ワニなつノート

この子がさびしくないように(その15)

この子がさびしくないように(その15)


1920年。
パールバックの娘が生まれた年。

娘が9才になった年に、パールバックは
「永遠の家」を探しに出かけました。
パールバックにその決断をさせたのは、ドイツ人の医師でした。

ドイツ医学の質の高さは有名です。
1901年から1939年の間にドイツの科学者は
ノーベル医学賞を8回受賞しました。
世界最多でした。

そのドイツ人の医師は言いました。

「奥さんに申し上げますが、お子さんは決して正常にはなりません。
アメリカ人はみんな甘過ぎます。私は甘くありません。
…其処にお子さんを置いて、貴女はご自分の生活をなさい」

1920年。
パールバックの娘が生まれた年。
ドイツで重度の障害児の親もしくは保護者200名を対象に
世論調査が行われ、162名が回答を寄せました。その中に、
「医者に障害者の生命を絶つ許可が与えられるべきである」
という提案がありました。

賛成は119名。  反対は47名。

1929年。
パールバックは、娘を永遠の家に委ねました。

それから10年後。
1939年。
優秀なドイツの医師たちの手によって、
障害者への「最終的医学援助」が始まります。

帝国医療ケア施設協会で「支援研究」が行なわれ、
子どもたちは「特別児童病棟」に移送されていきました。

パールバックがアメリカ人だったのは、娘にとって幸運でした。

ドイツに生まれていたら、二十歳のころに、
ドイツの医者から「生きるに値しない」と診断され、
ドイツの子どもたちが「人殺しの箱」と呼んだ
灰色のバスに乗せられたでしょう。


    □    □    □

ヒトラーは1939年の初めに、特に安楽死の問題に関心を寄せた。
ナチス党員からの陳情を受けたのである。

父親が障害をもつ娘の殺人を求めていた。
ヒトラーは自ら、自分の侍医であるブラントに調査させた。
ブラントはライプツィヒの子供の家に出向き、状況を判断した。

「子供は盲人として生まれ、
白痴--少なくとも白痴であるように見えた--であり、
片足と片腕がない」と報告している。

ブラントは見たままに事実を確認し、
ヒトラーは家庭医に安楽死を施すべく伝えるようブラントに命じた。

ヒトラーは両親が罪の意識を持たないよう望んだのである。
「両親がこの安楽死の結果によって、
将来、罪を負っていると感じないようにしなければならない。
つまり、自分たちが子供の死に責任があると両親が感じてはならない」

この「安楽死」の初めてのケースで、パターンが形成された。

その子供が実際に知的障害なのかどうか、関係者の誰も知らない。
あやふやな観察に頼るだけでは、幼い盲目の子供が
知的障害なのか判断するのは困難、いや無理である。

子供が何を希望しているのか、教育や補装具の利用で、
どういった生活スタイルや生産性を持てる可能性があるのか、
誰も尋ねたり、考えたりしなかった。

彼女は「慈悲の行為」として殺された。
両親の便宜と医者の法的保護だけが配慮の対象だった。

このライプツィヒの少女の事例が
医学関係者間で知られるにしたがって、
同様の依頼が他の家族から舞い込むようになった。


       


1940年.ドイツ。

村人は障害者を個人的に知っていた。
修道院は村の一部であり、障害者も同じだった。

近所を自由に歩き回っている障害者がいた。
畑で仕事をしたり、庭の手入れをする障害者もいた。
村人の家事を手伝うこともあった。

午後になると笑ったり、時には歌ったりしながら、
村の店に甘いものを買いに行ったり、
パン屋で菓子パンを買ったりした。

修道女と障害者は村の祭りには必ず顔を出し、
クリスマスとイースターには教会にも出かけた。


……入所者は修道院を去ってバスに乗るのを拒否した。
力づくで一人ひとり乗り込まされた。

…Kは18歳の精神障害の少女でしたが、
バスに連れていかれると分かると、逃げ出そうとしました。
移送関係者二人が力づくで引っ張りました。
少女は手当たり次第にしがみつこうとしましたが、無駄でした。

叫び声はホールに反響して、中庭中に聞こえました。
「ソフィーさん、ここにいたいの。私ここにいたいの……」
二人のごろつきが彼女をバスに乗せてしまってからも、
まだ聞こえるんです。
「ソフィーさん、ソフィーさん、助けて」と。


…引きずられていく女性患者に雑役夫が
「さようなら、またお会いしましょう」と声をかけると、
「もう会うことはないわ。私に何が起こるかは知っているわ」

茫然自失で叫ぶことでしか恐怖を表わせない人もいました。
目を見開き、蒼白になって恐怖で震えていました。
E・sは腕を頭上にあげて「死にたくない」と叫びました。

村の一軒、一軒に、
「さようなら」を言って回った人もいました。

ドアが閉まり、バスが動きだした。
悲しむ村人を残してバスは広場を通って、
通りの向こうに行ってしまう。
広場、玄関前、家の窓に村人は立ち、手を振り、涙を流した。
友人が修道院から死に向けて移送されて行く。


『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』
ヒューG.ギャラファー  現代書館

    □    □    □


そのドイツ人の医師は言いました。

「奥さんに申し上げますが、
お子さんは決して正常にはなりません。

私にはわかります。
私はこのような子供をたくさんみてきました。

アメリカ人はみんな甘過ぎます。
私は甘くありません。

このお子さんは貴女の全生涯を通じて、
貴女の重荷になるでしょう。

このお子さんは決して正確に喋れるようにはならないでしょう。
決して読み書きが出来るようにもならないでしょう。
よくて四才程度以上には成長しないでしょう。

お子さんが幸福に暮らせるところをお探しなさい。
そして其処にお子さんを置いて、
貴女はご自分の生活をなさい。」

……名も知らぬあの人に対する、
私の永遠の感謝は決して消えることはないでしょう。

…………
私は娘が9才になるまで、私のそばに置きました。
そしてそれから、私は彼女の永遠の家をさがしに
出掛けたのです。



『母よ嘆くなかれ』パールバック 
松岡久子訳 法政大学出版局
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