《5車線の対話》(その2)
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ようやく、「5車線の対話」の方法が分かりかけてきた。
たとえば、【何が起こるのかは分からない。それなら、後からついていく】という考えが、どこからか降りてくる。その声に、私の5車線の根を重ねてみる。
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《1》【何が起こるのかは分からない。それなら、後からついていく。】
「5車線の対話? 誰と?」
「まず自分とのつながりを」
「自分と?」
「そうじゃないと、誰かとつながっても、相手とつながっているのが自分じゃない誰かにすり替えられているかもしれないでしょ」
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《2》【何が起こるのかは分からない。それなら、後からついていく。】
だって自分に分からない《正しさ》を、相手に押しつけても、「いまここ」は安全にならない。
「安全な明日」なんか、来るわけがない。
《3》【何が起こるのかは分からない。それなら、後からついていく。】
分からないのは、私。説明できないのは、言葉で。
「この子がここに居る」確かさは知っている。
知っている?誰が?言葉が?
私の身体が知っている。
「居る」ことでつながっている。
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《4》【何が起こるのかは分からない。それなら、後からついていく。】
この子にはいつも笑っていてほしい。
この子も、私に笑っていてほしいと願っている。
泣きたくなる気持ちに蓋をするのは、相手が笑顔でいてくれるうれしさが勝つから。
「辛い気持ちをなしにすること」が、本当は相手を悲しませることになるのは、後から分かること。
この子の後からついていくことで、季節の後に分かってくることがある。
いくつも季節についていくことで、1年後、10年後、百年後に分かることがある。
「人は死んだらどこへいくのか?」
空へ、土へ? 大切なつながりのなかへ。
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《5》【何が起こるのかは分からない。それなら、後からついていく。】
「間違い探し」はしない。それより「後からついていく」。
探す間違いが何かも分からないから。
ただ、この子が「ここに居る」ことは間違いでないことは分かっている。
分かっている?どうやって?
私とこの子のつながりの根によって。
そう、居ることと居ること。身体と身体。笑顔と泣き顔。泣き顔と笑顔。声と声。目と目。
ね、言葉じゃない。脳だけじゃない。コミュニケーションの前に、「コミュニオン」がある。
お互いの「居ることのつながり」の安全領域がある。
その「つながりに鍵をかけない」ことをアクセシビリティという。