ホームにはまだ本棚を置いていないので、時々、家に帰ったときに、何か一冊適当に引っ張り出します。
昨日は、川端利彦さんの「『ひとりひとりの子ども』を手にしました。
ふと、開いたページにあった言葉。
「子どもが自分でできるようになるということと、できるようにさせられたのとではまったくちがうということです。」
これも、いやというほど「分かっている」つもりで、人にも偉そうに言い続けてきたことでした。
でも、ホームの仕事を再開して、次々と子どもたちを「引き受けて」、
その子のこの先の人生を「頭で考える」と、何か焦りや不安のような落ち着かないものがあるのが分かります。
こう書いて、二つ勘違いに気づきます。
「引き受けて」と、思うのが一つ目の勘違い。
学校でも、親であっても、子どもの人生を「引き受ける」なんてできないのだから。
私にできるのは、「学校」でも、「親」でも、「ホーム」でも、子どもが自分で自分のみちをいくことを邪魔しないこと。
二つ目の勘違いは、「言葉」や「頭」で考えても仕方のないことを、考えるから、落ち着かなくなる。
答えが見つからないことが、不安なのではなく、答えのない「問題」を、ばかみたいに考えようとするから、迷路にはまる。
就学相談会で、普通学級か特別支援教育かを、迷う親に、私がいつも言っていることでした。
川端さんの本は次のように続きます。
◇ ◇ ◇
「子どもがよくなるってどういうことだろう、要するにおとなが期待するような子どもになることにすぎないのではないか」
「お父さんやお母さんや先生が気にしたり心配するようなことを、子どもがしなくなり、ちゃんということを聞き、いわれたとおりにし、期待に応えていろんなことができるようになる、それが『世間一般』にいう『よくなる』ことの実態だといってもいいでしょう。」
「…私はそれに賛成できません。なぜなら、そこでは子どもの自発性や自我の力といったものが、さらにいえば子どもの心の問題や人間性がまったく無視されているからです。」
「私は、子どもが自分の力で自分の行動をかえることができるようになり、みずから成長をのりこえる力をもつようになることが、よくなることだと思っています。ですから、治療や訓練といっても、大人が機械をいじるように子どもをかえることではなくて、子どもが自分の力で自分の行動をかえ、みずから成長を乗り越えようとするのを助けるのが治療であり訓練だと思うのです。」
「子どもが自らの力を発揮するのをさまたげているもっとも大きな要因は、『よくなる』ことの意味をまちがえてしまっている大人自身の見方にほかなりません。」
『ひとりひとりの子ども』
川端利彦 編集工房ノア
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そう、何かがうまくいかないときには、私が何かの意味をまちがえてしまっているからなんだろうな~と、それはよく分かります。
今まで、そうじゃなかったことがないから。
さてと。(o|o)