ワニなつノート

夏休みの読書感想文(1)

夏休みの読書感想文(1)

『居場所を探して』
(長崎新聞社「累犯障害者問題取材班」)



《刑務所も社会も「同じ」》

刑務所と社会が「同じ」ものだと、分からせること。
刑務所も社会も、そこで「人間が生きている」。
人間はどこで生きていても人間であることに違いはない。
刑務所でも友だちはできる。
刑務所にも信頼できる仲間はいる。
大切なのは人間と人間が出会うことだ。
刑務所も社会も、友だちも仲間も、生きることも、「同じ」なのだから、
ことさらに自分の運命を嘆かなくていい。
…そのことを、骨の髄まで叩き込むことを、教育の成果とよぶ。
それが、この本を読むと分かる。


「ここはいいところだ、ずっといてもいい」
「刑務所を出て、社会に戻るのが怖い」


刑務所と社会は、「同じ」…か。



『人間として生まれてきたということを知ってほしい。
知っていただくためには人様と会いたい
願わくば人様と縁を結んで生きていることを確かめ合いたい
そのことを喜びにしたいという願い』

大丈夫、刑務所でも人様と出会えるから。
刑務所も社会も、「同じ」。
刑務所にいる人間も、「人間として生まれてきた」。
刑務所にいる人間同士こそが、お互いが「人間として生まれてきた」ことを、外の社会の誰よりも知っている。
あなたが、「人様」に出会いたければ、「娑婆」よりも、「刑務所」の方に出会いと幸福はある。

「俺ね、これまで生きてきたなかで、ここが一番暮らしやすかったと思っているんだよ」


ほら、刑務所も社会も、「同じ」だ。

「人様と縁を結んで生きていること」を、刑務所で初めて感じた人間がいる。
刑務所こそが、人様と縁を結んで生きることを確かめ合う場所だった。
「にんげん」がそこにはいた。
社会にはいなかった「にんげん」がそこにはいた。

刑務所で人様と出会えた人は、刑務所と社会は「同じではない」と思うかもしれない。
むしろ、社会より刑務所こそが、「人間の生きる場所」だと知ったのだから。
わたしが人間としてうまれ、人間として生きている縁を結びあう仲間がここにいる。
お互いに出会い、生きていることを確かめ合う日々がそこにある。
その生活の確かさ、お互いがお互いに認め合い確かめ合う日常を、「喜び」とする「にんげん」と出会う場所。
それこそが、わたしという人間の居場所である。

「刑務所は安心。外は緊張するし、家は怖かった」

あなたたちのいう「にんげんの社会」に、私の居場所はなかった。
わたしは人間の社会の仲間ではなかったのか。
わたしが人様と、人間として出会うことはなかった。
わたしは人間に生まれたのではなかったのか。
いや、ここに私の「社会」はあった。
わたしの人間の社会は、ここにあった。
小さいころから、親や先生が教えてくれたことは、こういうことだった。
子どものころは、バカだアホだと言われて、自分でも勉強が分からなくて、先生が何を言っているのか分からなかったけど。
大人になって、ここにきてようやくわかった。
先生たちがわたしに「教育」しようとしたのは、そういうことだった。
ここにきて、そのことがようやくわかった。

わたしの居場所は、みんなと同じ場所にはないものだった。
だから、私はみんなとは別の場所で、人様と出会い、友だちと出会えるようにと教えてもらってきた。
子どものころはわからなかったけど、ようやくみつけることができた。
わたしの人間の社会は、ここにあった。


    ◇


…人間の一生をかけて、心から、そういう人生の答えを出す人がいる。

この社会は、そういう答えを出すように、一部の子どもたちを、分けて、分からせていく社会だった。

いまは
いま この社会は何が変わり、何が変わらないのか…。

コメント一覧

yo
岩ちゃん、神奈川の母さん 
コメントありがとうございます。

ブログも長く夏休みしてたし、最近、集中して考えることができなくて。
自分の感想文ということにして、まとまらないまま書いたのですが…、岩ちゃんには見過ごせないテーマでしたね。

お二人のコメントに、きちんと返せる言葉が見つかりませんが、自分の思いを「感想文」の続きにしてみました。






神奈川の母
やっぱり分離教育の罪は大きいと思います。
当市の場合は、小学校では統合的教育を行っている学校もあるらしいですが、私の知るところでは、「特に中学校」=「中学校以降」が問題で…
高校受験に向かうか向かわないかで、子どもたちの世界は完全に分断されてしまいます。交流はうわべの付き合いに過ぎず、「心の付き合い」では「分断(された世界)」です。
ですから支援学級の子どもは支援学級の子ども同士でしか友達になれません。たまに心の綺麗な子が仲間になってくれますが、そういう子は希少、滅多にいません。そして、そういう付き合いかたは「もちろん」卒業後も引き続きそうなってしまう。
先日、中学校支援学級から支援学校高等部へと進んだ若者二人(学年は違う)から我が家あてに法に触る内容の電話がかかってきました。もちろん私は彼らを注意し諭しました。
彼らの人間関係、どうなっているの?と思い、私は二人が卒業した中学校の支援学級の先生に当件を相談し色々と話ししてみたら…
その先生は障害のある大人の人たちとの付き合いは全く無いとのこと。
このような方が中学校支援学級卒業後の進路指導を行っておられるのだと知って驚きました。

障害の有無により高校受験を原因として生きる(学ぶ)場や、心の中までをも分断されてしまう…このようなシステムが続く限り障害者は蚊帳の外の世界に生きることになるのでは??分教室というのも酷な制度では?私の目にはアパルトヘイトに映ります。
岩ちゃん
この本の中身を知らないのでネットで検索したら、
書評に⇒http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20121217-OYT8T01162.htm
「私たち社会全体の問題として考えて欲しいという熱意が伝わってくる一冊である。」
と書いてあった。

私たちは、何を「社会全体の問題」としなければならないんですかね~?

「自閉症を伴う重度知的当事者は、入所施設で暮らす方が、本人自身が安定した生活ができる」と入所施設の必要性を訴える。

果たしてそうなのか?

当然、世の中には「障害者」の存在を否定する人たちがいる。
しかし、決してすべての人が「障害者」の事を否定しているわけではない。

人の善意で世の中渡っていけない事は当然。
でも、ほんの少しの善意があれば十分という事もある。

ようは、その人の周囲にどれほどの人がどういう形でいたかという点。

「触法障害者」なのか?
「法に触れた仲間」なのかでは大きく違う。

では何が違うのか?
ブログを読んであれこれ考え中です。
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