断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

MMT⑩ 第2世代?

2014-09-06 19:26:14 | 欧米の国家貨幣論の潮流
先日予告した、
George Kadmos & Phillip Anthony O'Hara
による
"The Taxes-Drive-Money and Employer of
Last Resort Approach to Government Policy"
(2000) についてのコメント、ということであるが、
これを次回あたり扱いたいと思う。
で、今日は、その前振り。

G. Kadoms という人のことはよくわからないが、
P.A. O'Hara という人は
SSA系の文献ではしばしば目にすることがある。
ヴェブレン系制度学派の流れを汲むSSAといったところか。
だから、というのもいい加減な話だが、
多分Kadomos も、SSA系なんだろうなあ、
と思う(オーストラリア人らしい)。。。

発表されてからすでにかれこれ15年経った論文を
今になって扱おうというのは、
単に、おいらがとろいからであって、
他に意味はない。とりあえず、MMTに好意的だが
ポイントが、Tcherneva の言う「第一世代」グループとは
ずれている人の代表というか、
もっとも初期の論文、ということで
取り上げる次第である。繰り返すけれど、
Tcherneva の言う「第一世代the first generation 」
というのは、WrayやMosler、Fullwiler、Kelton、Inghum、
Forstater、Parguez などなど
Neo-Chartalism とJob Guarantee Program とを
両方受け入れる人たちのことを指す。
これらの人々にとって、JGPとMMTは
切り離すことができない不可欠の要素であって、
もしもJGPを欠いたまま、「いくら赤字財政になっても
デフォルトするリスクはない」といって
無制限に財政支出を行えば、
完全雇用に達することなく、インフレが昂進するであろう。
たとえインフレ率が穏当で経済成長が適度であっても、
完全雇用が実現することなければ、
第一世代 MMTer にとっては、喜ばしいこととは言えない。
また、JGP の目的は、単に消費支出を下支えし
債務ヒエラルキーの再生産を保障する
ビルトインスタビライザーとして機能することだけではなく、
貨幣価値を下支えすること、
労働市場に「床」を与えること、
労働のバッファーストックを提供すること、によって
資本制経済の安定化を図ること、さらに加えて、
資本制経済の利潤追求企業によっては
不可避的に供給不足になってしまう分野への労働サービスを
提供することでもある。そして社会的には
賃労働あるいは/および社会的に必要とされている
営利企業によっては供給されない労働サービスの検討という形態を通じての
社会参加を促し、
資本制経済という制約の中での社会的自立と
マイノリティーの権利擁護という側面を持つとする。
(この最後の部分については、機会を改めて
アルゼンチンの「Plan Jefes」の実績に関する
Tcherneva の論文や、ベーシック・インカムBasic Income 制度を
巡ってのGuy Standing との論争などの紹介を通じて説明したい。)
First Generation にとっては
JGP を欠いたNeo-Chartalism は必ずしも好ましいものとは言えないわけだ。

これに対して、Kadomos & O'Hara は、
JGPを、MMTの本質的議論あるいはdiscriptive な議論とは
無関係の政策提言であり、
そしてそう考えた場合、政府支出を通じての貨幣供給は、
JGP を通じてより、むしろ成長戦略を下支えするようなものであるべきであり、
そうでなければ、JGP の副次的目的というもの、
すなわち、賃労働を通じての社会参加という目的の実現も
難しい、とする。
ここで使われ理論装置は、
今ではMMTer にとって「四聖人」(これはおいらの造語)的
立場にまで祭り上げられている先行者の一人、
アバ・ラーナーの "High-Full Employment" と"Low-full employemnt"概念である。
このころはまだラーナーは「四聖人」的な立場にまでは
祭り上げられていたわけではなかったが、
すでに複数の論文で言及がみられるので、
まあ、著者としては「逆手に取った」ぐらいの気持ちは
あったかもしれない。

ただし、この二つの概念を用いてMMT を批判するのは
実はKadmos & O'Hara が初めてというわけではない。
と、言うより、Kadomos & O'Hara 自身が書いている通り
これにはすでに先行者があり、K&O 論文は、むしろその先行論文を
追う形で展開されたものだ。

先行論文というのは、CT(サーキット・セオリー)-オタワ派の
Mario Seccareccia の"What Type Of Full Employment?"
である。ただし、本論文は2004年に改訂版が出されており、
おいらの手許にあるのも、この改訂版である。
ネットではオリジナルバージョンを見つけることはできなかった。
手に入らなかった以上、この改訂版をオリジナルと
同一視して話を進めることにするが、
影響を受けた論文のほうが影響を与えた論文より先に書かれた、という
ヘンな話になってしまった。。。


ちなみに、Seccareccia は、オタワ派あるいはカナダ派として
Marc Lavoie(本人はPK派を名乗っているが)と
ひとくくりにされて扱われることが多く、
現に、両者の共同研究もいろいろあるようだが、
さりとて他のCT(ParguezやGraziani、Schumitt)と、
どこがどう違うのかは、わからない――読んだことないので。

。。。。これを機会に勉強させてもらいます。。。スイマセン

と、いうわけで、今回のブログでは、
Kadmos & O'Hara 論文に先立ち、Mario Seccareccia によるMMT批判を
検討するわけだが、この論文(オリジナルと改訂版を区別しないが)は、
K&O以外にも、たとえばAntonie Godin あたりの論文にも
影響を与えており、結構根深い論点となっているようだ。
Seccareccia は、同じ(?)カナダ派のLavoie がMMTに対し
好意的な立場(Godley つながりのお友達?)であるのに対し、
結構辛辣な批判を行っている。

Seccareccia は、アバ・ラーナーのLow-Full Employment と
High-Full Employment(あるいは、この文脈では同じことだが、
カレツキーの低賃金完全雇用と高賃金完全雇用)をモデル化する。これは、
ポスト・ケインズ派の文献にある程度なじみのある人であれば、
しばしば目にするものであるが、
Y = C + A
とし、Cは、家計消費支出、Aは、民間投資支出、政府投資支出、
純輸出とする。
そして、Aはすべて外生的・裁量的な変数と考える―この文脈で
民間投資や純輸出を定数とすることには、
異論が出そうだが。

家計の消費支出は、賃金所得からの支出と
財産所得からの支出とに区別される。ただし、
話の単純化の必要上、財産所得からの消費はゼロとされる。
ゼロというのは実際にはあり得ないが、
賃金所得からの消費性向のほうが
財産所得からの消費性向より大きいのは事実だから、いいでしょ、
というわけ。どうでもいいが、
財産所得からの消費性向をゼロとしてしまう、というのは
ここ数年のアメリカや日本でとられてきた政策の
中核に位置する均霑理論効果(トリクルダウン・
テーゼ)は、仮定上、排除されてしまうわけだ。
まあ、それはともかく、

C = σwL

(wLは、賃金収入の総計、σは賃金収入からの消費性向)

ここで、労働生産性を α とすると、生産面から見た
国民所得Yは

Y = αL

だから、

αL = σwL + A

となって、これを変形して労働の需要関数を得る。

L = { (1/α) / ( 1 - (σw/α))} A

となる。最後に、ケインズ/カレツキーの伝統に従い
∂L/∂w および2階微分ともに、>0 とする。
これはつまり、横軸に労働需要を取り、縦軸に実質賃金を取った時には
横軸切片を持った、上に凸の右上がりの曲線になる。
(わからん人は、論文をダウンロードしてくだされ。
Figure2のLd線のことです)
つまり、どういうことかというと、
賃金所得からの消費性向が1より小さいとき(この仮定が
ぶっ壊れてしまった、というのが、前にGodley に関連して言及した
「Goldilocks (三匹の熊に出てくる女の子)の経済学」だが、
それはさておき)、賃金率が下がると、ますます需要が減少し、
ますます雇用が減ってしまう、という話である。
まあ、これは、民間投資も純輸出も一定(さらにはここでは
物価も実質的に一定)と仮定されているうえ、
企業の利潤動機とも関係なく、
需要(貨幣支出)が与えられれば、レオンチェフ型の生産関数から
一意的に労働に対する需要が決定される、という話だから、
まあ、賃金率が高ければ
より多くの需要が生み出され、それに対応して労働に対する需要も
増加する、というのは、
当たり前といえば当たり前体操、当たり前田のクラッカーという気もする。
いずれにせよ、賃金率の上昇こそ、雇用を高めるのであり、
失業者がいるときに
賃金率を低下させれば、むしろ雇用は悪化する、というのが
このPK派労働需要曲線のメッセージである。なお、独立変数であるAが
大きくなれば、この需要曲線は全体として右へ動くであろう。

他方で、労働供給だが、各地の歴史的推移及び
国際間の比較で、労働供給には次のような特徴を指摘できるという。
一般的に失業率を決めるのは
労働参加率と実際の雇用である。
一定の就業年齢人口があり、一定の雇用があるとき、
失業率を決定するのは、
就業年齢人口のうち、どれだけが労働市場に参加しているのか、という
労働参加率である。
多くの先進国で過去にみられ、そして多くの発展途上国で
現に見られることであるが、
賃金が極端に低い場合、
国内の多くの就業年齢人口が、賃金雇用部門への競争へ
参入を見送る。Seccareccia は、発展途上国における
賃雇用部門への参加見送りを「偽装失業」として一括りにしている。
こうした扱いが適切かどうかは、おいらなんかは個人的に
やや疑問を持っているのだが(短かったがフィリピンの
ミンダナオの僻地(日本人から見れば)での生活体験もあるので)、
しかし、北米の歴史的経験からも
こうしたことは妥当性を持っている、という。
まあ、日本なんかも60年代には「中卒は金の卵だ」なんて言われて
東北や北海道から、集団で東京へ出稼ぎに出てきた
なんてこともあったぐらいだから、「一括り」にするかどうかはともかく
一定の妥当性はあると思う。(メキシコでは2000年から2001年にかけて
低賃金水準の下、失業率が3%だった、という。まあ、確かに
「偽装」と言いたくなるのもわからんではない。ちなみに
フィリピンの雇用統計では、週に3日以上働いていれば
就業者扱いになるんだそうだ。)ただまあ、
たとえば、日本で、現役就職に失敗した学生が
親元で浪人して就職活動を行っているとき、
これは、どうなんだか。。これまた失業統計にはカウントされないので
一種の偽装失業ということになるんだろうか。。。
この種の議論では、ある種の専業主婦(主夫)も、一種の偽装失業として
カウントされるんだけれど、まあ、どうなんだろうかね。。。

それはともかくとして、いずれにせよ、
この枠組みの下で実質賃金が上昇すると、
こうした「偽装失業」部分の就業年齢層の人々が
賃雇用部門へ参加するようになり、それゆえ
雇用の伸びがそれに追いつかなければ失業率が上昇する。
他方で、実際に就業人口の多くが賃金雇用部門に吸収され
実質賃金水準が高くなれば、しばらく
賃金水準にかかわらず労働供給が一定の時期が訪れ、
それを超えると、
今度は実質賃金が上昇することで
かえって労働供給が減る、といういわゆる
バックワード・ベンディング・カーブが正当化される。

さて、そうすると、この労働供給曲線と労働需要曲線とを
重ね合わせると、どういうことになるだろうか。。。
と、言うのが論文中のFigure3。(転載できなくてごめんなさい。)

一方は、右上がりで上に凸の労働需要曲線、
他方には、低賃金エリアでは右上がりで
賃金上昇とともに垂直になってゆき、
さらに賃金が上昇すると今度は左上に向かってゆく、
というバックワード・ベンディング労働供給曲線。
当然、両曲線は、2点で交わることになる。
(交わらないとか、一点で接する、とかもありうるけど、
とりあえず交わることにしてください。)
この2点のうち、低賃金、低雇用の方を
低位完全雇用Low-Full employment
高賃金、高雇用の方を高位完全雇用High-Full employment
と、呼ぶ。(訳語は、とりあえずおいらの造語。
わかりゃ何だっていいでしょ。)
実際の雇用は、この両曲線に囲まれた
凸レンズ形状の領域内に決まることになる。

こうした労働市場モデルを前提にして、
JGP(ELR)賃金が何を意味するのかを
Seccareccia は論じる。

JGP では、政府が最低賃金を定め、
その賃金水準の下、民間部門で雇用にあぶれた
労務者をすべて、本人に働く意欲と能力とがある限り
全員雇用することになる。Seccacceria は
これを上記の図中のある賃金水準からの水平性で示す。

ただ、ちょっと気になるのだが、
Seccarecia が言っている最低賃金とは、実質賃金のことである。
Seccareccia 自身は、これはMMTの議論に沿うものだ、
としている。と、言うのは、この文脈では
ELR賃金が若干変化したとしても、短期的に物価に影響を与えることは
無いからである。その理由をSeccareccia は二つ説明している。
第一に、ERL賃金は、経済全体における最低水準賃金だけを
決めるものである。これが上昇すれば、この最低賃金ギリギリで
稼働している企業の労務費は影響を受けるであろうが
広範な労働者層の賃金に対する影響は
極めて限定的なものにとどまる。したがって、物価に影響することは
ない、というもの。第二に、
アメリカやEU圏のようなところを除けば、ほとんどの国々の企業は
大きな対外競争にさらされている。カナダで言えば、
GDPの40%が輸出に依存している。
こうした状況では、労賃が若干変化したとしても
企業は、短期的には、それを製品価格に転嫁することはできず、
マークアップの低下で対応するだろう。
そして、長期的な技術革新による製品単位当たり労働投入量の
減少によって、マークアップの回復を探るであろう。
従って、ERL賃金上昇(それどころか、貨幣賃金の上昇一般)は
短期的には、広範な製品価格には影響しない、というものだ。

さて、この説明を読んで、日本にいる賃金稼得者の方は、
どうお感じになるでしょうか。。。
おいらなんかは、ずいぶん違和感があるんだが、それはさておき、

MMTでは、貨幣賃金を固定する。
「固定する」というのは、経済学のモデルからすれば
つまり「外生的に決定する」ということで、
これはつまり、モデルの外部から任意に決定できる、
ということだ。だが、MMTがELR賃金を設定する、
というとき、これは文字通り、
貨幣賃金を長期的にある一定の値に固定する、ということを
言っているのであって、
「裁量的(任意)に変化させる」という話にはならない。
経済学のモデル、とりわけ限界理論(Seccareccia の議論は
限界理論というわけではないが)では、
外生変数を動かさなければ話にならないが、
MMTは、そういうことを言っているわけではないのだな。
たとえば、雇用を望ましい方向に変化させるため、
実質賃金水準を変化させる、という話にはならない。
あくまでも、ELR貨幣賃金を固定させ、かつその水準で
労働力のバッファーストックを与えることで
物価水準全体を特定の水準に安定させよう、という話だ。
話の流れが逆なのである。
経済学にどっぷり染まってしまって他の考え方を受け入れられないと
この話の流れはなかなか理解できないんじゃないだろうか。
(経済学が、Science というよりDisipline だ、と言われる
所以ではなかろうか。。)
JGPによって労働のバッファーストックができると、
企業は、従業員を増やしたい場合には
JGP賃金よりほんの少し高い賃金で
JGP雇用の労働者がいる限り、いくらでも雇用を増やすことができる。
これによって、賃金プレッシャーによる労賃引上げと
物価上昇とを回避する、というのがMMTの主張であるわけだが、
Seccareccia の議論では、むしろ、
ELR賃金の若干の変化(独立した変化)が物価水準には影響せず、
従って、貨幣賃金の動きを実質賃金の動きと
同一視できる、という議論の組み立てになっている。
MMTは、景気が変化し労働に対する需要のほうが自律的に変化するのに対して
ELR政策は、物価安定機能を持っている(それゆえ、
貨幣賃金の変化を実質賃金の変化とある程度同一視できる)とするのに対し、
Seccareccia は、ELR賃金のほうが、景気や労働需要からは
独立に変化する(政策的に決定される政策変数なので)、
という話の建て付けになっている。
こういう違いが出てくるっていうのは、
まあ、議論が多角的になる、さまざまな次元から
問題が検討される、ということだから、
本来、大いに歓迎すべきことなのだろうけれど、
なんか、すれ違っているような気がしてならないんだよなあ。。。


ともかくSeccareccia は、ELR政策にとって、
賃金水準の決定が、重要な意味を持つ、とする。
Seccarecciaは、まず、ERL賃金をごく低い水準に設定することから始める。
民間部門での労働の供給超過が最もはなはだしい状況である。
この結果、「ELR賃金も荷重した平均賃金」全体が下がる。
問題は、これをどの水準に定めるか、だ。
労働供給曲線と労働需要曲線は、2点で交差する。
上の交差点(高位完全雇用点)をAとし、
下の交差点(低位完全雇用点)をBとする――実際には
ELR賃金水準がこのB点に対応する賃金水準より高い額に設定されれば
賃金がBの水準まで下がることはないが。
AとBの間に、労働供給曲線と労働需要曲線の間の開きが最大になる水準がある。
ここで与えられる賃金水準を、仮にEとする。
もしも、「ELR荷重後平均賃金」が、このEより高い位置に設定されると、
経済は、「高賃金完全雇用」であるA点に向かって進むことになる。
ところが、ELR荷重後平均賃金がE水準より低いと
経済は「低賃金完全雇用」であるB点へと向かってしまう。
E水準より低い賃金水準にあるときは、
賃金が上昇すれば、失業者が増えるわけだから、
競争圧力が働き、むしろ、賃金が低下することになる。
そして、ERL賃金がB点に対応する賃金水準より高い点にあれば
賃金低下は、その水準でストップするであろうが、
この場合、ELR賃金は、偽装失業に他ならない、というわけだ。
しかも、その背後には大量の非労働市場参加者が隠されている。
Seccareccia の言うことを敷衍するなら、
これは、民主主義や人権の確立などとは正反対の方向に向かう話であり、
多くの独裁政権の下での発展途上国にみられる賃金形態に類似のものになってしまう。

さて、Kadmos & O'Hara 論文へのつなぎとしては、
この辺で終わりにしてよいのだが、
どうせだから、もう少しSeccareccia 論文の続きを読み進めてみよう。

Seccareccia は、MMTは、なぜ、公共投資、低金利、高賃金政策という、
通常のケインズ政策ではうまくいかない、と考えているのか、
と、論じる。彼によれば(そして、その通りだと思うが)、
MMTは、旧弊なケインズ政策は、インフレを招くと考えているからである、という。
その議論の背後には、結局のところ、主流派経済学と同じ
フィリップスカーブの発想がある。となると、
必要なことは、労働市場が完全雇用近傍にあってさえ「ルーズ(弛緩した状態)」を
作り出せるシステムである。ELRなら、このようなルーズ化システム(ルーザー)を
構築できるのだろうか。
ここでもまた、ELR賃金水準の決定が、重要な意味を持つ。
もしもELR加重平均賃金が、分水嶺より高い位置に来るようにELR賃金が
定められた場合、
「賃金‐賃金」インフレが発生する危険性がある。
Seccareccia は、ケインズに従い、貨幣賃金の次のような傾向を指摘する。
労務者は(70年代のような物価の急上昇期は別として)、通常実質賃金より
貨幣賃金の方にこだわる。購入する商品の価格は、個別的に日々変動しており
正確なところ、自分自身の実質賃金が上昇しているか下落しているかは
把握できず、それによって労働供給を決めることなどできない。
(たしかに、たとえば食費は労務者の食費の大きな部分を占めているが
しかし食費を構成する多くの商品価格は、消費者物価指数の構成要素ですらない。)
労務者は、将来の期待物価水準の変化よりも、
同じ労働をしている労務者同士の間の貨幣賃金額あるいはその変化に
より敏感である。(これは、確かに、相対的剥奪の研究によっても
ある程度裏打ちされていると思う。)
もしも平均賃金全体を大幅に引き上げるような水準に
ELR賃金が定められれば、
かなり底辺層の労務者の賃金までもがELR賃金以上に引き上げられ、
それに連動して、すべての労務者の賃金が大幅に
引き上げられることになる。Wray は、ELRの導入時点で
一度だけ、価格体系に大きな変化があるだろう、と認める一方で、
これによる物価変化は継続的なものではなく、インフレとは言えない、
としているが、Seccareccia は、これは単なる言葉のレトリックにすぎず、
大幅な賃金上昇圧力による物価上昇があれば
これはインフレであり、市民生活や企業活動に大きな悪影響を
及ぼすことになるはずだ、と指摘する。しかも、
こうして物価が一度大幅に上昇すれば、
今度は労務者全体の貨幣賃金が引き上げられざるを得ず、
これは結局ELR賃金水準を再び引き上げることになり継続的な
「賃金-賃金」インフレを引き起こすか、
あるいは、ELR賃金、
物価に比べ十分に引き上げられなければ、
実質賃金が引き下げられることにより、
ELR加重平均実質賃金が低下し、
「高位完全雇用」への圧力を失わさせ、
「低位完全雇用」へと向かう圧力へ切り替えられてしまう、という。
政府は、それ以外にも、インフレを抑制するために緊縮財政政策を
採用することもできる。この場合には、次のような問題が発生する。

仮に上記のような事情で「賃金‐賃金」インフレが発生するとしたら、
ELR賃金には、ある一定の水準を超えると「賃金-賃金」インフレを誘発し
それ以下なら、ほとんど誘発しないで済むという水準があるはずだ。
また、それぞれのELR加重平均賃金に対し、対応する
総就業適齢人口に対する(ERL労務者+偽装失業者)の比率が
あるはずだ。この比率は、労働需要曲線と労働供給曲線の間の間隔が
もっとも広くなるELR加重平均賃金水準より高い領域では
実質賃金の上昇に従い、小さくなる。
つまり貨幣賃金が上昇すれば、(ELR労務者+偽装失業者)/総就業適齢人口
が小さくなる。(もちろんこれは、1-(ELR除く雇用/総就業適齢人口)と
同じもの。)
ところが、これは、仮定上「賃金‐賃金」インフレ発生の分岐点(とりあえず、
以下ではインフレ分岐賃金水準と略記)より
上である。そこで、政府が財政支出を減らし、独立変数Aを小さくする。
それはつまり、労働需要曲線の右シフトを意味し(それゆえに、
インフレ分岐賃金水準が上昇し、インフレが抑制されるわけだが)、
当然、(ELR+偽装失業)/人口(表記は省略形)曲線が上方シフトし、
結局ELR労務者及び偽装失業者の数は、変化しないことになる。
実質賃金も雇用も改善しない。

結局のところ、ELR労務者とは、形を変えた偽装失業にほかならず、
労働予備軍効果と同じ役割を果たすことになる。それは、
新古典派が言うように非自発的失業者を失業者のままうっちゃっておくよりは、
あるいは、最低所得保障制度よりは、
「パレート改善」になるかもしれないが、
それだけの意味しかない。問題は、
「社会的に望ましい完全雇用とは、どのようなものか」
という問いが、すっかり抜け落ちていることだ、という。

ケインズにおいては、完全雇用は所得分配とは
切り離せない問題であった。
ケインズは、単に低金利による投資促進効果を語っていたわけではない。
「金利階級の安楽死」という言葉は、
金利政策が、直接に所得分配にかかわっていることを示唆している。
ELR政策では、「政府による直接雇用」といわれるが
一体雇用された人々が何をするのか、全くはっきりしない。
何に投資をするのか、何が生産されるのか、つまり、
雇用された人々が何をするのか、ケインズにとって
重要なのはこの点であった。(なぜなら、
これらは直接、分配にかかわる事柄だから。)

最後に加えて、
ELRは万能ではない。これによって
(しばしばベーシック・インカム派の人がするように)他の
所得政策が一切不要になるような言い方をするべきではない。
たとえELRを採用するにしても、失業給付制度は維持されるべきである。
特に、「低賃金ELR」が採用されたときに備えて、
失業者の都合に合わせて、どちらかを選べるようにすることが
大切である。。。。。。

と、いうわけで、まあ、おいらなりに下手な要約を
試みたわけだが、、、、

この論文が、MMTに関心を持つ人の間に
ある程度大きな影響を持ったことは、間違いない。
特に、ここで「高位完全雇用」「低位完全雇用」と訳した
High-Full Employment、Low-Full Employment の考え方は
アバ・ラーナーとの関係もあり、オールド・ケインジアンが
MMTを批判するうえで、一つの材料となった形である。
また、JGPを一種の「偽装失業」として把握する考え方には
確かに一理ある。ではJGPとHigh-Full Employment は
両立しないのか、ということで
Kadmos & O'Hara 論文が出てくるわけだが、、、


ただねえ、、、と、おいらは思ってしまう。

Seccarecia (および、Kadmos & O'Hara その他)に対する
MMT側からの反論は反論としていずれ取り扱いたいが、
しかしその前に、おいら自身の気持ちを言うなら、、、


今の日本あたりで問題になっている状態とは
どうなのだろうか。
日本では、親元に住んで就職活動をしている人の中には
浪人をしてでも、よりましな仕事を選ぼうという人が
少なからずいる。こうした人々は
確かにここで言う偽装失業かもしれないが
自発的失業者でもある。
他方で、最低賃金水準では、
とても満足な生活を送るには足りない、という現実もある。
働く場はいくらでもあるが、しかし
そうしたところで働いていたのでは、とてもではないが
「最低限の文化的生活」を送れない、
という現実がある。
(これは一つには、賃金に比べ
地代や公共料金が相対的に高い水準にあることが
原因の一つかもしれない。)
親元で生活ができる間はいいが、
満足な職歴もないまま年齢を重ねれば
将来は、ますます収入が少なくなり、
さらには退職後の年金などの問題に跳ね返ってくる。
さりとて、今すぐ、低賃金の仕事に就いたところで
今の時点で体を壊してしまえば
元も子もない。

他方で、ある程度以上の収入を得られる民間の仕事は
当然、利潤感応的である。
PK派のマクロ労働需要曲線は
総需要が与えられればレオンチェフ型の生産関数をベースに
一意的に民間部門雇用が決まってしまうが、
今日の日本の民間企業の雇用戦略からは
そのような関係を導き出すのは、難しいだろう。
Seccacceria の議論は、
製造業が中心の経済(希少性が意味を持つ経済)に
特有の労働需要関数をベースにしたものであって、
たとえば情報製品に典型的にみられるような、
複製を生産することの限界費用(あるいは
追加的労働投入)をほとんど無視できるような産業が
雇用の中心になりつつある(かどうかは、知らないが)社会では
新古典派の限界理論同様、あんまり妥当性がないのではないだろうか。
現在の日本で大きな利益を生み出すことができるのは
たとえば「クリエイティブな作品」なるものを作れる人々、
皮肉な見方をすれば、自ら「希少性」を生み出せる人々である。
まず希少性があって、それを埋めるための生産活動が行われるのではなく、
まず、如何にすれば希少性を作り出せるかが問われる。
従って、製造業においても、単に物を作ることよりは
「山を当てる」ことが重要になり、そして、大きな所得を
得るのは、物を作り出す労働ではなく、こうした山を探り当てる
人々である。
結局、物的生産力があまりにも発達してしまい、
あるいは輸入品価格があまりにも安く、
総需要が膨らんでも雇用がそれに反応しない社会では
いくら需要を膨らませたところで
民間部門の雇用は、それほどは膨らまない。
政府が無理に公共事業を行おうとしても
とりわけ中間搾取が著しく大きな社会では
実質的な自発的あるいは偽装失業者がいくらいても、
労務者は集まらないかもしれない。。。

まあ、おいらのイメージがどれほど日本の現在の労働市場を
うまく描き出せているのか、あんまり自信はないが、
仮に、おいらのイメージがある程度妥当するとしたら
Seccacceria の議論はどういうことになるだろう。
分配を変更することによって、完全雇用を目指すことなど
できるのだろうか。いくら物的需要があっても、
それによって派生する労働需要が低賃金のものばかりでは
そもそもSeccareccia の言うような高賃金完全雇用など
実現できない。収入の源泉が、不足しているものを作り出すことではなくて、
不足を作り出すこと(コルナイあるいはおやじガルブレイスとは逆の意味で)
にあるとしたら、民間部門の雇用を増やすことで
賃金を高め、分配を改善することを、
完全雇用の最終目標に含めることなど、
とてもできない話なのではないだろうか。(賃金引き上げによってであれ
政府支出の増加によってであれ)「有効需要を増やすことで
完全雇用を目指す」という発想は、標準原価計算の下、
労賃を直接費用として一律に扱うことができるような産業が
国内の雇用の大きな部分を占めていた時代であれば有効だったろうが、
今日の日本のような産業構造の中でも
本当に充分な有効性を持っているんだろうか。。。

むしろ、民間部門で雇用されなかった人々にも
「最低限の文化的生活」を保障できる程度の賃金を支払うことで
一方では利潤追求欲を満足させながら(そのためには
政府が有利子負債を発行することで、民間企業が
必要な資産を獲得できるようにする)、営利企業によっては満たされることのない
労働サービスを地域に提供することの方が
適切なのではないだろうか。これは単に、増加する民間部門失業者を
救うため、というだけでなく、ますます厳しい条件の中で
物的欲求あるいは世俗的名望を求めて資本制社会の上位階級に
上りあがりたい、という価値観を持っている人たちの経済活動を
活発化すること(結果として、雇用を増やすこと)という観点からも、
そのほうがいいのではないだろうか。。。
介護ビジネスなどの劣悪な条件が報道されるが
これは、介護ビジネスが、もし、労務者に「最低限の文化的生活」をするのに必要な
賃金を支払っていたのでは、営利事業として成り立たないことを
示唆する。JGP賃金を引き上げることを通じて
こうした分野から営利事業は撤退してもらい
地域社会がそれに応じたサービスを供給する、ということを
視野に入れたほうがいいのではないだろうか。そしてこうした人々の
給料がもう少し上がれば、牛丼屋も何も
ワンオペレーションなど強要しなくても、そこそこの利益を
挙げることができるようになるかもしれない―といったって
人より大きな利益を上げることを通じて
より豊かな物的消費生活を享受したい人は
結局、資本制経済の競争市場で勝ち抜かねばならない。
Seccareccia の議論の中には、こうした
競争を勝ち抜いて、人より豊かな物的消費生活を享受したい、
という人々の価値観を否定するようなニュアンスがある。
MMTは、こうした人々の価値観を否定しはしない。
ただ、そうした価値観を共有しない人々にも
最低限の文化的生活を保障し、そして、それを通じて
競争を求める人たちにたいして、
必要な資産(と、労働バッファーストック)を
提供しようといっているだけだ。


と、まあ、そんな話をだらだらしていたのでは
いつまでたっても、K & O 論文へ進めなくなってしまうので、
今日はこの辺でおしまい。。。。


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