《これはひとりごと》
23日の相模原でのバクバクの集まり。
かずきくんの裁判のこと。お父さんの報告。
《教育委員会ははじめから養護学校しか考えていなかったこと。合理的配慮など一つも考えるつもりもなかったこと。なぜなら、最初から子どもを「見ただけ」で、ふつう学級は無理と判断したから。
そうしたことが明らかにはなったが、裁判の結果はどうなるか五分五分だということ。》
![yellow20](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ap/yellow20.png)
そうした報告のなかで、「ご迷惑を・・」という言葉が聞こえた。
「??」と思っていると、「もし裁判に敗けることがあればさらに迷惑をかけることになる…」という言葉が続いた。
その場では発言できなかったので、ここで大きな声で書いておきたい。
「迷惑なんて、そんなもん、あるもんか」(・。・)
「たとえ裁判の結果が敗けであっても、迷惑?そんなもん、どこにもない!」
「裁判が敗けるのであれば、裁判所が間違っているだけのこと。裁判の基となる法律が間違っているだけのこと。子どもに迷惑なのは、法律だということがあきらかになるだけのこと」
「迷惑? そんなこと絶対にない。」
「子どものために、ここまで声をあげ、闘い続けてくれた親がいることに、私たちがどれほど勇気をもらい元気をもらっていることか。迷惑どころか感謝しかない」
・・・もし裁判に敗けたら?
そのときは、そこから本当の子どもを守る取り組みが始まるだけのこと。
今までも、これからも、私たちはそのためにここにいる。
![yellow3](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ap/yellow3.png)
ここでも、師匠の松下センセの言葉を思い出す。
「はっきりいおう、ぼくらは裁判長にすら裁いていただこうと考えているのではない。ぼくらが裁くのである。ぼくらが、一回一回の公判廷で直接に九州電力を裁いていくのである。」
そう、法律の前に、いまを生きている子どもの生活があるのだ。
だから松下センセは一審で敗けたとき、「アハハハ・・・敗けた、敗けた」という垂れ幕を掲げたのだ。
「砦に拠る」という作品ではこんな言葉がある。
「お若いの。まだまだ日本の人民は敗け続けるたい。敗けて敗けて敗け続けるたい。ばってん、その敗北の累積の中に刻みつけていったものが、いつか必ず生きて芽を吹くとじゃ」
裁判の結果がどうであろうと、子どもを守る覚悟と行動は続く。
かずきくんが春からみんなと一緒に小学校に通えることを願って(^。^)y-.。