ワニなつノート

この子がさびしくないように(その22)

この子がさびしくないように(その22)


ふいに、ある人の声や言葉が聞こえてくることがあります。
なぜその言葉が聞こえるのか分からないまま、
ただ耳をすましていると、
ああ、私はまたここに帰ってきたのかと思うことがあります。


先月、一人のお母さんが亡くなりました。
まだ幼い二人の子どもを遺して。
私はお会いしたことがありませんが、このブログや
『ハクテン』を読んでくださっていたと聞きました。
二人の子どもは障害のあるふつうの子どもたちです。
その人の思いをずっと思っています。
もう会うことはできないけれど、二人の子どもには、
もしかしたら、どこかで出会うかもしれません。
二人の子どもに出会った時に、
その子がどれほどお母さんに大事に思われていたか、
この子がさびしくないように、
この子がいつも笑顔でいられるようにと、
お母さんが願っていたことを、感じられる自分でいられるように。


石牟礼道子さんの文章を紹介します。
本当は、ブログに引用するのではなく、
この本を手にして、読んでほしいと思うのだけれど。
いまはなかなか手に入らないようです。
なので、どうしても、これだけはここに置いておきたいと思います。

       □     □     □


《いまわの花》

……思い浮かぶのは、水俣病で死んだ幼女が、いまわのきわに見ていた花の色である。桜の時期になると、いつもそれを語らずにはいなかった母親も、娘と同じ病で、去年の夏に死亡した。まだ原因も究明されぬ時期にみまかった娘は、八つばかりであった。

村中の異変と、娘の病状に放心している母親の耳に、まわらなくなってしまった口でいう娘の声が、ふと届いた。

極端な「構音障害」のため、ききとりにくかったが、母親だけにききとれる言い方で、その子は縁側にいざり出て、首をもたげ、唇を動かした。



なあ かかしゃん
かかしゃん
しゃくらのはなの 咲いとるよう
美しさ(いつくしさ)よ なあ
なあ しゃくらのはなの
いつくしさよう
なあ かかしゃん
しゃくらのはなの



母親は、娘の眼に見入った。
「あれまだ……、この世がみえとったばいなぁ」
と思い、自分もふっとどこからか戻った気がした。何の病気だかわからない娘を抱え歩いて、病院巡りも数えきれぬほどして、どこだかわからぬような世の中に、踏み迷っていたような気がしていたのである。

……桜の時期になっとったばいなあ、世の中は春じゃったばいなあ、ち思いました。思いましたが、春がちゃんと見えたわけでもなかですもん。それでも、とよ子がさす指の先に、桜の咲いとりまして、ああほんに、美しさようち、思いよりましたがなあ。

わたしはあの頃、どこにおりましたっでしょか。どうもこの世ではなかったごたるですよ。ここはどこじゃろうかち、思いよりましたです。人の居らすとは、見えとるですけど、人心地は無かっですもんね。

その頃は今のように道も綺麗に出来とりません。雨の降りには、いや雪の降りにも、道のじゅたじゅたして、滑りよりましたが、八つになれば、背負うておりましても、軽うはなかです。忘れもしませんが、まっぽしさん(尋ねごとに的を射るように答える神様)に行った帰りに、雪の降る日に、痙攣の来まして、背中で、躰じゅう突張って反(そ)ねかやるもんですけん、じゅたじゅたの坂道に、親子ながら引っくり返ったですもん。そして下の段の畑にまで転げ返って、茨藪(いげやぶ)の中に。石は上から転げ落ちて来ますしなあ。よう、潰れ死にませんでした、あん時に。

とよ子、とよ子、潰れちゃおらんか、生きとっとかち、背中に言いました。まちっと赤子じゃれば、潰れ死にさせるところでした。八つになっとって、そういう病気になって、親の下敷になって、こりゃ死なせたばいと思いましたら、があちゃんごめん、があちゃんごめんち言うとですもんね、正気づいて。

かあちゃんち言えませんとですよ、口のかないませんもんで。自分の下が下敷きになっとって、があちゃんち、潰れた声で。


あん時死なせずに、よっぽどよかったですよ、桜の花見て死んで。
人のせぬ病気に摑まえられて、苦しんで死んで、その苦しみようは、人間のかわり、人さまのかわりでした。それで美しか桜ば見て死んで。

親に教えてくれましてなあ、口も利けんようになとって。さくらと言えずに、しゃくら、しゃくらちゅうて、曲がった指で。
美しか、おひなさんのごたる指しとりましたて、曲ってしもて。
その指で桜ばさしてみせて。

親は癒(なお)してやれませんでしたて。ありゃきっと、よか仏さんになりましたろなあ、きっと。よかところにきっと往たとると、親は思いたかですよ。人間のかわりに、人さま方のかわりになって往きましたですもん。

わたしは不思議じゃったですよ。この世にふっとあのとき戻ったですもん、死んでゆくあの子に呼ばれて、花ば見て。
どこに居ったとでしょうか、それまでは。
この世の景色は見えとって、見えとらん。人の言葉も聞いておって、聞こえてはおらん。わたしの言葉も、どなたにも聞こえちゃおらんとですもんねえ。ああいう所は、この世とあの世の間でしょうばいなあ。

とよ子が死んでから、自分の躰もおかしゅうなるばっかりで、長うは生きられませんとですもんきっと、同じ病気ですけん。あの子の言葉が、時々聞こえますと、耳元に。

…とよ子は人さま方のかわりになって、人間の負うたことのない荷ば負うて、往きましたが、やっぱりなあ、ふびんでございますばい。まだ八つで。


溝口まさねという人であった。大工をしていた夫は、娘の後を追うように先に死に、さくらの花、というときこの人は、眉根をきゅっと寄せ、いつもうるんでいた大きな黒目勝ちのまなこを思い凝らしたように遠くへ放っていた。かなしみのくれないが、瞼にさして、その顔は美しかった。




『花をたてまつる』 石牟礼道子 葦書房




コメント一覧

10.18
胸が熱くなりました・・・。
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