ワニなつノート

hideの講演会報告(その9)

hideの講演会報告(その9)


(A)手に入れたもの

hideが地域の小学校、中学校、浪人生活、高校で手に入れたもの。
「ことば」でもなく、「足し算」でもなく、「ひらがな」でも「英語」でも「日本地図」でもないもの。
一人で着替えることでなく、一人でトイレに行くでもなく、むしろ何一つ一人ではままならないままで、hideが確かに手に入れたもの。
養護学校ではなく、普通学級だったからこそ手に入れたもの。


(B)親の思い

普通高校を受験することや、24時間介助者をつけて「自立生活」をすることに、いつもついてくる「問い」。
「それは本当に、本人の意思なのか? 本人が望んだことなのか?」
「それは親の思いではないのか?」

その問いは、昔から、むかつく問いだった。
「ひらがなも読めないのに、普通学級にいたってしょうがないじゃん」と言われる方がずっとましだった。
「足し算もできないのに、高校に入れるわけないじゃん」
そう言われる方がずっとましだった。

「自分はそんな差別的なことは言わない。ただ、本人の意思を尊重することが大事…」と、いい人ぶっているのが、むかつくのだ。
「本人」も「親」も一つも信用していないくせに、「本人」にも「親」にも、人として一つも敬意を払わずにいる問いに、気づかないその鈍さにむかつく。

「それは本当に、本人の意思なのか? 本人が望んだことなのか?」
「それは親の思いではないのか?」
もし、それがほんとうに、「分からない」のであれば、せめてその「分からなさ」に敬意を持つべきなのだ。
親と子なんて、世界中どこでだって、誰だって、すれ違いがつきものなのだ。それでも、すれ違う思いを超えてそこにある信頼と絆を信じられないなら、たとえ本人の意思や親の思いを知ったからといって、それを大切にすることなどできはしないだろう。

   ◇      ◇       ◇

《森の中のゴリラ》あるいは、《死の間際に心を支えるもの》

以下、(C)~(F)の引用はすべて『こんなときどうする?』徳永進・岩波書店・より。

   ◇      ◇       ◇

(C)街

(65歳、女性、膵がん、多発性肝転移、がん性胸膜炎)
Kさんの主訴は腹痛。綜合病院で精査、化学療法を行なったが効果なく、患者さん自身が在宅療養を希望。希望の理由は、タクシー運転手の夫が病院で泊まり込みの看病をしながら働きに出るのが気の毒で、とのこと。…3月の晴れた日に初めて訪問をした。

ここで思うこと一つ。…在宅ホスピスのよさ、医療者にとってのよさの一つは、患者さんに暮らしの場で出会えることだろう。たとえが適切かどうか分からないが、動物園でゴリラに出会うか、森の中でゴリラに出会うかの違いのような気がする
…広島の娘さんは離婚されていて、…別れた旦那との間に中学2年生の賢二君がいて、Kさんはこの賢二君が大好き。彼が訪ねてくれると笑顔が甦る。

…がん末期の人にとって、一日は変化を生じるのに十分な時間で、一週間も経つと様相はガラリと変わることもある。衰弱が進み、訪問ナースもぼくも家族もが心配した時、Kさんは娘の車に乗り、郊外の大型スーパーへ行き買い物をし、その帰りに、市内の銭湯へ行ったそうだ。
「お客さんが骨と皮の母の姿を見て、びっくりしてましたよ」と娘さん。
「やるう、やりますね、Kさん」とぼくは拍手。
街角の銭湯に、Kさんが普通の顔して湯船につかっている、という光景は森の中のゴリラ推進派としては、頭が下がる。
街にそうした人たちが普通に、みんなといっしょに生活している方がいい。

…数日後の往診。玄関の戸を開けると、返事がない。この時はかつて内科医、今精神科医という若き医者が同行していた。3畳の間の襖をあけるとKさんが暗い部屋に寝ていた。Kさん、灯りをつけようとした。「そのままで」とぼく。暗い部屋の方がKさんは落ち着くように思えた。衰弱はさらに進んでいた。「しんどいですか?」弱音を吐くことのないKさんが「ちょっとねえ」と答えた。「死ぬような気、しますか?」「ええ、なんだか、やっぱりかなあって」。沈黙。暗い部屋、笑いのない顔、重い言葉。ぼくは手を取る。「そんな時が来たら、楽に、眠るように、がいいですか? それとも、奇跡を信じて希望を持って何かをやってみるのがいいですか?」
ぼくは、どっちかなと思いながら「眠るように、でいいですか?」ともう一度聞いた。Kさんはぼくの手を握り返した。

外に出るとご主人が、自分がみていてももう命が残ってないと思う、と言い、ぼくも頷く。
同行の医者は、リエゾン(内科と精神科の連携治療)で病床に呼ばれても、坑うつ剤を出して済ますことが多いような気がする、さっきの場面は、何か違いますねえ、と言った。

Kさんは愛する賢二君が泊った翌朝の五時過ぎに、母、きょうだい、娘たち、そして賢二君に手を握られ亡くなった。

…Kさんのことを思い出しながら考える。…死に直面するから当然大きな恐怖や不安は持続して存在する。心を支えたものがいくつか考えられる。
1・家族の存在
…親しみの存在が死の前では大きな支えの力になる。
2・日常の生活と風景
…病期が進んだあとも街に出た。レストラン、スーパー、銭湯、ごくらいふれた生活動作は、生きることを支えるが、同時に死にゆくことも支える。
病室や家に限定されずに、外の風景を見、雲を見ることは、どんな人の心をも支える。


   ◇      ◇       ◇

(D)道

死がそんなに遠くではなくなったと思われるがんの末期の人に、「何がしてみたいですか」と聞かせてもらうことがある。

「道が歩いてみたいです」
この人は六〇歳過ぎの膵がんの末期の女性だった。…死の前に歩いてみたい道ってどんな立派な道だろうと思い、見てみたいと思ったこともあって、ぼくは車にその人を乗せ家まで行った。
…ごくありふれたコンクリート道で、道端のネコジャラシが風に揺れていた。彼女はその道を歩き、右に曲がり、次を左に曲がり、近所のスーパーへ行った。主人の好きな酒の肴を作る材料を買い、料理した。うれしそうだった。
「主人は酒にバクチに、いろんな苦労を私にさせました。その苦労のことを思ったら、がんの苦労はまだましです」と笑った。
…「道が歩いてみたいです」は。とても印象深く今も心に残っている。「歩く」という何でもないかのような動詞が、いのちの終わりに輝いて見えるということもあるが、さらに言うなら、当たり前のように思える生活動作の全てが、心の不安を和らげるものとして働いているのではないか、と考えさせられる。
  

   ◇      ◇       ◇

(E)声
(75歳、女性、卵巣がん)

スーパーと書いて、そう言えばと思い出した患者さんがあった。
…「家で過ごしたい」という本人の希望で…。
初めて往診して分かったのは、家は小さいスーパーをやっていて、店を通ったその奥に、台所兼居間兼寝室があるということだった。
…レジに座っている御主人はアルツハイマー病とのことで、がんの末期の奥さんとアルツハイマー病の旦那さん二人でやっているつぶれかけのスーパー…。

「死の覚悟ってありますか?」と聞いた時、「もちろん分かってます、卵巣がんですし」とその人は答えた。
翌日は、「夕べは眠れませんでした。頭では死ぬと分かっていましたが、覚悟はと聞かれて、そんな今、今のことだろうかと思うと一睡もできませんでした」。
悪いことを聞いた、と反省。でも、それに懲りずに、また聞いてしまった。
「今まで生きてこられて、このことが自分の生きがいだな、と思われることはなんですか?」
「さあ」と彼女は返事したが、翌日はこうだった。
「生きがいは?と聞かれ、今までそんなこと考えたこともなかったので、何だろう、何だろうと考えてると、また一睡もできませんでした」。

ぼくの質問は睡眠導入剤などではなく、睡眠妨害剤だった。彼女は寝ずに考えたことをこう言った。
「考えました。そして思いました。「いらっしゃい」とお客さんに声をかけてきたこと。「寒いなおばちゃん、これ新しい商品だね、おいしい? まからん?」とお客さんが言い、「少しならまけときますよ」と答えたこと。お客さんに声をかけ、お客さんの声を聞くこと、それが私の生きがいだった、そう気が付きました」

卵巣がんの末期の女性から大切なことを教えられた。彼女は木製のベッドに寝たきりとなっても、お店に来るお客さんの声を聞いていたのだろう。ひょっとすると子守唄のように、スーパーでの日常会話を聞いていたのかもしれない。
声をかけ、声を聞く。そのことが、がんの末期、死が近くにあるにもかかわらず、彼女が狂気に至らず、彼女の中に平常心が保たれた大切な要因だったのではないか、と思える。
 

   ◇      ◇       ◇

(F)船
(62歳、男性、胃がん)

…二人は病院の喫煙室コーナーで知り合いになり、なんでもしゃべりあう友だちになったそうだ。「お前も胃がんか、俺も胃がんだよ」「ホスピスって知ってるか? 俺、今度そっちへ移ろうと思う。お前もいっしょに行かんか」「ぼくも行くわ」、というようなことで友連れ入院という、ちょっと変わった形態の入院となった。

Kさんの友人が先に亡くなった。その知らせをナースから聞いたKさんは男泣きに泣いた。数日後、カンファレンスルームで、鋭い目をして語った。
「頭では奴も死ぬ、俺も死ぬということは分かっとったですよ。でも奴がほんとで死んで、俺もほんとで死ぬんだ、って本気で感じた。この感じ方は初めてでした。なんとも言えん恐怖が湧きました。全身身震いしました。不安で不安で、震えて震えて、一睡もできませんでした」
死への恐怖をKさんはありのままに話した。

抗不安薬を投与すること、睡眠薬を投与することは考えなかった。ただ、その恐怖と不安を聞くだけだった。数日が経って、ぼくらが思いついたのは、天気の良い日に、Kさんを元の職場に連れていってあげることだった。…介助なしでは立てず歩けずのKさんを、奥さんといっしょに車椅子に乗せ、車に乗せ、目的地へと走った。
…Kさんの仕事は渡船業。釣り客を近くの島へ運ぶのが仕事だった。海を見るとKさんの顔が少し変わってきた。

看護師とぼくとケースワーカーでKさんを車椅子のまま、波で揺れる船に移した。船は港を離れ、日本海へと出発した。向こうに鳥取砂丘が見える。左へ旋回すると遠くに雲に隠れる大山が見える。波しぶきが飛ぶ。
「これくらいのうねり、まだ可愛いもんよ」とKさんは元気にしゃべり出した。船長に何かと指示を飛ばす。
「先生、看護婦さん、これ、しぶきが飛ぶから」とバスタオルを一枚ずつ手渡してくれた。気遣いが戻る。顔も口調も別人のようになる。病人が海の上で健康者に戻っていく。この現象は何だろうと思った。
30分のクルーを終え、陸に上がり、再び病室に戻り、まるで日なたぼっこをした子供のようになってKさんは眠り続けた。二日後に他界されたが、海の上のあの表情のことを改めて思い出す。

日常生活の動作、生活の場の光景、風景、その周辺の空気が、その人の不安を大きく減らし、その人が心の深い病へと落ちていくことを防いでいると思う。

……

日常動作が心を支える場面を思い出すままに記してみた。心を支える一つの力は、日常生活動作、つまり身体からの信号にある。
ヨガや気功や太極拳という身体動作をさらに簡素に深くした方法もあるが、そこに至らずとも、ありふれた身体動作の重なりが、不安を支えていくことになるのだろう。
 

   ◇      ◇       ◇


上記の(C)(D)(E)(F)に書かれていることが、私の中では(A)の「hideが手に入れたもの」の答の一つです。

本人にとっての、「膨大な量の観察学習」がそこにあり、「見るべきものはみんなみせてきた」、と言える親の思いがそこに重なります。

死にゆく人の心の支えになるもの。それは、子どもや若者にとって、生きること、生きていくことそのものを支えるものに違いありません。
hideが、いま街の中で、介助者に支えられながら、小学校から高校まで生きてきた日常の延長を生きている姿そのものが、hideが「普通学級で手に入れてきたもの」そのものを現わしています。
(つづく)


追記 
昨日、hideのお祖父ちゃんが亡くなりました。
hideとhideのお母さんを見守り続けてきたお祖父ちゃんのご冥福を祈り、合掌。
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