった。
その意味では、この作品でジョンスン大佐率いる軍事顧問会社が、民間の石油大手企業の権益ために、アフリカで暗躍するのは、リアルな背景があるということになる。
◆PKOという名目での営利活動◆
日本人(日本のメディア)は、国連のPKOといえば、何でも、その地域の平和を構築するための中立的で公平な活動であるかのように考える場合が多いようだ。だが、PKOは、国連の論争で多数派を握った勢力が推進する営利活動でもある。というのは、参加する軍隊に大きな名誉と巨額の財政資金が分配されるからだ。
まして、多数派にとって都合の良い、どちらか一方の勢力による平和=秩序を構築することが、先進諸国の多国籍企業の経営基盤を地ならしする結果を生むことも多いのだ。
胡散臭さが特に問題化したのは、旧ユーゴスラビアへのNATO軍の介入である。このPKO(PMO:平和形成作戦)は、セルビア民族による弱小民族への抑圧や弾圧、そして虐殺に対する国際世論の強い批判を背景にして正当化された。
だが、悲惨な戦闘が終わってから暴露された事実は、おぞましいものだった。
たしかに多数派=セルビア人による圧迫は事実だった。だが、国際世論の誘導・操作のために、ヨーロッパとアメリカの巨大広告代理企業が大がかりなキャンペインを展開したことで、「多数派」の世論が形成されたのだ。広告会社の企画によって、先進諸国では、セルビア民族の残虐性や横柄さが過剰に強調されたメディア報道が繰り返された。
制裁や抑止のための軍事活動は必要だったとしても、それがNATOによる大規模な空爆や砲撃が必要なほどのものだったのか? この過剰な攻撃関与を正当化した「世論」の内容を吟味したのか?
というわけで、PKOという名目があれば、何でも中立で公正な平和活動であるかのような外見は「まやかし」である。なかには、相当に怪しくいかがわしいものもある。この意味では、作品のプロットはそれなりにリアルな背景状況があってのものである。
◆作品の外部的事情はどうだったか◆
こうしてみると、この作品はそれなりの物語の完結性をもつといえる。
ただし、狙撃の世界を描きたかったのだとすれば、あまりに長い物語を選んでしまったという感じはする。とはいえ、狙撃の世界を迫真の物語で描いたのがこの原作しかなかったのだとすれば、仕方がなかったということになる。
映画の日本向け配給システムの関係で、日本向けヴァージョンについて、あるいは無理やり物語を2時間余りに切り縮めたということはありえる。何しろ、日本の映画劇場の経営は、課税率の大きさという問題もあって、上映の回転率をかなり高くしないと成り立たない、という現状がある。つまり、2時間以上の上映時間の作品を営業ベイスに乗せるのがむずかしいのだ。
そうだとすると、商業的な制約から、制作陣に狙いは日本人にはよく伝わらない編集になっているということになる。
ヨーロッパ向けヴァージョンはどうだったのか? ぜひ知りたいものだ。
4 映画の観方
結局のところ、フィクション映画については、小説やマンガと同じく、テーマを語るためにきわめて特異な状況や筋立てを設定するのだから、そのつもりで観るべきだ。しかし、それでも、物語が現実世界とどれほどの違い=距離があるのかということが、私たち観る側がどれほどの現実味を感じるかの程度の差を生み出す。
たとえば、「バットマン」のような物語はファンタジーに近く、そもそも生起するできごとが現実離れしている。しかし、現実離れした事件の展開の個々の場面、局部的な場面では、登場人物たちは(かなりの誇張はあるが)現実世界の人間たちと近い感情を抱き言動をおこなう。
というのも、小説であれ、映画であれ、読み手や観客を物語りに引き込むためには、登場人物たちへの彼らの感情移入が不可欠であるからだ。より深い感情移入をもたらすためには、登場人物たちの心情や行動が私たちに近い存在でなければならない。そこで、物語り全体は荒唐無稽でも、個々の場面での人物たちの心情や言動は現実世界の人間と共通するものをより多く持つように設定される。
そもそもフィクションは、人間の現実世界への見方(世界観、歴史観、人生観など)の投影である。物語が、たとえ「ハリー・ポッター」のような純然たるファンタジーであっても。ことに善悪や好悪の尺度、世の中や他人への態度(友情とか恋愛感情、競争心など)については、そうだ。
その意味では、どんなに荒唐無稽な物語であっても、観客に理解できるものであるためには、必ず何ほどかの現実味を備えていなければならない。というよりも、フィクシャスな物語のあれこれの部分は、現実世界から切り取ってきた素材・材料によって組み立てられているのだ。