ワニなつノート

近藤益雄さんの詩



この子をひざに


まるたが もえて
うつくしい おきに なるまで
この子を ひざに のせていた
この子は いつか ねむっていた
ゆきが ひそひそ ふっていた



   ◇

その詩は、わたしが生まれた年に書かれた。
「子どもたちとねおきをともにしているわたしの日記みたいなもの」だという。

私が十九のころ、その詩と、その人に、あこがれた。
この世には、こんなひとがいるんだと、思った。

私が四才のころに、その人は亡くなっている。
それでも、この世に、こんな人がいることがわかって、わたしは救われた。
この広い世の中を探せば、こういう人に出会えるかもしれない。
そうおもったりした。

できれば、自分もそんな大人になりたいとおもった。

ただ、その人の仕事は、特殊学級の先生であり、施設の先生だった。
その仕事は私には無理だと思った。
そこは、私が8歳のときから、怖れ、憎み、遠ざけてきた場所だったから。

その人がこの国で初めて特殊学級というものを作った頃、「ちえおくれ」と言われた子どもたちがどんな世界に生きていたか。
その人がどういう思いで、その学級を作り、その子たちとどんな生活を送ったのか。
そのあたりのことを受けとめるには、あのころの私は未熟すぎた。

養護学校義務化に反対で、どの子も地域の普通学級がいいと思っていた私は、次第に、その人の本を開かなくなった。

でも、その本は大切にしまっていた。
本棚にも、心にも。

     ◇


…何十年ぶりかに、その本を開いてみた。

私がはじめて本を手にしたときには、その人はとうの昔に亡くなっていた。
だから私はその人を「はるか昔のおじいちゃん」だと感じていた。

いま、その本を開いて、その人が亡くなったのが57歳のときだと知る。
「はるか昔のおじいちゃん」といまの私は2才しか違わない。

でも、私のなかで、「はるか昔のおじいちゃん」は変わらない。


その人が亡くなる数年前に書いた詩。
わたしが生まれた年に書かれた詩。
その人と、その詩にあこがれていた。

ずっと、忘れていたけれど、
わたしは、このあこがれのまま、自分の人生を生きてきたみたいだなとおもう。

わたしは「ふつう学級」に人生をかけてこだわってきた。
その人は、「特殊学級」をつくり、子どもたちを大切にし、
自分で施設をつくり、子どもたちを引き取って暮らした。

その人が、いま生きていたら、何を感じ、どんなふうに子どもたちと歩むだろう。

そのことを、しばらく考えてみようとおもう。


      ◇


『この子をひざに』(昭和三六年)   近藤益雄


わたしのめを さして


わたしのめを さして
これなあに と とえば
おじちゃんと いう

わたしのみみをつまんで
これなあに と とえば
おじちゃんと いう

わたしのくちを おさえて
これなあに と とうても
やっぱり おじちゃんと いう

そして
ふと
ちいさな こえで
おじちゃん すきよ と
いった

ああ
わたしは しあわせ

   ◇


はるかな子ども


とおくに かえっていった 子どもたちよ

ゆきふかく
ふりつむ夜を
あたたかに
その ちちははに
いだかれて
ねむっているだろうに

そして
そんな夜が
五夜 六夜 すぎれば
また ここに
かえってこねば ならないのに

それも
ちえおくれと いう
さだめのゆえに

ああ
はるかな子どもよ

   ◇


かじかんだ手のために


ちいさな おき火を
けしずみに くっつけて
いきを ふきかけて 火を おこすのは
わたしの おさないころの
しものあさ の ならわしだった
ははの てつだいを する
おさな子の やさしいこころの
しぐさだった

けさも わたしは
そんなにして 火をつくる

とおく おやを はなれて くらす
この子たちの ために
この子たちの
かじかんだ 手のために



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