断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

Mitchell Innes "What is Money ?" 続き ⑤

2015-06-27 15:54:16 | MMT & SFC
Mtchell-Innes のWhat is Money ?であるが、
本論文はすでに翻訳が販売されているとの情報を
寄せてくださった方がいて、で、ほんとかな、と思って調べたのだけれど、
ネット上では、確認できなかった。まあ、大して長い論文ではないので、
もしかしたら雑誌や、論文集に所収されているのかもしれない。
そうだとすると、おいらのような田舎で一人で
ネットだけを頼りに情報を集めているような情報弱者には
探し出しようがない。。。。
ンなわけで、情報があったらお寄せください。。。。

と、言って人のことをあてにしていても仕方ないので
粗訳の続き。訳の正確さは保証し難し(笑。

今回訳出した箇所は、MMT的というよりむしろCT派的な議論が多い。
記憶違いでなければ、確かAlvaro Cencini も
Mitchell-Innes を参照していたが、
このあたりの議論ではないかな、という印象。

2か所ほどある引用箇所については
最初は訳出しないつもりだったが
一応、やってみた。でも、なんかわかるようなわからんような。。。。
(何を言いたいかは、大体のところでわかるが。。)



P33:1 現代の考古学者たちの研究により多数の太古の発掘物に光が当てられてきたが、
その中には、確実に古代のターリーというべきものあるいはそれと同類のものが発見されている。
したがって、太古の時代より、商業は信用により実行されていたのであり、
「交換媒体」などというようなものによるものではなかったことに疑問の余地はない。
P33:2 イタリアの宝物庫では大量の、鉄を混ぜた堂の物体が見つかっている。それらのうち、
初期のものはBC1000~2000の間、鋳貨が導入されるより1000年も前のものであり、aes rude と呼ばれているが、
定型のないインゴット(鋳塊)あるいは円盤形や角形の板状に固められたものである。
後の時代のものはaes signatum と呼ばれ、すべて板やタブレットの形にされ、様々な意匠をこらされていた。
こうした金属片は貨幣として使われ、そして鋳貨が導入された後になってもかなりの期間、使い続けられたとされている。
P33:2 aes rude およびaes signatum に特徴的なことだが、ごくまれに例外もあるもののすべての個体が製造時、
まだ金属が熱し、柔らかいうちに、つまり技術的には「ショート」といわれる状態のうちに、
ある目的を持って割られているのである。金属の上に鏨を置いて、軽くひっぱたく。鏨をどければ、
それに沿って傷ができるので、ハンマーでたたけばそこからきれいに割れる。通常、割られたものの一方が他方より大きい。
これが古代のターリーであることを疑う合理的理由は存在しない。後の時代には債務者がハシバミの木によって守られたように、
この時代でも債務者はこの割られた金属によって守られていたのである。
P33:4 初期ローマの鋳貨の状況からわかるが、1個の鋳貨を二つに割るという行為――そのトークン的性格を
十分に証明している――は、[次の時代の]鋳貨を箱に入れるというやり方が、刻印を押すという
より完璧な方法にとってかわられるまで続いた。
P33:5 古代ギリシア植民地のタラントゥムTarentum すなわちタラントTaranto
では、多数の銀塊cake of silver (純銀か、碑金蔵の合金化は記されていない)が保存されていた宝物庫が発見された。
これらの銀塊には初期ギリシアの鋳貨にみられたものと同じような刻印が刻まれえていた。これらはすべて意図的に割られていた。
薄い円盤状のものが見つかったが、これらの割るか切断されるかしており、その切断面には不規則なぎざぎざが残されていた。
P34:1 ドイツの宝物庫では、銀合金の棒が何本か見つかっている。イタリアでは、同じ時代の銅塊が発見されている。
丸ごと残っているものもあれば、片端を絶ちおられたものもある。
P34:2 近年の古代バビロニアでの発見では、最も一般的な商業文書は「契約板contract table」あるいは
「shubati table(預かり証)」と呼ばれている――shubati とは、ほとんどすべての粘土板にみられる言葉で、
「受領された」という意味である。これらの粘土板のうち、最も古いものは BC2000~3000に使われていたものであるが、
粘土板を焼くか天日干しにしたものである。通常の化粧せっけんぐらいの形と大きさをしており、
イタリアの銅塊とよく似ている。大都市の物は’she’を単位とする単純な取引記録である。
’she’とは考古学者によればある種の穀物のことと理解されている。
P34:3 これらは以下の内容を伝えている。
P34:4 穀物の量
P34:5 「shubati 」あるいは受領された旨
P34:6 誰から受け取ったのか
P34:7 誰が受け取ったのか
P34:8 日付
P34:9 受領者のシール、あるいは国王が受領者である場合は、国王の「筆記者scribe」または「奴隷servant」のシール。
P34:10 こうした粘土板が数多く見つかっていること、この物的耐久性、保管に配慮されており、
銀行として利用されたことが判明している寺院に保存されていた事実、そしてとりわけ、銘字の性質、これらのことから、
この粘土板が中世におけるターリー、現代における為替手形 bill of exchange の対応物であったと判断できる。すなわち、
これは取引に際して購入者側から販売者側に与えられた債務の証書にすぎない。そしてこれらが
一般的な商取引の道具instrument だったのである。
P34:11 しかしおそらくこれらの性質について、より説得力のある証拠は、次の事実に求められるであろう。
こうした粘土板のうちいくつかのものは、固く密閉された粘土の覆い、あるいは「箱case」の中に完全に密封されていたのである。
粘土板を調べるためにはこうした覆い箱を壊さなければならなかった。こうしたものは「ケースタブレットcase tablets」
と呼ばれているが、この箱の表面には銘刻inscription がみられ、中に密封された粘土板に書かれていることと同じことが
書かれているのである。ただし、注目すべき省略が二つある。受領者の名前とシールが、密封された粘土板には見られないのである。
当然、内部の粘土板に記された取引の概要を複製するためには、外函を壊さなければならない。先の例と同じで、
これによって、この粘土板が悪意ある人の手にわたり債務者が詐欺的行為の犠牲になる危険を避けるためのものなのである。
この「ケースタブレット」は、次の点でとくに重要である。これらは明らかに、
単に債務者であることを確認し記録するためだけのものではなく、書類にサインし、シールをするのと同じもの、
すなわち債権者により発行され、ターリーや為替手形同様人手から人手へと渡っていたものである点に疑問はない。
債務が支払われた時、今でも言葉に残っている通り、外函が割れたのである。
The debt was paid, we are told that it was customary to break the tablet.
P35:1 もちろん、我々は、こんなはるか昔の商業についてはほとんど知らない。だがわかるのは、大規模な商業があったこと、
債権が人手から人手へ、ある場所から別の場所へと委譲できるということは、我々同様、
バビロニアの人々にもよく知られていた、ということである。
P35:2 同じく中国でも、バビロニア帝国同様に古い時代、鋳貨よりはるか昔に銀行や信用取引instrument of credit があったこと、
および筆者に学ぶことができた範囲では実質的に中国の全歴史を通じて、鋳貨は単なるトークンであった。
P35:3 信用が現金cashより古いということに疑問の余地はない。
P35:4 さて、はるか古代の歴史遊覧からもっと我々に近い時代のビジネス考察へ戻って、
古代の信用をまだ全く信じられないという読者を説明できるところまで敷衍してみよう。
P35:5 ターリーは、為替手形や銀行手形や鋳貨同様、移譲可能な流通性のある金融商品である。民間のトークンは(少なくとも
英国や北米植民地では)主としてごく少額――1ペニーや半ペニー――で使われ、あらゆる種類の小売店主や商人によって
発行されていた。概括的な言い方をすると、あらゆる商業は何世紀にもわたり常にターリーを使っていたというのが真実である。
これによってあらゆる資材の購入、あらゆる貨幣の借入が行われ、あらゆる債務が清算されたのである。
P35:6 昔の手形交換所は巨大な定期位置であり、大小さまざまな商人が自分のターリーを携えて、
満期になった債権と債務を決済するため、参加した。「ジャスティシアリー Justiciaries (昔の高位司法官)」が
定期市の期間中設けられ、あらゆる商業上のいさかいの訴えを聴き 判決を下す。そして「原告の要望があるときには、
商業法に基づき、ターリーを証明する」。イギリスにおけるこうした市の最大のものは、
ウィンチェスターのセント・ジャイルズSt. Giles である。そしてヨーロッパ全土で最も有名なのは、
フランスのシャンパーニュとブリーであろう。すべての国から商人や銀行家たちがこれらの土地に集まってきた。
交換用の仮小屋が作られ、巨額の債務と信用が、一文の鋳貨も使わずに決済された。
P35:7 ここで説明している定期市の起源は、古代の霧に隠されている。記録に残されている大部分の特許状(定期市を開催する権利を
封建地主に与えているもの)は、古代の定期市の習慣を守ることを条件としている。このことから、この習慣は、
単にこれらは封建領主の法的立場を認めているか、彼に独占権を与えているだけの特許状よりはるか以前にさかのぼって
存在していたことがわかる。こうした定期市が極めて重要なものであったため、商人やその財産はどこへ行っても
神聖なものとされたのである。戦争の間、彼らが通過しなくてはならない地域の国王によって身の安全が図られ、
路上で彼らに暴行があった場合には、犯した者に罰が与えられた。契約書の作成に際し、
市場で一方の側あるいはその他の人が債務証書を発行することはごく一般的であり、
そしてこうした債務証書が決済される一般的交換所はpagametum と呼ばれた。市を開く習慣があったのは、
中世ヨーロッパに限られたことではない。古代ギリシアではpanegyris と呼ばれ、ローマではnundinae と呼ばれたが、
この呼称は中世にもしばしば使われている。こうしたものはメソポタミアやインドにもあったことが知られている。
メキシコにもあったことは、征服者でもあった歴史家の記録にあり、エジプトの市場よりそれほど昔ではない時代、
ヘロトドスにあったこともわかっている。
P36:1 市場によっては債務と債権の清算が行われただけであったが、多くの市場では活発な小売商いが行われていた。
政府が郵便システムを発展させ、強力な銀行企業が成長すると同時に、徐々に市場の価値は小さくなり、
清算目的で頻繁に開かれることもなくなり、ただの祭りの集会として最後にはごくわずかに細々と伝えられ、
昔日の華やなか時代の影を残すばかりのものとなった。
P36:2 宗教と金融の関係は重要である。バビロニアではすべてとは言わないが、大部分の商業書類は寺院で見つかっている。
エルサレムの寺院は、一方では金融・銀行機関でありながら、同時にデルファイのアポロ寺院でもあったわけだ。
ヨーロッパでは市場は教会の表で開かれ、聖人の名がつけられ、その名の祝日あるいはその前後意開かれたのである。
アムステルダムでは証券取引所は悪天候の前あるいはさなかに、ある教会の前で開催された。
P36:3 こうした市場は、金融や商業、宗教と乱痴気騒ぎなどの珍妙な混合物であった。後者はしばしば
小さな醜聞の一つもない敬虔な聖職者をたたえる教会の儀式と分かちがたいほどに混ざり合ってしまっていた。
聖人の御名において行われるこの神聖冒涜行為にショックを受けた聖人が、神罰をこの地域社会に下されたとしても
無理からぬことであろう。
P36:4 筆者の気持ちとしてはほとんど疑問はないのだが、宗教的祭祀と債務の清算があらゆる市場の起源なのであり、
そこで商業が行われているのはのちの発展である。仮にこれが正しいとすると、宗教と債務の決済の結びつきとは、
債権がきわめて古くさかのぼるものであることを示す追加的な傍証(もう必要あるまいが)であろう。
P36:5 政府が債務と債権とによって資金調達するその方法は、とりわけ興味深い。あらゆる民間詩人と同様、
政府も王家大蔵省の、あるいはその他政府機関や政府の銀行の債務証書を発行することで決済を行っている。
中世イングランドでよく見られたことであるが、政府が債権者に決済するために用いた一般的な方法とは、税関あるいは
その他収入を得る部局の「ターリーを発行する」ことであった。つまり、債権者に対して木製のターリーを債務証書として
渡していたのである。財務省の帳簿は次のような記載で満たされている――「ウォーリック州の伯爵たる
トーマス・ドゥベロ・カンポに対し、本日、ターリーを数本発行、500マルク分として同伯爵へ。」「何某氏。本日、
ターリーを収税吏の名において1本検収。ロンドン港、40ポンドに相当。」このシステムが最終的に放棄されるのは、
19世紀初頭のことである。
P37:1 民間私人の場合、債務証書がいかにして価値を獲得するかは、すでに説明したとおりである。我々は皆、
売買に取り組み、販売用の製品を製造し、大地を耕し農産物を販売し、手の動きあるいは脳みその働き、
所有財産の利用機会を販売する。我々が提供した便益service に対する支払いを受け取ることが可能な唯一の方法とは、
購入者からターリーを受け取ることである。そのターリーは、かつて自分が他人から便益を受けた時に、
支払いのために渡したものなのである。
P37:2 しかし政府は販売すべきものを何も生産してはいない。所有財産わずかしか、あるいはまったく保有していない。
では、政府に対する債権者にとって、これらのターリーにはいかなる価値があるのだろうか。政府のターリーは
次のようにして価値を得る。政府は法律により何人かの選ばれた国民を債務者にすることができる。
外国から商品を輸入する何の何某は、彼が輸入するすべてのものについて、政府に債務を負うものとする、あるいは
土地の所有者たる何の何某は1エーカーごとに政府に債務を負う、と文面にて定める。この手続きが課税levying a tax と呼ばれるもので、
そして政府に対する債務者の立場にされた人々は、理論的には、
このターリーまたはその他政府に対する債務証書を保有する人物を探し出し、そしてその保有者に対し、ターリーと
交換してもらえそうな自分の所有する商品を販売したりサービスを提供するなどして、ターリーを獲得しなくてはならない。
こうしてターリーが政府国庫に回収された時、租税が納められたことになるのである。これが全く文字通りの事実であったことを
確認するには、昔のイングランド州行政官sheriffs の勘定簿を調査すればよい。彼らは内国徴税官であり、
ロンドンへ定期的に回収した租税を送っていた。彼らが回収した荷物は常に財務府ターリーexchequer tallies からなっており、
もちろん鋳貨がいくばくか混ざっていることもあったが、すべてがターリーという場合と半々であった。
P37:3 財務府Exchequer とは金銀が受け取られ、保管され、支払われる場所である、という通念は、全くの誤りである。実務上は、
英国財務府の全業務は、ターリーを発行し回収すること、ターリーと半券側のターリー、ストックとスタッブ(二分割されたターリーは
通常こう呼ばれていた)を突合すること、政府の債務者と債権者の勘定を一致させること、そして財務省に回収されたターリーを
処分すること、こうしたことから成っていた。つまり、事実上、政府の債務者と債権者の巨大手形交換所だったのである。
P38:1 今や先に中世フランス国王の資金調達方法を論じた際に言及した「mutations de la monnaie 」の効果を理解できる。
彼らが発行した鋳貨とは、少額支出による債務のトークンだったのである。例えば陸軍、海軍の兵士の日当である。
国王が恣意的にトークンの公的価値を減じるとき、コインの所有者が保有している政府に対する債権の価値がそれだけ
減じられたのである。これは単に乱暴で安易な課税方法だったのであり、多数の人々に一斉に課税でき、
また濫用されることがなければ、不平等ともいえないやり方であった。
P38:2 もちろん、昔の納税者が、今日、イングランド銀行券の所有者を探し出すのに比べて、大変な苦労で
ターリーの所有者を探し出さなければならなかったわけではない。それは銀行を通じて行われた。銀行は歴史の初めのころより、
常に政府への資金提供者であった。古代バビロニアでは、銀行はエグビ家の息子sons of Egibi であり、
かつSons of Marashu、中世ヨーロッパではユダヤ人、フローレンス人、ジェノバ人の銀行家、歴史に登場するのは、
こうした銀行家の名前である。
P38:3 ほぼ間違いなく、ヨーロッパに銀行業をもたらしたのはバビロニアのユダヤ人である。これは
地中海のアジア側沿岸部Asiatic Coast のギリシア植民地全体に広がり、ギリシア本国とアフリカ北部の湾岸都市での
決済を行っていた。キリスト教時代よりはるか昔のことである。彼らは西へと進み、イタリアやゴール、スペインの諸都市でも
事業を興したが、これもキリスト教時代の前か、キリスト教時代に入って間もなくのことである。歴史家たちには、
イギリスに銀行業が伝わるのはローマ帝国による征服の後だと信じられているが、私見では
ゴールのユダヤ人がフランスの海岸に向き合っているイギリス湾岸の諸都市に営業所を構えていたこと、そして
初期のイギリスの鋳貨が彼らの手によるものであることは、十分にあり売るように思われる。
P38:4 貨幣単位は単なる恣意的な呼称にすぎないが、それによって信用(債権credit)単位で商品の価値が測定され、
そして全商品の価値を多少なりとも正確に測定できるものとして使われている。ポンド、シリング、ペンスとは、
単なる代数学のa、b、cに過ぎない。つまり、a = 20b = 240c というわけだ。現在使われている単位の起源など、もはや
わからない。おそらくかつてはある商品の一定数量なり重量なりを表示していたのであろう。そうだとしても、それらが今日、
あるいは数えきれない世代にわたって、何の商品を表すものでもなくなっているという事実には変わりない。かつてある単位が
ある一つの商品を表していたものと仮定しよう。例えば話の出発点として、ある商人が顧客の口座を記録するのに「シケル」と
呼ばれる一定重量の銀を使うのが便利だと考えたとしよう。銀は、もちろんほかの商品と変わらない一つの商品である。つまり、
これを法貨と定めた法律があるわけではないし、彼に対する債務を銀によって返済できるといったわけでもないし、
銀でなければ返済できない、というわけでもない。債務と債権は、今日同様、相互に相殺されるのである。100ブッシュルの小麦と
1シケルの銀が同じ価値だとしよう。両商品の価格に変化がない限り、これで万事事足りる。この商人に1シケルの銀あるいは
100ブッシュルの小麦を納入した人は、帳簿上、いずれも等しく1シケルの債権が与えられる[貸方記入される]。しかし、
何らかの理由で銀の価値が低落し、100ブッシュルの小麦を1シケルの銀とは交換できなくなってしまい、例えば、
1.1シケル必要になるとしよう。すると何が起きるか。この帳簿がすべて銀シケル単位で記録されているから、という理由で、
銀が実際に取引に関係ないにもかかわらず、この商人に対する債権者には一斉に損失が発生し、
債務者には同じ比率で利益が発生するのだろうか。当然、そのようなことは起こらない。商人にとっては
銀で帳簿をつけるのが便利だから、という理由で、自分は貨幣にして10分の1単位分の損失を受け入れる債権者というのは、
まずいそうにない。どうなるかというと、こうだ。1シケルの銀の保有者は、銀の価格が下がると商人から、
銀価格が低下したので今後は1シケルの銀に対し10分の9シケルの債権しか与えられないと告げられる。
1シケルの債権と1シケルの重量の銀とはもはや同じではない。1シケルと呼ばれる貨幣単位は、それが指す重量の金属とは
いかなる固定された関係も持たなくなる。商人と顧客の間の債権債務関係は、銀の価値の変化により影響されることは無くなる。
近年、ある書物において、ビーバーの皮単位で記録されていた帳簿に同じことが起こった例が言及されていた。
ビーバーの皮で計算単位は固定されており、これは2シリングと同価値なのだが、実物の皮の価値は変動し、
一枚の現実の皮が数枚の会計用の想像上の皮に相当していたのである。
P39:1 今日の金価格を固定するあらゆる法制とは、中世後期の理論の生き残りにすぎない。それによれば
貨幣単位の悲惨なまでの変動は、貴金属の価格と何やら神秘的な結びつきを持っており、もし貴金属価格をコントロールでき、
その変動を止めることができるのなら、貨幣単位も固定されることであろう。こうした理論が唱えられた中世後期の状況を
理解することは我々にとっては難しい。日常用品の価格はしばしば日ごとに急激に変動した故、当時の庶民たちにとっては
自分の所得が商品単位でどのくらいになるのかすら誰にもわからない有様であった。同時に貴金属価格が上昇し、
高品位の金銀鋳貨にプレミアムがついてゆき、そして以前どおりの価値で流通している鋳貨の重量が
クリッピング(剥ぎ取り)によって減少してゆくのを庶民は目にした。彼らはこれらの減少の間に明白な関連を見て取り、
そしてまったく当然なこととして、貨幣価値の下落の原因を金属の価値の上昇、その結果として削り取られ軽くなった鋳貨の状態へと
帰した。彼らは原因と結果を取り間違え、そして我々もその誤りを受け継いでいるのである。貴金属価格を規制するため、
数多くのことが計画されたが、19世紀にいたるまで、常に失敗が繰り返されている。
P40:1 中世における貨幣的混乱の大きな原因は、貴金属価格の上昇ではない。戦争や伝染病、飢饉といった災禍による
債権単位価値の下落である。これら三種の原因により、ヨーロッパが時代時代にまったく恐ろしい状況へと
追いやられたのだという点を、今日、われわれが理解することは難しい。ある歴史家は、14世紀・15世紀のフランスの状況を、
以下のように記している。

  敵地でのイギリス軍の略奪は恐ろしいものであったが、フランス国内での
フランス軍による略奪がましだったわけではない。大して規律されていない兵士は、盗賊の群れと化し生来の野盗と
変わるところなどなく、その略奪も一層凄まじいものであった。場合によっては、彼らの背後には、さらに
イギリス軍やフランス軍あるいは「フリー・カンパニー[※独立傭兵群、要するに愚連隊か。。。。] 」より
もっと恐ろしい犯罪者のギャングがいた。彼らは牢獄の外にいるときには、あらゆる犯罪に手を染めていた。
そしてギャング同様に恐ろしいのは、家を奪われ激高した農民たちの群れである。彼らは避難所となった森や洞穴から、
わずかにまだ規律が守られていた軍の隊列に攻撃を仕掛け、これを火を放った。身分、年齢、性別は関係なかった――友軍と
敵軍の区別もなかった。フランスの歴史上、これほど全面的かつ巨大な不幸に見舞われた時代はなかった。ソンムSomme から
ドイツ国境地帯まで、300マイルにわたる距離、全国土が、物音の立たないいばらの藪地域 a silent tangle of
thorns and brushwood となった。国民は皆弱り果て、あるいは武装した人間たちによる無慈悲な暴行から逃避しようと、
都市へ向かった。しかし、都市にも求めていた避難所はほとんどなかった。都市もまた、農村同様に略奪が横行しており、
森林地帯の食糧不足に追い立てられたオオカミの群れが犠牲者を求めてうろついていた。城壁の外の戦争により、
城壁の内側の戦争が一層激しくなった。戦争には常に飢餓がつき従う。この時代の年代記作者たちが「黒死病」あるいは
「ペスト」と呼ぶ全く新しい災禍が上の中から生まれ、最も高い城壁を飛び越え、もっとも固い城壁に穴をあけ、
人口過密都市の内部で暴れまわった。推計では、フランス人口の3分の2が戦争、飢饉、ペストの恐るべき自己加害の前に倒れた。


P40:2 15世紀の苦難も14世紀に比べましだったわけではなく、英国で見られた光景もフランスのそれとごくわずかな違いしかなかった。

  北方の諸国、イングランドでは、一方ではランカスターの城壁やマージ―川の土手から、
他方ではヨークの水門とハンバーの水門に至るまで、スコットランド軍により荒廃させられ、同時にフランス人、
フラマント人、スコットランド人その他の海賊によって、英国の東、西、南海岸沿いの都市は焼き払われ、人々は殺されるか、
さもなければ奴隷として連れ去られた。さらに二つの敵が、この国を蹂躙した。飢饉とペストである。これら戦争の果実が、
人間の手によっては破壊されず残されたものまで破壊した。

P41:1 この国は繰り返し飢饉と伝染病に見舞われた。さらに家畜伝染病により羊と牛が殺された。
こうした恐ろしい災禍が起こったのは、なにも14世紀や15世紀といった昔ばかりではない。30年戦争(1618~1648)
終結時のドイツの状況は、14世紀の英物に比べ、少しでもましとは言えなかった。
P41:2 購入は販売によって決済される、言い換えると債務は債権によって支払われる。そして先に述べたとおり、
債権の価値は、同時に他に対して債権者でもある債務者にかかっているのだ。ここで述べているような状況下では
(相対的に繁栄したインターバル期間がなかったなどと考えてはいけないが)、債権の価値(言い換えれば、
貨幣単位の価値)が下落しないでいることなど不可能であった。この現象を説明するのに、想像上の鋳貨の恣意的な
減価があったことを示す必要は全くないであろう。
P41:3 過去の実務がどんなものであろうと、科学的理論がどのようなものであろうと、我々は、現在
実際に信用商品credit instrument と同時に金を決済手段として使っているのだ、と反論する読者もいることであろう。
彼は、こういうであろう。1ドル1ソブリンはある一定の金重量であり、我々は法律的にこれに債務決済手段としての
資格を与えているのだ。
P41:4 しかし、実際に、とはどういうことか。合衆国の状況を例にとろう。政府は基準を満たした品質の金をすべて引き取り、
同重量の金貨ないしはこうした金貨の代理証書を渡す。さて、全体的なイメージでいうと、
金を鋳貨に交換することの唯一の意味は、金を一定重量の小片に切り分けし、これら小片の一つ一つに
政府の刻印を押すことで重量と品質を保証する、ということだ。しかし、本当にこれが実際に
行われているすべてのことなのだろうか。全く違う。実際に行われていることとは、政府が金の小片に刻印を押すことにより、
この小片が納税その他政府に対する債務の決済のために常に政府により受け取られるという約定を意味しているのである。
政府は、例えば何かを購入したとき、支払わなくてはならない金額相当の鋳貨を発行することで、負債を
その鋳貨の保有者に負うことになる――いうなれば、政府は租税あるいはその他をその鋳貨の償還によって免除する義務を負い、
そうすることで鋳貨の保有者が貨幣の価値を得られるようにしているのである。
P42:1 刻印を押されることによって、金はその性格を、単なる一商品から、債務を示すトークンへと変えられる。英国では
イギリス銀行が金を買い、交換に鋳貨あるいは銀行券を渡すか、帳簿に貸方記入する。合衆国では、
金は造幣局に預け入れられ、預託者は交換に鋳貨または証書を受け取る。売り手あるいは預託者は、前者は公的銀行、
後者は政府財務省に対するものではあるが、いずれにせよ債権を受け取ったのである。いずれも意味は全く同じである。
鋳貨、証書、銀行券、銀行帳簿上の貸方記載、これらはすべて形式や素材の価値は異なっていても本質は同じである。
値踏みできないほどの宝石でも、価値のない買切れでも、受け取る側がそれが何を表しているのか知っており、
差し出す側が、彼自身の債権が満期となったときには、それで支払われたら受け取りを拒否できないという彼の責務を
自覚している限り、等しく債務のトークンになり得るのだ。
P42:2 すると貨幣とは債権であり、債権以外の何物でもない。Aの貨幣とはBのAに対する債務のことであり、
Bが自分の債務を決済するとき、Aの貨幣は消失する。これが貨幣の全理論である。
P42:3 債務と債権は常にたがいに結びつきあおうとし、そして相互に相殺しあう。銀行家の事業とはこれを合わせることである。
これは二つのやり方で行われる。手形割引、または貸付である。割引の方がより古い方法であり、
ヨーロッパでは銀行業務の大きな部分を占めるが、合衆国では貸付金の方がより普通にみられる。
P42:4 手形割引の手順は以下の通り。AがB、C、Dに商品を販売する。彼らはAの債務者となる。そしてAに債務証書を発行する。
これは技術的には「為替手形」あるいはより短く「手形」と呼ばれる。[※今日の日本でイメージすると、
以下の説明は為替手形というより自己あて手形と考えたほうが理解しやすい。]つまり、AはB、C、Dに対する債権を得たわけだ。
次にAは、E、F、Gから商品を購入し、そして支払いのため意自分の手形を振り出す。つまりE、F、GはAに対する債権者となる。
もし、B、C、DがE、F、Gに自分たちの商品を売ることができ、見返りにAが振り出した手形を入手することができれば、
その手形をAに提示することで自分自身を債務者の立場から解放することができる。取引が例えば村落や近隣の
いくつかの村落間といった小さな範囲で行われている限り、B、C、DはE、F、Gが所有している手形を入手することができるであろう。
しかし、商業が拡大し、多様な債務者と債権者とが離れたところで生活し、互いに顔も見知らぬ仲となるとすぐに、
当然何らかのシステムによって債権債務を集中処理しなくては、商業はそれ以上発展しなくなるであろう。そして、
商社merchant あるいは銀行家が登場する。後者は単に前者の中でとくに専門化したものにすぎない。銀行家は
Aから彼の保有するB、C、Dの手形を買い取る。そしてAは銀行家に対する債権者となり、銀行家はB、C、Dに対する債権者となる。
Aの銀行家に対する債権は預金と呼ばれ、そしてAは預金者と呼ばれる。E、F、Gもそれぞれ保有するAの手形を銀行家に売り、
そして期日が来ると、銀行家はAに対する先の債権を貸方処理することで両者を相殺する。Aの債務と債権は「清算」され、
Aの名前は消去され、銀行家に対する債務者としてはB、C、Dが残り、それに対応する債権者としてE、F、Gが残る。B、C、Dは
自分の事業を行い、彼らは販売の代金としてH、I、Kの手形を受け取る。先にB、C、Dが振出し銀行家が保有している手形が
満期になると、彼らは銀行家にH、I、Kによって振出された手形を売却し、それで彼らの債務は相殺されるであろう。こうして
今度は彼らの債権、債務が「清算」された。そして彼らの名前が消去され、債務者としてH、I、K、債権者として
E、F、Gの名前が残る、という具合である。現代の手形は、中世さらに古代バビロニアの粘土タブレットのターリーの
直系の子孫なのだ。
P43:1 購入者の振り出した手形を銀行家に売る代わり、貸付金によっても同じ結果になることを示そう。この場合、
銀行のオペレーションは、売買の後に続くのではなく、売買に先行する。B、C、Dは自分たちの必要とする商品を購入する前に
銀行家と契約し、銀行家が彼らの代わりにAの債務者になり、同時にB、C、Dの債権者となることを約束する。[※以下の説明は、
今の日本でいうと銀行による貸付金というより、新版会社やリース会社による立て替え払いのほうがイメージしやすい。]こうした
契約をしてから、B、C、DはAから購入し、そしてAに自分たちの手形を差し出しそれをAが銀行家に売却するのではなくて、
直接、Aに銀行家の手形が渡される。こうした銀行家の為替手形は、小切手あるいは支払指図書drafts と呼ばれている。
P43:2 確かなことは、こうして生まれた状況というのは、どちらの手順が採用されたとしても全く同一なのであり、
債務と債権は同じやり方で清算される。細部にはわずかな違いがあるが、それだけである。


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