ワニなつノート

鉢植えの自信(その12)


鉢植えの自信(その12)


「あなたこそ、差別しているのですよ」
そんなふうに言われると、心は守りに入ります。
「そんなことない!」
「差別なんかしていない!」
そう自分で思いたがります。
「差別していない」アリバイを探そうとします。

     ☆

大学を出て最初に勤めたところは、小学校の特殊学級でした。
1年生が1人、3年生が3人、
6年生が1人、みんなで5人の学級。

学期途中で、「こんな荒れる子はみれない」という理由で、
市内の他の特殊学級から5年生の男の子が転校してきました。
それから他の小学校の普通学級4年生の子が、
週に二日「通級」してくるようになりました。

7人の子どもたちと1年を過ごしました。
子どもたちとのつきあいは楽しかったなー。
いまもつき合いが続いているのは一人だけですが…。

普通学級との「交流」もたくさんあって、
昼休みには普通学級の子どもたちが20人、30人と
遊びにきて、教室は子どもたちであふれていました。
そういえば、その中の6年生の女の子二人は、
今もつきあいが続いています。

子どもたちとのつきあいは、特殊学級の子どもとも、
普通学級の子どもとも、楽しいことばかりの一年でした。

でも、特殊学級という存在、学校の中での位置、
通級という仕組みと子どもの心に、迷いばかりがありました。
特殊学級でも手のかかる子が追い出されること。
その「暴れて手のつけられない」と言われた子どもが、
目の前で日に日に穏やかになっていく姿。
「荒れる障害」を口実にする教師が、
その子を暴れさせたのは明らかでした。

また週に二日「通級」してきた子どもは、
集団生活に「適応」できるように、
そこでがんばればがんばるほど、
帰りたい普通学級の居場所はなくなっていきました。

普段は障害児学級に理解のある顔をしながら、
運動会では、特学の子の出番を減らそうと画策する先生たち。
組み体操では特殊学級の子どもを一番端の目立たないところに
置いておこうとする先生たち。

9月の運動会のころから、私は37~38度くらいの熱が
続くようになりました。
初めはいろんな検査もしましたが、原因不明なまま半年続きました。
特殊教育の中に居続けることが、
当時の私にはできなかったようです。
学校を辞めたとたん、熱は下がりました。

     ☆

いろんなことはあったけれど、
いま、これを書きながら分かることは、
私に「鉢植えの自信」しかなかったことが、
一番の理由だったような気がします。

私の自信。それはいつも「鉢植えの自信」でした。
根っこがないからいつもフラフラしている。

「分けられる」痛み。
「分けられる」ことで、子どもが感じるもの。
「分けられる」こと。
その後どんなに「できること」が増えても、
それはいつも「鉢植えの自信」でした。

「あんたは、いっつもそうなんだからァ!」
いつもそう言ってくれる、酔っぱらいのRieさんは、
私よりも、私のことをちゃんと見ていてくれたのかもしれません。

本当は自分のままでよかったのだと。
でも、大人になってからそんなこと分かっても、
8才の「本当の自分」がどんな自分だったのか、もう分かりません。

     ☆

そのころ、「本当の自分」とかいう言葉が気になっていて、
石川先生に聞いたことがあります。
「本当の自分ってどういう自分なんだろう?
どうしたら、どれが本当の自分とかって、
自分で確かめることができるんだろう?」

そんなことを一生懸命聞いたのに、
石川先生はにこやかにいつもの調子で、
「うーん…、それはね…」となんだか違う話になったような…。
その時はちゃんと答えをもらった気がしませんでした。

でも、20年以上前の、小田急線の電車の中の会話を、
いまも覚えていて、こうして書けるのは、
あのとき、何かの答えを、ちゃんと受け取っていたのでしょう。
いま言葉にするとこんな感じです。

「今の自分は本当の自分じゃないと思う自分も、
本当の自分を探したいと思う自分も、
これが本当の姿だと気づいた後に、やっぱり違ったと思う自分も、
そのどれもが、本当の自分なんじゃないかな~」と。
(^。^)y-.。o○

     ☆

東大の会や、この会で、子どもたちのことに
一つひとつ向き合う中で、
私は確かに何かを取り戻してきました。

『どろろ』だったのだと思います。
百鬼丸が妖怪を一体倒すたびに、
奪われた身体の一部を取り戻すように、
8才のときに私が失った身体の一部、
自信の根拠を取り戻す闘い。
関係の一部を取り戻す闘いだったのかもしれません。

「鉢植え」ではなく、
「大地」に根付く根っこを取り戻すために。

「妖怪」は、子どものころに恐れた、
「障害のある青年」だったのではなく、
その「障害のあるふつうの青年」を、
「人間でないように感じさせた」世間の方でした。

人間の子どもを、人間でないように見、扱う世間こそが、
私の戦うべき妖怪だったのです。

ところが、私はあの「青年」の側に分けられることを恐れました。
あの「青年」を「人間でないように感じさせた」世間に
適応できるようにがんばってがんばって、
「分けられない」ようにしがみついてきたのでした。

そう、私は「差別する学校」に適応することで、
そのなかで「できる」にしがみついてきたのでした。
その私が、「私は差別していない」なんて、言えるわけがないのです。

     ☆

私は出会ってきた子どもたちに、それを教えてもらいました。
知ちゃんやたっくんや康司やてっちゃんや朝子や
ゴクミやえみちゃんや…、秀や興ちゃんや天ちゃんや
やっちゃんやナオちゃんや翔ちゃんや…、

彼らの「兄姉弟妹」である、たか坊やヒロシやのんちゃんや
だいごやさくら…、あきこちゃんたちから、

子どもに「障害」のあること、
兄妹に障害のあることは、ひとつも恥ずかしいことでもないと、
隠さなければならないことでも、なんでもないと、
私はそう子どもたちに教えてもらってきたのでした。

     ☆

今日は思いつくままに書きました。
いつもなら中身を整理して、いくつかのテーマに分けて
書くところですが、今日はこのまま入れてみます。

「あなたこそ、差別しているのですよ」
そう言われて、「そんなことない!」と、
アリバイを探す自分の姿。
それこそが、「差別」してきた自分の証明でした。

(つづく)
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