ワニなつノート

この子がさびしくないように(その18)

この子がさびしくないように(その18)


私たちは、自分自身の不安、不信、恨みを、
どこかで、子どもたちにぶつけ返したいと
願ってしまっているんじゃないだろうか。
子どもの時に理不尽な扱いを受けた屈辱、
尊重されなかったうらみを、持ち続けているんじゃないだろうか。

無力であることは怖いから、無力であることを憎んでしまう。
無力な自分。がんばれない自分。ちゃんとできない自分。
もちろん、人並みにできていて、がんばれていて、
ちゃんとできているときには、そんなに問題はないのでしょう。

でも、自分自身が、できなくなったり、がんばれなくなったときに、
「できない自分」「がんばれない自分」を大事にするやり方を、
私たちは知りません。

そうした話を聞いたことがありません。
親からも先生からも、教わりませんでした。
誰も、そんなこと、言いませんでした。
そんな生き方があることを、知りませんでした。

そんなことはあり得ないから、
だから「がんばらなければいけない」のでした。
そんなことはあり得ないから、
必死でできるようにならくちゃいけないのでした。
そんなことになったら「終わり」だから、
必死でがんばってきたのです。

でも人は、どうにもならない壁にぶつかり倒れたとき、
そこが「終わり」でないことを知ります。
どんなに苦しくても、「終わり」ではありません。
「ああなったら終わり」なら、苦しまなくてもいいはずなのに、
そうではありません。

がんばれない自分を大事にする方法を知らなければ、
子どもたちにそれを教えることはできません。
「できない」子どもを、大事にすることはできません。
子どもができないままでも、変わらずに、
大事にすることはできません。

そう、子どもたちにとって、
「あの子が、大事にされる理由がひとつもわからない」ように、
この世は見えるのかもしれません。

できない自分、がんばれない自分、無力な自分、未熟な自分を、
自分で受け止める覚悟と方法を知ることとは、
どういうことなのでしょう。

一人じゃないという実感。
孤独ではないという実感。
がんばれない自分を、
「大事に思ってくれる」人との関係を実感する体験。

何より、子どものときに、そうした「関係」のなかで育つこと。
そのことこそが、子どもの「自尊感情」を育てることになります。
子どもが自分の存在に、自信をもつこと。
自分が生まれ、生きているただそのことに、
まず十分に安心を感じること。
それが、あれば、きっと、あとの人生は
子どもが自分で自分の道を、関係を切り開いていく。

私はそう思うのだけれど、私は毎日、こうして、
何を書いているんだろうと、分からなくなることがあります。



願ってきたことは、
無条件に子どもの側にたちたいということでした。

ようやく私は、無条件に障害のある子どもの側にたつとは、
どういうことなのかと考えられるようになりました。
「子どものため」ではなく、
「障害児のため」でもなく、
ただ「無条件に、障害のある子どもの側に立つこと」。
「無条件で子どもの側にたつ」とは、どういうことだろう。

この子をさびしくさせないためには、どうしたらいいのかと考えること。
この子にはいつも笑顔でいてほしいと願うこと。
そうした私の思いは、「親の思い」であって、
「無条件に子どもの側にたつ」こととは違う。

そうしたことが、ようやくわかりかけてきた気がします。

「できないより、できた方がいいでしょう?」
「歩けないより、歩けた方がいいでしょう?」
「見えないより、見えた方がいいでしょう?」
「聞こえないより、聞こえた方がいいでしょう?」
「がんばれないより、がんばれた方がいいでしょう?」
「未熟であるより、成熟している方がいいでしょう?」

いいえ、私はそう思わないのです。
そう思わない、というより、「そういう問い方」をしなくなりました。

その問いは、ただこう言っているにすぎないからです。
「いま歩ける私は、歩けなくなる自分の姿がみえないし、恐い」
「いま見える私は、見えない世界が分からないし、恐い」
「いま聞こえる私は、聞こえない世界を想像できないくらい恐い」
「まして、見えなくて、聞こえなくなったりしたら…」
「がんばってきたからこそ、今ここにいる私は、がんばれない自分をみとめることができない」

そんなふうに、私は感じるようになってきました。


         


この社会にはまだ「子ども差別」という言葉がふつうに使われていません。
それこそが、子ども差別なのですが…。

    □    □    □

「確かに医学は数えきれない子供の命を救い、
子供の生命の質を向上させてきた。
そうは言っても、医者が患者を無配慮に、
時にはいわれなく、傷つけてきたのも事実である。

ジン、モルヒネ、アヘンチンキをむずかったり、
さしこみを起こした赤ん坊に定期的に処方していた過去がある。
こういった薬物の常用は患者である幼児に良かったはずがない。

19世紀以降、奇形の子供は激痛を伴う
奇妙極まりない整形学的器具の数々に縛り付けられてきた。
こういった器具は頭痛等の痛みを引き起こしたが、
往々にして何の効果もなかった。

精神科医は自分の目前にある証拠を無視し、
小さい子供がウツ状態になることはありえないとしてきた。
そのため、長年にわたってウツの子供は治療を受けられなかった。

外科医は手術でも同じような対応をしてきた。
小は割礼から大は心臓手術に至るまで、
幼い子供には麻酔をかけなかったのである。
麻酔が使える状態だったにもかかわらずである。

外科医は仲間内で、患者の神経は未だに未発達で
痛みを感じることはないと話していた。
しかし、すべての指標は逆を示していた。

患者の呼吸は浅くなり、脈拍は早くなり、
足は必死に宙を蹴り、叫び声が上がった。

…子供への残酷さは形を変えて世界中にあり、
一つの職業や国の専売特許ではない。世界共通である。
幼児は大人よりも一段劣っていると見なされる。
無力で、弱者で、権利を侵害されやすい。
おあつらえの犠牲者である。」 
  

G.ギャラファー

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今日もありがとうございました。
涙が出ます。
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