断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

MMT⑦国債償還あるいは対外経常赤字の問題

2014-05-31 09:38:25 | 欧米の国家貨幣論の潮流
初めてぎっくり腰を体験した。
まあ、歳も歳なんでしゃあねえなあ、ということだが、
寝てても痛いし、
本を読むこともできないし、
水泳にも行けないし
山にも登れない。まあ、それはそれとして、

新聞を読むと、世の中の景気は
ずいぶん回復の兆しを見せ始めているような話である。
なぜだか、おいらの周辺ではそんな話は全く聞かないけどね。
よその国の話になるが
アメリカあたりは、失業率、住宅価格、住宅新規着工件数等々、
回復基調を示す数字が相当あるらしい。
これで本当に景気回復すれば、
MMTが話題になることも減るだろう。
まあ、クルグマンあたりは、景気が回復するまでは、
いやいやでもMMTと共同戦線を張らにゃならない、
みたいなことを書いていたが、
これで景気が本格的に回復でもすれば、
正面切って論争できるようになるわけだ。
他方で、MMTは、もともとWrayのUnderstanding modern money が
出版されたのが1998年であることからもわかる通り、
景気回復それ自体には、必ずしも好意的ではない。
現に、今回の景気回復についても
住宅価格の急上昇などの兆候から
次の危機の準備段階に入った、とかなり否定的な評価も
目にする。まあ、ある意味でMMTとは、一種の万年恐慌説でもあるわけだ。
ただ、他方で、世の中の人々の経済的懸念事項、
国債残高や対外債務残高の巨大化については
そんなの全く問題じゃない、と言い続けている。
つまり、「超楽観的な万年恐慌説」とでも言ったところか。

さて、ここで、国債残高及び対外債務の累増の問題について
考えておこう。MMTでは、これら二つの「問題」は
「問題」ではない、と考えている。「問題ではない」というのは、
問題のたて方を誤っている、という意味だ。
巨額化しているのは国債というよりは
民間部門が保有している政府部門(中央銀行含む)債務残高の巨額化で
買いオペであれ何であれ、中央銀行が保有している国債・財務省証券については
問題にならない。そして民間部門が保有している政府部門の有利子負債については
むしろその減少こそ危険の兆候なのであり、増加自体は全く問題ではない。
また、政府部門の無利子の負債、すなわち貨幣(ベースマネー)については
もちろん、民間部門の実物経済との関係の中で考慮されるべきことであって、
それ自体を取り上げてインフレになるとかデフレになるとか言っても
意味がない、とされる。

そもそも、MMTによるなら
政府部門が負債を発行するとき、実際には
政府部門が民間で生み出した経済的資源や所得を「借りている」わけではない。
借りているわけではないのだから、返済する必要もない。と、いうより、
政府部門は民間部門から、国債その他負債を発行することによって経済的資源を借り入れることなどできないし
返済するこもともできない。これは額が大きい小さいの問題ではなく
そもそも原理的に不可能なことなのだ。
簡単におさらいしておくと、

通常(主流派経済学)の考え方でいくと
貨幣の流通残高は中央銀行が決める。
貨幣は、中央銀行が定めた一定量、そして技術的に決められた一定の流通速度のもとで
民間経済主体の資産、決済手段として流通している。それによって物価水準が決定される。
こうして流通している貨幣を政府が民間から借入れ、自分自身が経済的資源(民間によって生産された)を
購入するための手段として使う。
その結果、政府が民間部門から借入れた貨幣と同額が
民間部門の流通を離れ、そしてその分が政府によって支出されることで
民間部門の経済的資源が政府によって消費されることになる。つまり、
民間部門は、本来であれば自分たちで消費できたはずの経済的資源を
将来の返還を前提に、政府部門に譲り渡した、というわけだ。

そうなってくると、政府が国債発行によって貨幣を集めることで民間から
経済的資源(所得)が借入れられるのは
流通している貨幣の量および生産された経済的資源の量が一定である場合のことである。
もしも政府が国債を発行するのと同時にそれと同額の貨幣が発行されたら?
そして、政府が支出するのと同時に、利用可能であるにもかかわらず
現に民間部門によって利用されていない経済的資源が利用され、
そして生産される所得が増えるとしたら?

政府に支出によって、民間部門で生産(所得)が増えるか否かというのは
ケインズ派と古典派との間の、古典的対立点である。
ケインズ派はセイ法則を認めているわけではないし、
少なくとも短期的には非自発的失業者が存在していることも
そして非自発的失業者が存在しているときには
政府が支出を増やすことで所得を増やすことができる、
という点に(昔は)同意していた。
だが、政府の借り入れによって、それだけ貨幣が一時的に
政府に徴用されることによって、一時的に民間部門の保有する貨幣残高が
減少し、それによって、政府が支出を賄っているのだ、
という認識は、一部のアコモデーショナリストやホリゼンタリストを除けば
全く反省されることはなかった。もちろん、自分が新規発行国債を
購入すれば、その購入者にとっては、所得からその分貨幣資産が減少し、
そしてそれによって(よそから借入れをするか、手持ちの他の資産を処分しない限り)
支出能力も低下するのは事実である。そして、その貨幣が政府の手に渡れば
政府はそれだけ支出能力が増えるはずである――こうした、個々の経済主体にとっての
事実は、マクロ経済全体にとっても当てはまるに違いない、
と、単純に想定されているのである。だが、もしそうでないとすれば、
つまり、政府が国債を発行することによって民間部門から貨幣を
徴用するのと同時に、それと同額の貨幣が新規に中央銀行によって発行されていたとしたら、
しかも、その対価として中央銀行が国債を買いオペしていたとしたら、
これはどういうことになるのだろうか。
「国債のマネタイゼーションだ」といって非難するは簡単だが
実際のところ、マクロ経済的には、何が起こっていることになるのだろうか。


MMTによれば、実際には中央銀行が政府部門の資金活動から独立した動きをとることは
コリドーシステムをとる限り、不可能である、とされる。
コリドーとは、「回廊」のことだが、要するに
一定の範囲内にインターバンクレートを維持することを中心に
行動を決定することである。これはつまり、金融政策の直接の目標を
インターバンクレートにおく、ということであって、
一見すると、現在の、例えば日銀の政策とはかみ合っていない(2013年4月より
日銀は目標変数をインターバンクレートからベースマネー残高に切り替えているので)が
実際には日本でもアメリカでも
QEによって準備(超過準備を除く)がそうそう増えているわけではないし
金利も一定に維持しているわけだから、目標をインターバンクレートにおいているのと、
実際にやっていることは同じである。
コリドーシステムの場合、政府が国債を発行して資金を調達するに先立ち
中央銀行が買いオペをして、金利の変動が大きくならないように
準備をしておく。そして、政府が国債を発行した後に、
もしも金利が低くなりすぎれば再び売り介入をするし、
高くなりすぎれば買い介入をして、金利を安定させる。
つまり、民間部門の資金需要を所与とすれば、そして、
主流派経済学が想定する通り、民間金融部門は
預金準備率ちょうどの水準に預金(融資残高)を維持するとしたら、
政府が国債を発行しようとしまいと
貨幣の流通残高は維持されるのであり、
実際には政府部門によって資金の流通残高が減少する、ということはない。
民間が保有する国債の流通残高すら、変化しない。
そうなると、政府が国債を発行することで民間の経済的資源(所得)を
借りている、という議論は、最初から成立しなくなってしまう。
しかも、こうした介入によって中央銀行が何をやっているのか、といえば、
一言でいえば、「政府」が発行した期日のある有利子負債のうち、
民間部門が保有しているものの一部を
自分自身の発行する、期日のない無利子の負債と交換しているだけなのである。
資産側では国債残高が増え、負債側では政府預金が増える。
当座預金残高には変化がない。
政府部門全体(政府プラス中央銀行)として言えば、
この段階ではまだ
民間部門に対する債務の残高にも内訳にも変化はない。
単に、部門内部の間で、一方で国債残高が増え
他方で政府預金が増えるだけである。
政府部門は民間部門から資金をすでに借り入れたはずなのに
この段階では(マクロ的には)何も変化が起こらない。


さらに、政府がそうやって借入れた資金を支出すると、
政府預金が減少し、
民間金融部門の預金残高と日銀当座預金の残高が同時に同額増えることになる。
そして、民間非金融部門の経済主体の貨幣残高が増える。
預金準備率が1より(はるかに)小さい以上、
超過準備が発生する。
現在の水準の利子率で、民間部門に融資先が十分にあり
準備の超過状態が速やかに解消されるのであればともかく、
そんな都合のいいことはそうそう起こらないから
超過準備が発生することになる。そのままでは
即日ものや一泊物のインターバンクレートは
すぐに金利がゼロ近くまで押し下げられてしまう。そうなれば
銀行間の決済まで影響が及ぶことになる。
だから中央銀行が、こんどは売りオペをすることで
金利を維持することになる。ベースマネーの残高は減少し、
民間部門保有の政府部門債務は
増加することになる。
結局、中央銀行を含む政府部門は
民間部門から資金を借り入れているわけではないし
民間部門が保有する国債の残高も
民間が政府に貸し付けたことになっているはずの所得の額とは
何の関係もない。民間保有の国債残高が増加したのは、
政府が民間から資金を借り入れたからではなく
インターバンクレートを一定水準に維持するためである。

しかも、主流派経済学(と、いってもオールドケインジアン)の教えるところに従ったとしても
非自発的失業が発生している状態のもとでは
政府が支出することによって雇用と所得が増えるのであって、
民間が保有している経済的資源が浪費されるのではない。
政府部門にとって利用可能な国内の資源とは
結局、国内に存在するにもかかわらず民間部門で利用されることのない
労働力その他資本サービスである。民間部門内部で過剰とされている
(しかし、本人はその賃金で働きたいと思っている)労働力が存在している以上、
これを政府が雇用することによって、民間部門はどのような損失を受けるというのだろう。

そうすると、いったいどういうことになるのか。
通念上は、政府は民間から資金を借り入れ、それを支出する際には
民間が利用可能な経済的資源を民間から奪い取っているはずだった。
だからこそ、長期金利(実物金利)は政府債務の累増によって
引き上げられることになるはずだった。
ところが実際には、政府の債務のうち、民間から経済資源を借り入れた対価として
発行されたはずの国債の残高は、単に金利の下限を維持するのに必要な分しか
流通していないことになり、
そして政府によって徴用された国内所得は
減少するどころか、かえって増えることになる。

何か、問題設定、あるいはものの見方がおかしいのである。


近年の経済学では、国内の経済的資源が合理的に活用されることによって実現する「潜在成長率」を想定して
それに近づけるのが政府の役割、ということであるらしいし、
それは、政府部門の恒常的な財政赤字なしにも、インセンティブ政策や
規制緩和によって実現可能だとのことであるらしいが、
これとて、
これまでの歴史と資本性的金融システムが本来的に抱えている不安定性からすれば
今のところ、あまりあてになる話ではない。(希望を持つことを悪いとは言わないが。)

さて、ここで強調にしたいのは、
実際には国債発行によって民間部門から政府部門に経済的資源が
徴用されているわけではないし、それに応じた国債が民間部門の手にわたっているわけでもない、
ということである。つまり、民間から借入れた国債の残高が
償還不能なほどにまで累積している、というのは、
そもそも問題設定そのものが誤りだ、ということである。
ここで視点を変えて、というか、本日の本題だが、
もしも、通常の経済学が想定しているような返済を
政府部門が民間部門に対して実際に行うとすると
何がどうなるだろうか。

一方では、当然、政府には返済原資、つまり
それだけの余剰がなければならない。すなわち
税収-財政支出>0
という状態が維持されなければならない。
これは単独で宙に浮いて成立する関係ではない。
政府部門は資金余剰となっている、ということは
裏を返せば、
海外部門が均衡していると仮定すると
民間部門がそれだけ資金不足になっていなければならない、
ということである。
政府部門は、民間から得た資金を
そのまま民間へ返済することになる。これが民間の資金不足を
埋めるわけだ。

話はこうである。
まず、民間が十分に経済活動が活発で
税収が多い場合。
政府は税収が増え、支出が減り、国債が償還される。
民間は、投資が十分あり、資金が不足しているので
国債の払戻しを政府に要求し、そしてそれが満たされる。

なぜ、民間の景気がそれほどよくなるのだろう。
まずは民間の固定資本形成が大きく、資金需要が旺盛な場合が
当てはまる。実際、日本の高度成長期には
民間の資金不足をオーバーローン・オーバーボロウィングという形で
埋めた。それと同じことが起こるわけである。
ただ、資金の出所が中央銀行からの借入か
政府の国債の償還か、その違いがあるだけのことである。
そして、この場合、インフレは避けられない。
ただし、このインフレは貨幣的現象などではない。
国内労働力が不足する状態の中で、
より多くの労働力が資本形成に費やされ
消費財の生産に振り向けられる経済的資源の量が少なければ、
建設中の固定資本が実際に生産効率を引き上げるに至るまでの間
消費財価格は上昇することとなる。
(おいおい、21世紀にもなって、いまだに2部門分析かい?って言うな。
昔の人の知恵は大したもんなんだ。)
これは、インフレとはいっても、貨幣賃金水準が一定のもとで
消費財価格が上昇する、ということであるから
実際には相対価格の変化であって、すべての商品の価格が
持続的に上昇するというインフレとは違うだろ、という人もいるかもしれない。
しかし、労働者が生活資材の価格高騰に対して
貨幣賃金の上昇を求めれば、
あるいは、企業間の競争が激しくなり
貨幣賃金が上昇すれば、
それに対応して、銀行が貸し出す運転資金も増加せざるを得ないであろう。
そして銀行にとってその原資となるベースマネーが、国債の償還資金である。
そうすれば、実際に貨幣供給量が増加し、それに伴い
貨幣賃金水準も上昇するであろう。
つまり、相対価格の変化がどのようなものであるかにかかわらず
すべてのものの価格が持続的に上昇する、つまり、インフレになる。
ただし、繰り返すが、その実態は賃金と消費財の間の
相対価格の変化であり、絶対価格水準の上昇は
それに付随する変化にすぎない。そして、この場合、貨幣供給量の増加は
国債の償還がなかったとしても、
結局は日銀の貸出増加による準備増加で対応することになるであろう、
という意味で、国債の償還(あるいはマネタイゼーション)が原因なのではない。
もしも、国債が償還されなくても
金利が一定の水準に上昇すれば、
中央銀行は、買いオペによって、あるいは民間の手元に十分な国債がなければ、 
結局は、民間銀行への貸付(当座貸越)なり優良企業の手形の割引なりで
対応せざるを得ないであろう。それをしなければ、成長は腰折れとなるであろう。
国債の償還時期に、たまたま民間部門で
国債の償還による準備の増加を吸収できるだけの
固定資本形成があるとすれば、国債償還が行われようとおこなわれまいと、
結果は同じである。ただし、もう一つ言うなら、
いずれにせよ、それだけ民間部門で投資が活発となり
インフレになるほど資金需要が高い状況が継続しない限り、
民間部門が保有する国債の償還は、不可能である。仮に、
どういう理由かわからないけれど、民間の経済活動がそこまで活発でないのに
政府に財政余剰ができたとしても、
国債償還の結果、民間銀行が資金を手にしても、非金融部門に資金需要がなければ
民間金融機関の手許には超過準備が堆積することとなり
これがすぐさま即日物・一泊物のインターバンクレートをゼロにまで押し下げてしまうであろう。
これを回避するためには、結局中央銀行が売りオペで
国債を民間に売却するか、それで足りなければ
time deposit facility なり「超過準備に対する付利制度」を用いて、
つまり、政府の国債に代わる有利子負債を発行することで
金利の下限を維持しなければならないことになる。
結局、政府部門全体の民間に対する有利子負債の額を減らすことはできない。
また、たとえ貨幣賃金率が上がっても、家計の貯蓄水準が上昇すれば、
インフレ率は抑えることができることにはなる。
いずれにせよ、この場合にも民間部門の貨幣需要は低下し、
政府部門全体の有利子負債残高を減らすスピードは遅くなる。


上の例では、民間部門が、例えば戦後の日本のような(あるいは、
中国などにもそうかもしれないが)、圧倒的な固定資本の不足から
抜け出そうとする時期にあてはまるような固定資本建築ラッシュを想定したわけだが、
そのようなことが再び起こるとは、
これからの日本やアメリカ、ヨーロッパでは考えにくい。
そうなれば結局、海外部門が均衡している、という想定の範囲内で考えられるのは
民間企業部門あるいは家計部門におけるバブルの形成である。
極端な金融的ユーフォ―リアが蔓延し、
民間部門で誰もが借金をしようと欲する状態である。
加熱した好景気は、政府に財政余剰の資金を与え
そしてそれが原資となって国債が償還されれば、
次には国債償還資金が原資となって、民間の負債バブルを支えるだろう。
まあ、上で述べた固定資本の形成にしても
現在の産業資本制国家の状態を考えるなら
どっからどこまでがバブルでなくて、どっから先がバブルかなんて
わからない。
シャックルは、資本制経済の特徴を
「明るいうちは、意気軒昂で、一人でどんどん歩いてゆく。
ふと気が付くと、いつの間にかあたりは暗くなっており、
それに気が付くや否や、自分の影にすらおびえて、一歩も前に進めなくなってしまう」
と表現したが、実際、資本制経済とはそうしたものである。
形成された資本が投資を正当化するに十分な所得(利潤、賃金、金利)を生み出すか否かは、
後になってみなければわからない。そして、
民間部門が、現在の日本やアメリカでみられるような政府部門の
有利子負債をある程度の水準まで減らせるほどにまで
赤字を継続することができるかどうか、と言われれば
明らかに、難しい。そしてポンツイ金融が破たんし、
バブルが崩壊すれば、待っているのは
失業の急増と、税収不足、貨幣流通残高の急収縮、財政支出の拡大、
結局、以前にもまして政府債務残高の急増。
詰まる所、国債残高をどこまで減らせるかは、政府部門の問題というよりは
民間部門の問題なのである。民間部門が、
政府部門をして債務を返済出来るだけの黒字が継続できるだけの税収-財政支出に
耐えることができるかどうか(それだけ好景気を持続できるかどうか)、
そして、国債が償還された結果として手に入れた無利子の負債(ベースマネー)を
きちんと活用できるかどうか――それができなければ、
結局、国債だかtime deposit facility だか何だかわからないが、中央銀行が
それに応じた有利子負債を発行せざるを得ない。その場合には、
国債を返済してもしなくても結果は同じである。
非民間部門――それが政府か、中央銀行かはどうでもいい――が
何らかの有利子負債を発行して過剰な準備を吸収するしかないのである。
単に、国債が、利付きの超過準備か何かに変わるだけのことである。
政府と中央銀行を連結する、あるいは、ひとまとめにして考えることの根拠は
ここにある。
MMTはしばしば「政府と中央銀行を連結して、国家部門とする」などというが、
そんな言い方をするから訳が分からなくなる。
単純に「内国非民間部門」とでも呼べばよい。
要するに、発展した資本制経済の場合、民間部門は、政府であれ中央銀行であれ
非民間部門が発行する有利子負債を獲得することなしには
うまくいかないのである。中央銀行の負債ならいいが
政府の負債ではだめだ、というのは、MMTに言わせれば明らかにおかしな話である。


国債残高の累増については
マスコミでも学者でも、しばしば「将来世代の負担」という表現を使う。
だが、この意味するところはなんであろうか。
オーバーラッピング・ジェネレーション・モデル?
将来、政府部門は「借りたお金」とやらを返済しなければならない。
でも、誰に?いったい、だれがだれに返済するのか。
それは、将来世代の中の誰かが将来世代の中の誰かに返済するしかないのである。
当然のことだが、現在の国債を、主流派経済学者が言うように
政府の借金だとするのは、まあこの際、いいとして、
それでいったい、政府は誰から資金を借りたのか。
現在世代の誰かである。国債が増加したからといって、
将来世代の生産力が低下するのであろうか。
将来世代の生産物が減るのであろうか。
いずれも、ありえない。
国債残高が増えたところで、将来世代の負担が増えることなど
ないのである。
逆に、もしも今、政府の予算が足りないから、という理由で、
実際に失業者があり、経済的資源が遊休しているとしたら、
その将来世代に対する影響は、いかなるものであろうか。
そちらのほうが、はるかに将来世代の生産力を低下させ
将来世代が手にすることのできたはずの豊かさを
奪い去ることになるのではないであろうか。
我々が将来世代のためにできることというのは、
現在、すべての国民に職と教育の機会を与えることであろう。
一方で老朽化した社会資本をそのままにして、
他方で、失業者という経済的資源を放置し、その子供を
無教育な状態に貶めておくことよりは
国債残高が数字の上で増えようとどうしようと、
こうした遊休資源(失業者)を用いて、インフラを適切な状態に維持し、
同時に自然環境を守り、子供たちに適切な教育を与える、
こうしたことではないのか、というわけだ。
そのうえで、将来、この国債をどう扱うか
それによって生じる同世代内部での分配問題については
その世代に任せよう、
というのが、例えばWarren Mosler の言い分であるが、――
おいら個人的には、ちょっと、この最後の言い方には引っかかる。
同一世代内の国債保有者と非保有者の間の分配問題は
経済問題というよりは政治問題・社会問題になるだろう。
Mosler は、この点を軽視しすぎていると思う。


さて、もう一つの部門、海外部門については、これまで触れないできた。
実際には、国債残高を減らせる条件がある。
それは、対外経常黒字が継続し、海外部門が常に資金不足となっている状態である。
民間部門が均衡しているなら、海外部門が資金不足となっていれば
政府部門の資金余剰を吸収することができる。。。。
まあ、アメリカが政府債務を適切な水準(ってなんだ?)まで切り下げられるほど、
対外経常黒字を積み上げることができるかどうか。
これはまた、アメリカ一国内だけの事情で左右できる話ではない。
現在の世界経済においてアメリカが貿易赤字を出さなくなり、
あるいは、国債を十分減らせるまで貿易黒字なり対外金利収入なりを獲得しようとなったら、
世界経済は、ものすごく収縮してしまうだろう。
だから、あんまり本気で話をしてもしょうがない、という面があるのかもしれないが、
しかし、貿易赤字がいくら大きくなっても、累積債務という面では困らない
(輸入が増えることによって、国内の製造現場から職を奪われる人が
出てくる、という要因についてはここでは論じない)、という点だけは
明確にしておきたいようすである。だが、一外国人の立場で
Mosler やWray の書いているものを読んでみると。。。。


この、「海外部門」の扱いについては
MMTの、非常に「アメリカ的」性格が、あらわになる。
まず、MMTの発想からすれば
貿易黒字というのは雇用を維持するためのコスト、ということになる。
民間部門で雇用が維持されるには、
企業が収益を上げなければならない。
内国経済主体から生み出される需要だけでは雇用を維持するのに足りなければ
海外部門がそれに代わって需要を生み出さなければならない。
しかし、輸出をする、ということは、海外に
自国の生産物・経済的資源を、とりあえずは実物的対価なしに提供する、
ということである。輸出した成果は
対外債権として手元に残る。(同じ債権でも、国債だと、政府が民間の経済資源を
無駄遣いしていることになり――実際には、国民のために
民間部門で雇用されなかった労働者を働かせているのだが――、
対外債権だと、競争に勝った、ということになる――実際は
国内で生産された生産物を、海外の消費者のために、外国にくれてやることになる
――、というのも、ずいぶんおかしな話だなあ、というわけだ。たしか、
政府支出超過のことを「国内輸出」と呼んだのは
カルドアだった気がしたが。。。)

逆に、今のアメリカの状態は
海外からの輸入が大きく、
海外部門が資金余剰になっているわけだ。

Mosler の説明は、こうである。
例えば、今、アメリカの消費者が1万ドルの自動車を
中国から輸入するとしよう。
その場合、まず、この消費者は、アメリカの銀行から
ローンで資金を借り入れる。(別に、自己資金でやったって構わないが、
いずれにせよその資金は、もとはといえば
誰かがアメリカの銀行から借入れをしたことによって生まれた
アメリカの内国金融部門の負債である。)
中国の生産者は、この消費者に自動車を売った後、
アメリカの国内の銀行に預金口座を開設し
消費者から振り込みによって、資金を受け取る。
その後、その資金がどうなるかはさまざまだが、
例えば中国や日本のように過大な対米債権を持っている国は
そのまま預金していても仕方がないので
その預金で買える金融資産を購入するであろう。その最たるものは
アメリカ政府の国債である。

中国や日本がアメリカの銀行預金を抱えている場合、
それによってアメリカの国内で生産された製品を購入することができる。
日本が貿易赤字国になれば、これは、日本国にとっては大変なメリットだ。
なぜなら、過去の蓄積によって、現在のアメリカの製品を
獲得することができるからである。
もし日本がそのようなことをアメリカに要求するなら、
アメリカはそれにこたえなければならない。
ただ、実際には、日本が対米債権を積み上げている間、
インフレが高進し、今では対米黒字を積み上げていた期間のころに比べて
ドルが著しく減価してしまっている。だがいずれにせよ、
アメリカは、銀行が発行するドル預金によって
いくらでも海外から輸入できるのであり、
その「対外債務」の支払いに問題が起こることはない。
なぜなら対外債務は、結局のところ、銀行預金か
あるいは政府または民間のドル建ての負債にすぎないからである。
民間企業の債務であれば、ドル建てであろうと
償還不能ということに陥る可能性は常に存在している。
しかし、アメリカの国債であれば、
償還不可能になる、ということはない。
結局のところ、アメリカは対外債務が大きくなることで
困ることはない、というわけだ。
実際に対外債務が大きくなり、
どの国の企業も個人もアメリカの債務(ドル為替あるいは国債)をほしがらなくなる、
というケースはあるかもしれない。
その場合、為替市場で、ドルは著しく下落するであろう。
アメリカは、海外から輸入をすることはできなくなるかもしれない。
その場合には、国内で生産をするしかない。
だが、それによって不都合があるだろうか。
もしも不都合がある、というのなら、
それは、今も、貿易黒字を出すことはできない、ということであり
(それができるくらいなら、
輸入ができなくなってもさほど困らないだろう)
そもそも話が出発点から矛盾している、というわけだ。

さて、この議論は、これまで以上に
アメリカという国の特殊性に依存している面がある。
まず第一に、経常赤字の支払いを自国通貨為替で行える、という国は
世界にはそれほど多くはない。外国貿易を外国通貨による決済を前提にしか
行えない国々にとっては、MMTの主張は全く当てはまらないことになる。
さらに、国内で消費する経済的資源のほぼ全種類を
国内の供給で代替できる、という国も
アメリカなど一部の国に限られる。(日本では、まず無理だ。)
そうなってくると、この対外債務問題に
MMTの考え方を適用できる国は
大いに限られてくる。

実際、例えばイギリス人であるWynne Godley が、MMTに共感できなかった理由も
最終的には為替問題、対外取引の問題についての考え方に隔たりがすごく大きかったからだ、
というようなことをWrayは述べていたが、
確かにこの問題については、MMTの主張者の議論はやや歯切れが悪いような印象を受ける。
これは、アメリカが自国通貨為替が国際的な決済に利用されることが最も多い通貨である、
という事実に乗っかって、あまり議論を深化させる機会がなかったせいではないか、
と思われる。確かに、スピードがあまり急激でない限り、いくら対外通貨価値が下落しようと
アメリカのような国は、ある意味では構わないのだけれど、
そうはゆかない国も少なくない。
この問題が解決されないと、
MMTは、(たとえ妥当であると世の中に受け入れられることがあっても)アメリカ他
限られた国にしか適用できない特殊理論ということになるのかもしれない。

まあいずれにせよ、話をもとにもどすと、
発達した資本制国で、自国通貨(主権通貨)を持っている国は
政府部門の赤字(国債あるいは中央銀行の定期預金のような有利子負債)を
拡大せざるを得ない。
これを縮小するためには、民間部門でよっぽど景気がよくなり
政府の税収が伸び、同時に民間が、政府によって償還された資金を
適切に投資に回すことができるか、
海外で、どこかの国・地域の景気が猛烈によくなり、
対米貿易赤字となり、その国の輸入赤字を米国がファイナンスし続けるという状態
(ギリシアみたいな国が、もう20個ぐらいあれば、
よかったかもしれない)が維持されなければならない、ということである。
そして、そんなことはまあないだろうから(多寡だがギリシア1国のデフォルト騒ぎで
あの体たらくなんだから)、
アメリカはおとなしく、政府部門債務残高を高め続けるしかない。
それで困る人は、誰もいないのである。。。。。
と、いうのが、彼らの主張というわけだ。


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