ワニなつノート

トラウマとフルインクル(その98)


トラウマとフルインクル(その98)



《心の中につくりだされる地図》




幼少期につくられた「心の地図」によって、私たちは人との関係の方角を測っているらしい。

人に何を期待できるか、誰が味方で、誰が危険か。
そういうことを測る地図。

その地図はまた、親しい人や顔なじみの人がいることが、自分の喜びや慰めや希望につながっている経験をするための地図でもある。


他人との距離感、のための地図であるだけでなく、一緒に遊んだり、歌ったり、ご飯を食べたり、掃除をしたり、変顔を見せ合ったり、ハグしたり、ボール投げをしたり、そんなことの一つひとつが、相手とのどんなよろこびをもたらすか、を感じとる距離感を指し示す地図ともなる。


      ◇


「居場所を探して ―累犯障害者たち」で紹介されている高村さんという人を思い出す。


「これまでの人生で幸せだった時期はあるか」と聞かれ、「ない」と即答する高村さん。60歳。


彼を「助けよう」とする福祉施設よりも、「タバコが吸えたら、刑務所でもいい」と聞かれ、笑みを浮かべて「それならいいね」と言う。


「小学校時代は特殊学級。よくいじめられた。…いじめられるのも、母が悲しむ姿を見るのも、同じくらいみじめだった。」


そのことが、彼の「心の地図=人間関係の地図」をつくった。


子ども時代、「いじめられた」体験は、彼の中に、どんな地図を作ったのだろう。
子ども時代、ひとり「分けられた」体験は、彼の中に、どんな地図を作っただろう。

私には、その地図は「同じ地図」にみえる。


「15歳で施設を出て、工事現場や工場で働き始めてからも、さげすまれた。『なんでこんなこともできないんだ』と小突かれ、真冬の池に落とされたこともある。…」


      ◇


「身体はトラウマを記録する」には、幼少期の経験から作られた地図によって、親密な人間関係を恐れるようになることが書かれている。


「心の中で安心を感じていなければ、安全と危険を区別するのは難しい」

「どうしたら安全に感じられるかを知らなかった」


その言葉は、私には、障害のあることで「いじめられ、疎外されること」も、そこから助けてあげるために、「みんなの中から分けられること」も、同じだと教えてくれる。


ふつう学級で、「いじめられる」ことも「疎外される」ことも辛い。
心の中で安心を感じることができないから。

だけど、「みんなの中から分けられること」も、いじめられるのと同じくらい辛く、疎外される体験そのものである、と感じる子もいるのは確かなことだ。


どちらにしても、心の中で安心を感じることはできない。

分けられた先で、ひとときほっとしても、この社会=娑婆が安全で安心できる場所だということを、教えることはできない。



安全なはずの「障害者のための施設」で「障害」を理由に殺されることもある。
高村さんの刑務所の方がいいという言葉を、「違う」とは言えない。
確かに、刑務所の方が安全ではある。
少なくとも、外から侵入する殺人者はいない。


(№97につづく)




※(引用は、以下より)
「居場所を探して ―累犯障害者たち」 長崎新聞社
「身体はトラウマを記録する」ベッセル・ヴァン・デア・コーク 紀伊国屋書店
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