火星年代記 (ハヤカワ文庫SF) | |
レイ・ブラッドベリ | |
早川書房 |
懷かしい本である。レイ・ブラッドベリの古典的名作
「火星年代記」
内容をほぼ忘れていた。
テレパシックに相手の心のひだに入り込み、
郷愁を満たすキャラクターに簡単に変わる火星人の性質と、
科学管理の悲喜劇を巧みに表現した「第二のアッシャー邸」だけしか
記憶にないのだが、
改めて読みはじめて、まだ半分も頁は進んでいないけれど、
すごい本だと驚いた。
おそらく若い頃、
導入部の三次探測隊までの失敗の頁は、
内省的で淡々とした静かな展開だから、
あまり丁寧に読んでいなかったのかもしれない。
(あまりにも人類に近い火星人だったからか)
導入部は、
火星人がどのように地球人を迎えるだろうかという設定を
SFチックに記述しているけれども、
それは太古の昔、
離れ島の小国の日本の古代人が、
大陸からやってくる、
さまざまな列強諸国の使者たちを
どのように迎えたのか?というテーマと
私の中で大いにかぶり、
縄文や弥生時代の太古の昔の日本人に
思いをはせた。
たとえば、103Pを開こう、
「招かれざる客としてのわれわれを、ほろぼそうとして、実に巧みな、われわれに警戒心を抱かせないようなやり方を考えだしたのなら?
そう、核兵器を持つ地球人に大して、火星人が利用できる最大の武器は何だろう。
興味深い答えが出てきた。テレパシー、催眠術、記憶、想像力。・・・」
太古の昔、
使者を迎えるということは、
大いなる期待というよりも、恐怖心だけだったかもしれない。
(本書の中ではその矛盾する感情や立場を一組の火星人夫婦の日常として描いている。)
迎える側は考えるだろう。
「使者を送る側はどのような動機があるだろうか?
ただ単純に征服、略奪、搾取、勢力拡大、そのような原理が発動しているはずだ。」
と
ただ単純に、ただ漠然と、そう感じ取っていたはずだ。
永い人類の歴史で、
文化と文明を
慈愛に満ちて、平和的友好的に使者を送るという歴史は、
吾輩は知らない。
もし、そういう前例があるのなら、
知りたいものである。
で、
ブラッドベリの「火星年代記」には言及されていないけれど、
火星人の立場として、もし地球人の使者を排除したとしたのなら、
どういう心理状態になるのだろうか。
そう考えると、
ひとつの罪を隠蔽し、改竄する、しかし、それは記録を消したとしても、
罪の意識は原罪のようにつきまとい、
集合的負の意識として、未来永劫、遺伝子として伝えられていく。
そういうことを考えると「火星年代記」の舞台、火星が太古の昔の日本にイメージが重なり、
外交下手といわれる、近世の日本の立場のいびつさ、気まずさがなんとなく理解できる。
この本を読めば、歴史という学問の深いところを理解できるかもしれない。
まだ、すべてを読んだわけではない。
読了したときにもう一度、感想を書いてみようと思う。