断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

MMT⑩’‐kadomos & O'Hara 論文の話

2014-10-03 22:50:28 | 欧米の国家貨幣論の潮流
だいぶ、間が開いてしまった。。。
ブログを更新するというのも
なかなかめんどくさいんだなあ。。。

先日、久しぶりに連銀のBSを見る機会があったので
つらつら眺めていたら、ふと気が付いた。
これまでおいらが何回か言及してきたtime deposit facility の
残高がゼロなのである。BSの場合、"0"という数字が入っている、
ということは、文字通りの「ナシ」という意味ではなくて
そのBSの最小単位の1に満たなかった、という意味である。
いずれにせよ、きわめてゼロに近い残高しかない、ということだ。
これは、日本の「超過準備率に対する付利制度」が
所要準備の15倍以上に及ぶ国では考えられないことだ、、、
と、これまでのおいらの論じていたところによると、そういうことに
なってしまうのだが、どうやら、おいらは
かなり長い期間にわたって、勘違いしていたらしい。
Fedは、何も超過準備だけでなく、準備預金全体に
金利を付けていたのである。おいらは個人的に
日銀の超過準備付利制度とFedのtime deposit facility を
同じようなものと考えていたけれど、そうなのではなかった。
time deposit facility というのは、確かに、準備にも銀行間の決済にも
使えない連銀の負債ということで、日本でいえば
超過準備に対する付利制度と似たような内容なのだけれど、
しかし、位置づけは全然違う。実際には、準備そのものに
金利がついているので、日本のように超過準備と所要準備とに
区別する必然性などないのである。そのなかで、特に
一定期間にわたり利用する必然性の全くない金額だけが
time deposit facility に短期間振り替えられる、という趣旨らしいが、
実際には、ほとんど利用実績はないことになる。。。。

しかもたまげたことに、以前に読んだ
連銀の準備操作マニュアルにも
超過準備だけでなく
全準備に金利を付けることが明記されており、
しかも、当該項目記載部分に、おいら自分ではっきりマーカーで
ラインを引いていたんだよなあ。。。。。
その時は、はっきり認識していたはずなのに、読み終わったら
すっかり忘れて、ついつい日本の状況に引き付けて
記憶していたことになる。。。
いやはや、どうにも恥ずかしい、というか、困ったものだ。。
もともとあんまり記憶力はいい方ではないが、これほどとは。。。

で、たまたま機会があって連銀のBSを久しぶりに見た、と書いたが、
実は、まあ、機会自体はホントにたまたまだったわけだが、
ちょっと細かく目を通していたのには、それなりの理由がある。
実はMMTer の中核人物の一人、Scott Fullwiler の論文に
取り組み始めた、という事情があって。
Scotte Fullwire という人は、Wray に依れば、
MMTer のなかで連銀のオペレーション(ということは、つまり連銀と
国家財政や銀行決済との関係)に関しては、もっとも
詳細な研究を行っている人物、とのことだ。
で、その古い論文から読み始めたのだが、これがなかなか難しい。
一つには(当時としては)最先端であった主流派経済学内部の
議論の批判が行われていたり、外部の人間からはうかがい知れない
インターバンク市場の取引の状態が詳細に書かれており、
内容的にも非常にわかりにくい(当方の勉強不足のため)のだが、
この人物、MMTer にしては珍しく、なかなかごたついた英語を書く人なのである。
(ネイティブじゃないのかな?)で、なかなか
読み進まないという問題があるのだが、それはともかく、

MMTの議論の特徴は、連銀のによる実際のオペレーションと実際の
取引プロセスを非常に重視する点であり、
まあ、そこから、実は政府(財務省)と中央銀行を分離して論じることには
意味がない、という命題が出てくるわけだが(その点が
中央銀行は政府の子会社だ、だとか、「政府紙幣」と書いた紙切れを
中央銀行に政府が渡せば政府はいくらでも財源を手にできる
というような議論とは一線を画するところでもある)、
実際、こうしたFullwiler の議論などがまともに取り上げられることなく、
ただ「国債発行残高が増えれば、破たんするにきまっている」という
思い込みと、「国債なんか、中央銀行が買えばいいんだから
破たんなんかしない」という議論とが、ただただぶつかり合っているような
印象与えるような状況は、何とかならんもんかいなあ、
と、思っている。お互いの思い込み同士をぶっつけあうんじゃなくて
事実に対して、まず共通の理解を前提にすることは
できないもんなんだろうか。。。なんてえらそーなことを書いておきながら
自分自身が思い込みだけで、ショウもないことを書いてしまっていた。。
改めて反省。(先日は、会社でもドジを踏んで
5万円以上の損害を出してしまって、始末書書いた。。。
あーあー、生きていくって、つらいなあ。。。)


いやまあ、それはともかくとして、、


George Kadmos & Phillip Anthony O'Hara の
"The Taxes-Drive-Money and Employer of
Last Resort Approach to Government Policy"

へのコメントであるが。。。。

この論文は、もともとは
Secareccia 論文の影響を受けたとのことではあるが、
もっとも、Seccarecia 論文自体は
その後書き直されており、おいらが目にすることができたのは
新しいバージョンの方だけだった。
だからまあ、内容に若干のずれがあるかもしれないが、、、

いずれにせよ、Secareccia は、カレツキーのいう低賃金完全雇用と
高賃金完全雇用とを区別して考えており、
Wray などの言うELR(JGP)政策では
低賃金完全雇用に達してしまう恐れがあること、および、
これがその実、背後に偽装失業を隠した、それどころか
それ自体、偽装失業の一種になってしまう、
そうした懸念を示した。
さらに加えて、これが本当にインフレなき完全雇用(経済成長ではない)
を実現するのかどうか、という点でも、疑問を提示した。
もしも高賃金完全雇用を目指す場合には、
貨幣賃金率が上昇せざるを得ず、これは、ELRプログラムへ参加していない
民間部門の貨幣賃金率の上昇を招き、
これが再びELR部門の労務者の実質賃金低下を招けば
低賃金完全雇用へ向かってしまうし、貨幣賃金を引き上げれば、
「賃金-賃金」インフレへと向かってしまう、こうした矛盾があることを
示した。

さて、これに対し、Wray他がどのような反論をしているかは
また機会を改めて検討するとして、
今回の本題はKadomos & O'Hara の論文である。
Secareccia の論文が、まあ、こういう言い方をしてはなんだが、
MMT(というか、JGP)の問題点を指摘することで終わってしまっていたのに対し、
K&O 論文は、そこから一歩進めて、ELR の「改善提案」をしている。
おいらがこの論文を取り上げるのは、
MMTに関心を持つ日本の、少なからぬ人々にとっては、
むしろこの改善提案の方が
JGP を重視する「MMT 第一世代」の理論より、好まれるのではないか、
と感じたからである。急いで付け加えるけれど、
おいら自身は、K&O 論文には、あんまり好意的ではない。
まあ、もともとMMTのJGPに対しても、そんな賛同しているわけではないが
(と、いうのは、理論的にはまだ十分説得力があるとは思えていないし、
日本の労働市場の実情から言って、これを採用することが
適切という気にもなれない)、しかしその一方で、これが
ある意味で、単なる経済政策(Wray によれば、経済政策では
無いのだそうだが)を超えた、長期的に社会(社会的価値観)を
変えようとする射程を持つ発想だ、という点は
理解しているつもりだし、その意味で、非常に魅かれるものを感じている。
他方で、K&O の改善提案は、現在の資本制経済の価値観を
そのまま変えることなく、ただ、民間部門における雇用や経済成長という
従来と変わらない数値の改善を希求するだけの物へと
MMT を後退させるものであるように思える。ある意味で
MMT が理解しにくいのはこの点だと思う。MMTer が、国債の
累積が問題ではない、ということは、今、財政赤字をいくら出しても
インフレになる心配はないから、どんどん財政支出を膨らませろ、
といっているわけではない。財政赤字がなければ、
企業や家計が貯蓄をする限り
貨幣流通残高は減少する一方となり、それを補おうとすれば、
どうしても政府赤字が継続せざるを得ない、ということを
言っているに過ぎない。
財政赤字を通じて経済成長率を伸ばしたり、民間の景気の呼び水にしようと
言っているわけではない。だから、ある意味ではSecreccia の
言う通りなのだと思う。MMTが目指しているのは、民間部門における
低賃金完全雇用ではないだろうか。ただしアメリカでは、JGPによる雇用は
低賃金完全雇用であったとしてもSecareccia の言うような
「偽装失業」になることはない、むしろ、資本制経済という枠組みの中で
資本制の価値観を持つ人々と共存する形で
資本制の価値観を疑う人々が生きられるすべを提供することこそ
JGPが本当に目指しているもの、目指すべき目標なのではないか、と思う。
その点は、むしろ、Guy Standing のプレカリア-ト(ベーシック・インカム)
運動と価値観を共有している面がある―ただし、プレカリアート運動は
資本制の価値観そのものを否定するところから出発するような面があるが、
MMTは、そこまで一気に突っ込まない―。
こうした考え方が背景にあるのだから、
資本制経済による物的豊かさを目標とする人々との間で
議論がかみ合わないのは、ある意味、当然なのかもしれない。
WrayがELR の活動内容の例として、
介護・教育・自然環境保全などと並べて芸術活動や地域史の
編纂(記録)などを挙げるとき、意図されているのは、
JGP によって、単なる労働力のバッファーを維持することではなく、
新しい地域社会の在り方を模索しようという試みなのだと思う。
…と、まあ、毎度のことで話がずれまくるのだが、

で、話を元に戻すと、K&O論文では、MMTの主張を二つの部分に
分ける。一つはTax Driven Monetary View (TDM)といわれる部分と
Employer of Last Resort とである。このうち、前者は
Wray の言うとおり、discriptive な部分でもあり、つまり、
実際にこの資本制経済の下で貨幣がどのような手順、手続き、
意思決定を経て生成され、
どのようにして流通しているかを、虚心坦懐に、思い込みや偏見を排して
記述したもの、とされる。他方で、ELR の部分は
一種の経済政策であり、現在の資本制経済に対する改善提案だ、
とされる。そのうえで、TDM について言うなら、
これをIS=LM分析の枠組みで論じると――わざわざ、
「Wray はしかるべき反論をしてくるだろうけれど、無理やり
論じれば」と断り書きまでして――、MMTの考え方によれば、
赤字財政の拡大による政府支出の増加は
単にIS曲線を右シフトさせるだけでなく、同時に
LM曲線も右シフトさせることになる。こうして市場金利が
一定に保たれ、政府支出の効果は、ちょうどBP線が
水平なマンデル・フレミングモデルで金融緩和をしたのと
同じような感じで、ものすごく大きくなる。IS曲線が右シフトしたまま、
金利が元の水準と等しくなるまでLM曲線も、右シフトするわけだから。
ここで言っている財政支出というのは、当然
ELRのことではないし、財政赤字に等しいマネーストックの増加が
中央銀行(?)によってもたらされる、と想定されているようだ。
(実際には、K&O 論文でも民間部門で貨幣貯蓄の増加があれば
それに対応して金利を維持するように、コントロールされると
あるが、やや曖昧な書き方である。)
もしも、政府支出の増加にもかかわらずそれに伴い貨幣供給量が
増加して、金利も物価も変化しないのであれば、
これは政府支出が45度線分析で言う財政支出乗数効果を、
クラウディングアウト一切なしに、
そのまま引き起こす、ということである。
さて、こうしたまとめ方については、Wray でなくても
ちょっと反論したくなる。MMTは政府支出の増加が
現物市場においてボトルネックを発生させ、そこから
物価や賃金が上昇する可能性があることを否定しているわけではないし、
インターバンクレートが一定に維持されているからといって
リテールマーケットで金利が上がらないとは言っていない。このような
形で、対外経常赤字が大きくなれば、内国金利が高くなることだって
無いとは言えない。極端な言い方をすれば、
K&Oがここで描き出したTDMこそ、マルコム・ソーヤが批判してやまない
「1生産物モデル」のMMT像に近いものだ。
すでに、ここに両者の間を分かつ考え方のずれがみられる。
K&O によれば、結局MMTとは、「不況期」を想定している理論ということになる。
政府が支出を増やせば、それによって不稼働な資本設備や
過剰在庫、失業者が雇用され、物価が上昇することなく
国内所得が増加するようなモデルである。そして金利は
一定に保たれ、クラウディングアウトは発生しない。国内需要の増加は
海外へのリーケージがそれほど増えず、国内の生産の増加で
対応されるだろう。
しかしそれでは、
K&O 自身がその直前で言っていた通りの
discriptive なTDMではあるまい。Wray やTchernevaも
所得乗数を計算したり、いろいろ試みてはいるが、
それはあくまでもJGP による消費支出下支効果の話であって、
TDM にかかわる話ではない。TDMでは、財政赤字は
民間部門でよっぽど景気が過熱しているような状況下で
税収の自然増によりT>Gとなるようなケースを除けば、
景気がよかろうと悪かろうと、赤字傾向にならざるを得ない
――そうでなければ、国民が貯蓄残高を増やしながら税金を納めることは
できなくなってしまう――。景気に合わせてGや
Tr(移転所得)やBi(政府債券に対する金利支払い)といった
支出の方が変化するのではなく(ただし、ELRにかかる費用は
別だが)、Tの方が景気に合わせて自然に増減するのである。
この一点だけでも、K&O の考えているTDM とWray その他が
考えているTDM の間には、大きな開きがあるといえるのでは
無いだろうか。

さて、K&OとMMTの間には、一見する以上の違いがある、
ということをとりあえずここでは押さえておいて、
次へ進もう。

TDM についてはかなり好意的であったK&O ではあるが、
ELRになると、やや趣が変わってくる。
K&Oは、ELR政策が、アバ・ラーナーの言う「低位完全雇用」だとする。
K&O によれば――おいらは、ラーナーの論文(翻訳もあるのだけれど)を
見ていない――、ラーナーの言うファンクショナル・ファイナンスは
ELR政策とは全く違う、ということである。

ラーナーによれば、ファンクショナル・ファイナンスは「摩擦的失業」
――これは、今日の教科書で言う構造的失業及び摩擦的失業の両者を
含むのだそうだ――には、対応できない。ファンクショナル・ファイナンスで対応
可能なのは「循環的失業」だけだ――これが、K&Oの主張である(繰り返すが
おいらはラーナーを読んでいないので悪しからず)。

「摩擦的失業(摩擦的失業+構造的失業。以下同じ)」が発生する主要な理由は
労働者の技能や教育、その他の問題により、いくら景気がよくなっても
雇用されることのない層が存在しているためである。ラーナーの場合、
「完全雇用」とは、循環的失業が存在しない状態を指す。
ファンクショナル・ファイナンスによって景気を刺激し、
循環的失業者がいなくなっても、
十分な技量や教育のない労働者がいる限り、失業者は残るだろうし、
労働力不足による貨幣賃金の全般的上昇と、失業者の存在は
両立しうるのである。それどころか、経済が急速に発展し
技術進歩の速度が著しく早くなると、新技術に対応できない労働者層が
増えてくる。こうした労働者層は、徐々に循環的失業者層から
摩擦的失業者層へと移ってゆく。こうした変化が進むと
失業者全体に占める摩擦的失業者の数が増え、
ファンクショナル・ファイナンスによる赤字拡大によっては
失業者数をなかなか減らせないことになってしまう。

逆に言えば、ファンクショナル・ファイナンスによって
失業を減らし、「高位完全雇用」を目指すなら
「もし失業したら摩擦的失業者」層を
「もし失業したら循環的失業者」層へと移すことが
重要になってくる。(変な訳語で申し訳ないが、原文では
ELR で雇用されている労務者を指す文脈で、
'otherwise fractional unemployment' と'otherwise cycrical
unemployment'と使い分けていた。つまり「さもなければ(もし
ELR で雇用されなければ)○○失業者」、という意味。以下では
文脈に合わせて、必ずしも訳語を統一しない。とりあえず、
わかりゃいいでしょ。)

他方で、MMT の主張を見るなら、
ELRは、ラーナーの言うファンクショナル・ファイナンスによる
雇用創出とは全く別のことを考えている。
ラーナーとは正反対に、MMTは、「所定の賃金で
働く意欲と能力のある人」を雇用する、という。
これは摩擦的失業者を中心にして、民間部門で雇用されていたころは
高収入の技能労働者であった失業者を排除することに
つながりかねない。低技能の民間部門失業者は
いつまでも低技能のまま、「低位完全雇用」(ただし、
ラーナーの意味とは若干違って、摩擦的失業者が雇用され、
高技能失業者が依然として「自発的」失業者のままでいる状態)に
なってしまう。これほど、ラーナーの趣旨と違ったことを
主張することはできないほどであろう。

MMTはELRによって、労働バッファーストックが形成される、という。
だが、ELR政策によって雇用された人々は
何をしているのだろうか。介護支援や教育支援、環境保全活動、
などなど。これらは社会的に必要で有益な活動であるに
違いない。しかし、これらはそもそも専門的な知識や教育を必要とする
ものであって、失業したから次の日からやります、といえるような
性格のものではない。きわめて特殊な専門技能を必要とするのだ。
そして、その専門技能、こうした事業に参加することで得られる知識や
技術、教養は現代的な産業ビジネス、とりわけ、通信・情報産業における
技術革新に流用できるような性格のものではない。
環境保護や教育の分野でいくら研鑚を積んでも、最先端の
民間営利ビジネスで人手不足が生じたときに労働バッファーストックとなって
貨幣賃金率の上昇に歯止めをかけられるような要素はない。
これは摩擦的失業者を摩擦的失業者のまま、低賃金で雇用するものであり、
Secareccia の表現を使えば(K&Oがそう言っているわけではない)
まさに偽装失業そのものであろう。
必要なのは、ELRプログラムのような、
地域社会の短期的ニーズに合わせた
雇用政策ではない(地域社会のニーズに合わせた
雇用が必要ない、といっているのではない)。
最終的に、労務者の意欲を維持し、より高い
賃金所得を実現するために必要とされるのは、
長期的に、産業の必要に合わせた熟練技能労働力を供給し、
失業者を「さもなければ摩擦的失業者」から
「さもなければ循環的失業者」へと移すようなトレーニング・
実習プログラム、および、そのために必要な設備や施設への
投資である。それと同時に、民間部門がこうした分野に積極的に
投資を増やせるような政策(呼び水政策)が必要となるだろう。
そしてそれこそが、一国(実はオーストラリアの
ことなんだな、これが)の経済を持続的に発展させるために
必要なことなのである。

K&O によれば、オーストラリアのここ20~30年、投資不足と
人員不足を伴う失業(構造的失業)とに悩まされてきた。
(この論文が書かれたのは2000年のこと。)ELR による
消費支出の拡大は、とてもではないが
オーストラリアの景気改善に役立つ規模にはならないであろう。
他方で、投資を増やすには資金不足・人員不足である、
という。ここで言っている人員不足というのは、
成長を支える産業で雇用される人々であり、
つまり、通信・情報産業といった分野で働ける能力を
持った人員のことである。他方で、こうした分野の能力を持たない
失業者が多数存在しているが、彼らの生産性は
低いため、雇用も投資も増えない。
失業者救済のための支出は、消費の下支えにはなっても
景気を改善するほどの力はないが、こうした
「経常的費用」については税収から補てんすることが可能である。
(はっきり「税収から補てんすべき」と書かれていたわけでは
ないのだけれど、文脈上、そんな感じ。)
他方で、「資本的費用」つまり、国内の固定資本形成に必要とされる
資金は、TDM によって、つまり、政府が無から生み出す貨幣によって
支出されるべきである。
政府による情報通信関係への投資は、民間の資源を徴用することにつながり、
一時的には物価の上昇圧力を引き起こす(最初に書いてあったことと
違うじゃねえかよ)が、
こうした投資の民間経済の生産性に対する長期的な費用削減効果の方が
物価上昇効果を上回ることで、物価上昇は沈静化する。(マーシャル的な
外部経済効果を念頭に置いているんだろうか。。。でも、情報
通信ビジネスだろ。。。。情報通信技術の進歩による
費用削減効果って、、、、なんだか、なんとなく釈然とせんなぁ。。。)
同時に、ELR によって再訓練された労働者層が、
十分な生産性を持って労働市場に復帰すれば、
十分な雇用先が生み出されることであろう。
こうして、労働者と資本の生産性(収益性)が高くなり
高い賃金で完全雇用を実現することこそ、目標とされるべきである。


さて、こうしたK&Oの主張について、いくつかのポイントを
指摘できる。一つ、特に目立つのが、
K&O論文では、ELR政策の「本位制」としての機能が
全く無視されてしまっている点である。
ELRによる雇用は、労働者の短期的雇用と
有効需要(消費支出)創出(およびそれを支えるための
貨幣供給量の増加)のためだけに限定されて考えられており、
MMTerが主張するような、「一定の貨幣支出で
常に一定の労働者を雇用できる」という意味で
貨幣価値を安定させる機能というものは、
考えられていない。実際にこの機能が
うまく働くものなのかどうか、十分説得力があるかどうか
微妙といえば微妙だが、これを無視してしまっては
ELR についての公平な論評とは言えないだろう。
逆に言えば、K&O がTDM を受け入れるといっても、
MMT自身によれば、TDM は、貨幣流通の根拠を与えるものでは
あっても、貨幣価値の根拠までをも与えるものではない。
貨幣価値の根拠を与えるには、市場で流通している何かの
値段をフィックスし、それをその価格で
無限に政府が購入する一方で、誰かがそれをその価格で
求めるときには、政府(あるいは中央銀行)がいくらでも
供給できなければならない(実際には後者の条件は、
金本位制でも労働バッファーストック政策でも
十分に満たされているわけではない、と思うが)。
そしてそうした財(あるいはサービス)が
社会的に常に必要とされるなら、貨幣価値は
安定したものとなるだろう。K&O の論文には
こうした機能を果たすものが指示されていない。
つまり、TDM 理論としては片手落ちなのである。

さらに言えば、両者の間の違いは、
そもそも、なぜ、完全雇用を目指すのか、
なぜ、経済成長が必要なのか(あるいは、そもそもそれは
必要なのか)というところにあると思う。
MMTからすれば、失業とインフレは、ともに排除すべき問題である。
それに比べれば、経済の持続的成長など
どうでもいいことである。もちろん、営利企業が
積極的な活動を展開し、それによって
新しい技術が開発され、賃金が上昇し、経済が成長すれば、
それはそれで好ましいこととは言えるだろう。それを
否定しているわけではない。
しかし、資本制経済の現実は、「いつもそううまくいくわけではない」と
いうことだ。そして、経済がうまくいかなくなった時、
あおりを受けるのは、労務者である。巨大企業や
銀行の経営者は「大きすぎてつぶせない」として、企業のみならず
経営者の財産まで保全されるのに、
他方で労務者は「自己責任」により、生計を立てることができなくなる
という社会のゆがみを、一部是正しようというだけのことである。
MMTが政府の財政赤字の必然性とデフォルトの不可能性を説くのは、
単に、こうした人々を保護する責任と能力が政府にあることを
示すためであって、インフレ政策を行うことで企業の収益率を引き上げ、
景気を向上させるためではない。
企業の成長によって、雇用が増えるのは大変結構な話だが、
そのためにインフレを加速し、すでに追い込まれている人々を
ますます追いつめることは避けるべきである、単に、そのレベルのことを
言っているに過ぎない。そして、そうやって形成された
非資本制的な空間から、何ものか(新しい価値観のようなもの)が
生まれることが(少なくとも一部の論者によって)期待されている。
たとえ「低位完全雇用」(に近いもの)であっても、
インフレと「摩擦的失業」を伴う、営利企業主体の「自然失業率」
――K&Oによれば、ラーナーの言う「高位完全雇用」とは
まさにそうしたものであるが――より好ましい、と考えているわけだ。
こうした問題意識を持っていないと、
結局のところ、MMTを理解することは難しいのではないか、
と、Kadmos & O'Hara のMMTに対するそれなりに好意的な批判からは、
感じ取れるのである。


と、いうようなわけで、またもや
あんまり締まりのないブログになってしまった。
なお、本論文には、J. King による好意的な評価と、
それに対するK&Oのリプレーもあるが、今回は割愛。

次は、Scott Fullwiler による中央銀行の行動分析の話題にするか、
Jpsehp Huber(NCT)によるMMT批判にするか、
アルゼンチンのPlan Jefes にするか、思案中。(ってか、次書くのは
いつになるのかねえ)

※宇沢弘文先生御逝去とのこと。お歳などを考えれば
意外ということでもないのですが、一度ぐらい、お目にかかりたかったなあ、
と。
また、先日は土井たか子先生も亡くなったとのことで
こちらも残念に思います。全然関係ない話ですが
御嶽山の噴火によって命を落とされた方も多数いる様子(まだまだ
増えそうな話も聞きます)。
身近な人がなくなったわけではないけれど、
こう訃報ばかり立て続けに入ってくると、
意味もなく気が滅入る。
亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。


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