この子がさびしくないように(その17)
「ドイツの医者」という文字で、
安積さんの本の一節を思い出しました。
□ □ □
宇宙が1歳のときに右足の内反足
(足首から先が内向きに曲がり、足底が内側に向いている状態)
を診た医者の言いぐさを考えるつづけるなかで、
私たちに行なわれる手術の虐待的なありようが、
よく見えてきたのだった。
「こんな足は、ドイツの医者なら、
ヘソの緒を切るまえに手術してまっすぐにしてしまうものだ」
その医者はこう言い放ったのだ。
そのとき私は、毅然と、しかしできるだけやさしい調子で、
「本当に、そうされないでよかったです」と言って帰ってきた。
その医者は私たちの障害を専門とする『名医』と聞いていたが、
それ以後は二度と会っていない。
◇
…私の初めての手術は6歳のときだった。
…麻酔なしに手術をするのは考えられないから、麻酔をする。
しかし、麻酔で殺されてしまう痛みの感性が、
その後の人生に大きな混乱をもたらしている。
痛いと叫びつづけるからだを、痛くないのだと思わせる数時間・
そして麻酔が切れると、まるで麻酔をしたことの報いかのような
激痛が襲ってくる。
…目が覚めてからの痛みはすさまじく、
「痛い、痛い!」と言えば言うほど、
一日9本の注射が一週間ちかくも続いた。
そうした激痛の時間を経て、私は見返りに何を得たのか。
恐怖と混乱でしかない。
◇
12歳のころから私はしばしば、側彎のため
背骨に耐えられないほどの激痛を覚えた。
あまりの痛さで目まいがし、
胃のなかが空っぽになるほど吐くこともあった。
レントゲンで見てみると、背骨が圧迫骨折していた。
医者はもちろん、手術をしようとした。
それを知って、私は、恐怖に心臓をわしづかみにされたような気がした。
当時、私は療育施設にいたのだが、同じ施設に、
自分がされようとしている手術を受けて失敗し、
寝たきりになってしまった人がいたのだから。
そんな当たるも八卦、当たらぬも八卦のようなものでしかない治療を、
技術とか手術とか呼ぶのはおかしい。
あれは、まさしく拷問以外のなにものでもない。
結局、ぜったいに手術は受けないと断固拒否で押し通し、
鎮痛剤も断った。
すさまじい痛みに襲われたときは、
とにかく横になって痛みをやり過ごすようにした。
13歳の冬に施設を出て家で暮らすようになってからは、
母や妹にマッサージをしてもらったりもした。
◇
苦しむ私を、母はいつも全身全霊でかわいそうに思い、
心配し、なんとかラクにしてやりたいと気をもみ、
背中をさすりつづけてくれた。
…そして、母の心配や不安が私のなかに逆流してくる。
「ああ、痛くてたまらない。つらい、しんどい。
まったく、いつまでこの痛みはつづくんだろう。
私はどうなるんだろう。
お母ちゃんもあんなに心配している。
だけど、心配顔なんてもう見たくない…」と
どんどんどんどん怒りがつのる。
そのあげくに、マッサージをしてくれている母や妹に、
「へたくそ!」
「まだまだ。もっと続けて!」などと八つ当たりした。
親の不安や心配を押しつけられたくない、
私がどんなに痛がっても、
親にはニコニコしていてほしいと、いつも思っていた。
それなのに、母親になった私はいま、娘の宇宙に、
ときどき自分の母と同じことをしているようだ。
彼女が骨折したりすると、「どうしよう、どうしよう」という
不安や心配が私のなかであふれ、
それが表情や態度に出てしまうらしい。
そのたびに、宇宙はプンプン怒る。
「心配ババア」とまで言われてしまった。
「大丈夫って口では言ってても、
『どうしよう!』って感じが見え見えで、
ちっとも大丈夫とは思えない。もう心配しないで!!
私は痛くてたまらないのに、遊歩は心配ばっかり。
心配ババアのことばはきもいよ」
それでも、宇宙がそうやって、
私に怒ることができるのは、うれしい。
『いのちに贈る超自立論』安積遊歩 太郎次郎エディタス
□ □ □
「心配ババア」って言葉、好きだな。
「いい言葉」=「いい関係」だなぁと思います。
私もそんなふうに、「心配しているとき」に、
娘に怒られたことを思い出します。
今日は、今年4回目の就学相談会でした。
子どもを分けないこと、兄弟を分けないこと。
地域の子どもたちと分けないこと。
子どもたちが希望や期待を胸に抱いて、
親から離れていく社会への一歩としての学校。
そんな話をしながら、私たちはただ、
子どもの気持ちを聞きたいと願っているだけのような気がします。
子どもが、うれしかったこと、たのしかったことを
笑顔で話してくれると、とてもうれしくて幸せな気持ちになります。
そして、傷ついたこと、さびしかったことを、
泣き顔で話してくれるのも、親だからこそ聞けるのだと思えば、
それも幸せなことです。
一人で抱えきれない怒りをぶつけてくれることさえ、
子どもにとって安心して文句のいえる親でいられると思えば、
うれしいと思えます。
そうして、子どもの声を聞きながら、子どもの表情を感じながら、
子どもの遠慮や気がねを笑い飛ばしながら、
私たちは学校くらい、子どもたちみんなが
安心できる場所にしたいと思います。
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