みんなの僧

24で僧侶になり54で住職になるまで夢や悩みを聞き続けて30年。

バナナモドキ

2010-11-20 18:00:59 | 日記
もみじ饅頭やバナナチョコとかの組み合わせはあるけど、もみじバナナやバナナもみじはない。ないよね?あるかな?
写真はもみじとバナナ。
前住職の感性で、混植栽。いいんだか、なんなんだかワカラン植栽である。

因みに、我が寺は奈良では寒い部類の地域。亜熱帯のバナナは生えてるのが精一杯で、今までバナナ(果肉)をつけなかった。

今年は異常に暑く、里は亜熱帯になった。そしてバナナの樹にバナナがなった。
「あれはバナナやってんねぇ~」と村の人が言う。

寺に生まれたら 寺の子だけど、寺の子が即、坊さんと言うわけではない。

バナナにバナナがなって初めて「バナナやってんねぇ」と言われる様に、僧侶は自分に僧侶の実をつけて初めて「坊さんどしたんやねぇ」と言ってもらえる。
亜熱帯の今年、みんなの僧は寺に生まれながら、54年も経って やっと僧侶になりました。

仏教界のバナナの様な存在ですけど、よろしゅうたのみます。

しかし、もみじにバナナの植栽て、長嶋茂雄さんじゃないが「んーー、どうなんでしょう?」


ことしは 綺麗だ。

2010-11-20 16:44:53 | 日記
臨寺の ほんこさんの逮夜が終わった。

今年は ことのほか里の紅葉が美しい。
近年になく美しいと 村の人が言ってる。

半端じゃない 暑い夏だった。急に秋の前に冬が来た。暑かったり寒かったり 寒暖が激しい年だった。

ものすごく 綺麗に色づいている。

人間も 寒暖、浮き沈みが激しいほど 人生は彩り鮮やかになるのかな?

寒かったり、沈み込んでると そんな風にはなかなか思えないけど。

いろいろ想う紅葉の季節ですね。



紅葉だ どこもかしこも 我が寺も

2010-11-20 12:03:54 | 日記
朝からの用事が終わり、ちょっと一息。

久しぶりに戻った 我が寺は すっかり晩秋の風情。
あら!借景よろしく 裏庭のもみじが すっかり、しっかり紅葉してる。

綺麗だなう。 ある意味、高台寺の紅葉より 美しいじゃん!と昨晩の敗北感に落とし前をつける。 負け惜しみかな。
でも、綺麗だ。

寺は やはり美しい方がよろしおますね。

親父・お袋・ご先祖さん・檀家さん・この寺を支えた方々・宗祖・お釈迦さん そして阿弥陀さん

ありがとうございます。
とっても綺麗です。生きてて 嬉しい瞬間です。
午後からは臨寺の ほんこさんに 行ってきまーす。


私は みんなの僧 釈 説樹。

2010-11-20 00:43:04 | 日記
みんなの僧とは

プロフィールに有るように 私は今まで 多くの仕事をしてきた。

また、山の中の小さな寺で収入は殆どないから 今も 多くの仕事をしている。

だから朝から晩まで 僧侶に従事してる訳ではない。

引っ越しの数と、アルバイトや仕事をやった数は自慢にならないが、多くを経験している。

どんなスポーツでも、先ずは 形から入るように 僧侶も 形から始めなければならない。

それは朝 起きた時から 寝る時まで ずっと続く。
形を真似るところから始まり、次に形の本質を学ぶ様になる。ついには形を越えて本質そのものを会得する様になる。
そうなると、僧侶自身が本質となる。その僧侶の読むお経も、立ち姿も、その所作も、そして説法も 本質そのものになる。本質とは仏の悟りのことだ。
しかし、一般人の体力や精神力、知力では適わない。ましてや修行に耐えうる忍耐力は尋常なレベルではない。

そんな ある種のスーパーマンやエリートでなければ 僧侶に成るのは難しい。また、命尽きるまで勤め上げる事は更に難しい。

とても努力だけでは駄目だ。生まれながらのものも必要だし、かと言って良い資質があっても 努力無しには適わないものだ。
比叡山や永平寺、興福寺や東大寺、薬師寺や高野山では今も そのような修行をしている。資質ある僧侶は少なからずいる。凄い事だ。

だからこそ、聖徳太子の時代から今日まで 仏教が廃れずに続いて来たのかも知れない。

そういう意味では 私はとても僧侶とは言えない。祖先も ある時は忍者、ある時は僧侶、ある時は武士、そしてある時は畑を耕す農夫でもあった。

色んな仕事をしながら寺の住職をする私は ご先祖様と同じ軌跡を 生き方をたどっているのかもしれん。
先達の高僧であり、浄土真宗の開祖 親鸞聖人は 自分のことを「私は僧に非ず、また俗人にも非ず」と表現した。

親鸞聖人の到達した境地での 僧に非ず、俗人に非ず ではないが、形として 私は非僧非俗である。

生まれついての資質の問題もあるし、とんと 努力も忍耐力もつかない。

煩悩は強く、それを抑える力は 逆にとても弱い。
そのために迷惑もかけ、難題も起こした。

しかし 私は青年期に僧侶となり 30年を経て今、住職となった。
本来の僧侶は ある種のエリートであり スーパーマンでなければ 務まらないと書いた。
そういう意味で、やはり私は僧侶と呼ばれるには 相応しくないと思う。それどころか 私の行動や言動、態度には 自分自身が嫌になることがある。 にも、にも関わらず 私は僧侶を住職をやり続ける。

何故なら、私はお釈迦さんが大好きだからだ。お釈迦さんが悟られ、話された話しが大好きだ。また、お釈迦さんが悟られた「真理」以外に 煩悩だらけの私を導くものはないからだ。

幾多の試練を乗り越えて来た訳ではない 。幾多の試練に打ちのめされ、打ちひしがれてきた。それでも そんなとき必ずそばに感じるのは お釈迦さんを始めとする仏さんたちの存在だ。

ある時は母に、ある時は友人に、ある時は妻に、ある時は同志に、ある時は子供達に 仏さんを感じる。また、ある時は風に、太陽の光に、ある時は大海原に仏さんを感じる。そして、ある時は タイミングにあわせて起こる不思議な事象にも仏さんのはからいを感じるのだ。

四年前の11月20日の朝、私は不思議な夢を見た。
薬師寺のような寺の境内を私は歩いている。敷かれた玉砂利をザッザッと踏みしめながら歩いていると、杉木立の向こうに 体長30メートルもあろうかと思われる 観音様が五体?いや五人?五観音様がいらっしゃる。

びっくりした。観音様だったし、ましてや五観音様だ。またその大きさはそびえ立つビルの様だった。

呆気にとられながら、少し怖い気持ちもありながら眺めていると その真っ白なお姿に煤がついて薄汚れているではないか‥

真っ白どころか 白でもなく 灰色に煤けているのだ。
自意識過剰気味な私は「観音様は嘆いておられるのだ。寺に生まれたにもかかわらず、不信心な私の生き方と人生を悲しんでおられるのだ」 と思った。
残念な気持ちで 玉砂利の境内を進むと 今度は無限に続く石段がある。見えるだけでも一千段はありそうだ。

五百段ほどの所に山門がある。奈良、吉野の金峰山寺の様な山門だ。

ふと登りたくなり、一歩足をかけた。すると石段がエスカレーターの様になり、五百段上の山門にまで私を引き上げた。
音もなくするすると‥

以前にも似たような夢を見た。とある元国会議員の選挙参謀を務めていた時だった。その時の石段は数段で、踏み込んだら スッと引き上げられた。階段脇には 伏見大社の白狐さまがいた。

(その夢のあと、元議員は参議院の全国比例で見事当選を果たし、現在は参議院の予算委員会委員長として活躍されてる)

今度は数段ではなく、五百段の石段だ。しかし、みるみるうちに山門に到達した。

山門を見上げ 気がつくと目の前に 二十歳位の黒い僧服を来た有髪の青年がいる。

何気なく近づくと 僧侶と思しき青年の首に 蛇がマフラーの様に巻きついていた。

よく見ると、濃いピンク色をした蛇だ。ザクロ色とも云うか とても美しく、綺麗な蛇なのだ。

蛇は普段 大嫌いなので、近寄りもしないが 何故か そのザクロ色したヘビに触れたくなり 右手で触れた。
チョロッと舌を出したが すごくおとなしい。そして蛇の頭を撫でていた。

何してるんだろう?おれは?と思ったとたん 夢から覚めた。

なんという夢だろう。何を表しているのだろう?はたまた、何かの啓示、お告げだろうか?とボンヤリ考えていた。

自分なりに 夢を解釈する。
観音様たちが薄汚れているのは 私の不信心のせいだ。

石段が五百段もあり、それに 足をかけたとたん エスカレーターになり、私を引き上げたのは 私の努力や精進には期待出来ない暗示。
山門は24歳の時に一旦僧侶になった次元を表し、

有髪の黒衣の青年僧は 僧侶になった時点の私。

ザクロ色の蛇が首にかかっているのは 煩悩に取り巻かれいる 私を表している。
などなど、つらつらと、起きたての寝ぼけた頭で 考えていた。

その時 電話が鳴った。

「住職が倒れた!あんたのお父さんが倒れたんや!すぐ寺に帰って来て」

電話は区長さんだった。
そして、その日、4年前の今日、11月20日から 私は生まれた寺の僧侶に戻り、四年を経て その寺の住職となった。

有無を言わさぬ 何かとてつもない 大きなチカラに 導かれ 私は改めて仏法の徒となった。

夢のお告げ、夢告に素直に従った。 親の言うことも 親戚の忠告も 先生の言うことも 誰の忠告も すべて拒否して 生きてきた私だが、魔法にかかった様に素直に従った。

素直にならざるをえない、まさに夢と言う名の現実だったのだ。

その後 意外に勉強し、意外にも修行も耐える事が出来た。

今も 夢告の 催眠状態がずっと 続いている。こんな私を導いて下さっている。
真言宗、華厳宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、浄土宗などなど いろいろ まだまだ 日本の仏教には宗派がある。
それぞれの宗派にそれぞれの信徒がいる。

しかし、信徒の為だけの宗派では もう仏教と呼べないのではないか?と思う。
宗派の信徒以外の人も
仏教に触れてほしい。時代はインターネットでグローバルである。

釈尊の教えを みんなに 知って欲しい。触れて欲しい。

だから みんなに仏教を。
だから 宗派を超えた、みんなの僧として残りの命を使いたい。

だから 私は みんなの僧 なんです。

みなさん よろしくお願いします。 釈 説樹

(400年ぶりに架け替えられた釣鐘に誓う。高臺寺にて)