ワニなつノート

この子がさびしくないように(その21)


この子がさびしくないように(その21)


私たちは、できるかぎりこの子たちを分けたり、
手放しちゃいけないんだ。
少しくらい手がかかろうと。
どんなに手がかかろうと。

そもそも、子どもが生まれてくることも、
生まれてきた子どもも、手がかかるのが当たり前なのだから。
手がかからないことを前提に、子どもを迎える訳じゃない。
なのに、その「手のかかり方」が予想と違うからと、
分けたり手放しちゃいけない。
パールバックは、今の時代に生きていれば、
子どもを手放さずにすんだはずなのだ。

全介助が必要だろうが、呼吸器や気管切開が必要でも、
どんなに手がかかっても、この子たちを手放しちゃいけない。
障害があってもなくても、子どもを手放しちゃいけない。
どんなに一緒にいたくても、死が親子を絶つこともある。
だから、可能な限り、子どもを手放さない。
子どもを分けない。
どんな子どもでも、手放さない。
手がかかるとか、いうのは、コミュニオンがないからであって、
この子のせいではないのだから。

「親も、こんな子はいらないだろう」と、思わせてたまるか。
「こんな子と友だちになる子はいないだろう」
「こんな子がいなくなっても、誰も文句もないだろう」
「何の役にもたたないんだし…」
そんなたわごとに、社会が寄りかかることを許さないために。
そんなたわごとが、多くの人の心だと間違わせないために。
人の弱さがもらすつぶやきを、喜んでうなずき、
誰もの願いと考えてしまう寂しいヒトラーや寂しい人たちに、
つけいる隙を与えないために。

たとえ、社会がいらなくても、誰がいらなくても、
「私」はこの子と一緒に生きる。この子と一緒にいたい。
それも親の思いの自然だろ。

「こんな子には、親もいらないだろう」と、思わせてたまるか。
「こんな子には、友だちもいらないだろう」と、言われてたまるか。
「こんな子は何の役にもたたない」?

そう言われてきた子どもたちが、わたしの仲間であり、
わたしの人生を支えてくれた、
わたしの人生でいちばん私の役に立ってくれた。

「この子を手放さない。この子がさびしくないように」
そのことだけを願って子どもに寄りそって生きた親が
亡くなった時、その思いを引き継ぐために、施設や里親はある。
そこは「分けられた場所」ではなく、
「分けるための場所」でもないはずなのだ。
明治時代に、そこが、間違って始まった。

この子がさびしくないように。
この子を手放さない。この子を分けない。
そのための社会の援助だろ。支援だろ。

それが、子どもを分け、子どもを奪い、子どもをさびしくさせ、
親をさびしくさせて、どうするのだ。

この子を寂しくさせないために。
親を寂しくさせないために。
社会を寂しくさせないために。
人間を寂しい生き物にしてしまわないために。

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