ホームを始めて一月、今日の午後、「四女」がホームに来てくれます。
私たちは、子どもを「選ぶ」気がないので、問い合わせのあった順番に、ただ待っているのですが、今のところ、女の子ばかりです。
先日、五人目の問い合わせがありました。
その子もまた女の子でした。
必然的に、定員6人のホームは、次のワールドカップくらいまでは女の子だけになるようです(>_<)
新聞記事を読んで、あらためて思います。
私たちは、「だれかの 心の支え」だった子どもを、大切に大切に預からせてもらっているのだと。
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<東日本大震災>
娘2人失った父、悲しみから一歩…石巻
毎日新聞 9月7日(水)0時7分配信
幼い我が子を失った悲しみに終わりはない。
それでも残された人たちは生きていく。
東日本大震災から半年。
10歳未満の子供の死者は約400人に及ぶ。
宮城県石巻市の三條慎哉さん(37)は小学生だった2人の娘を失った。
入居して1カ月がたつ仮設住宅には、同じ地区に暮らした人々が集まる。
娘を知る、生き残った同級生たちの姿が今、三條さんの生きる支えになっている。
【安高晋】
8月下旬の夕暮れ時、北上川沿いに建てられた仮設住宅の敷地。女の子が、集会所前の階段に座る三條さんに近寄ってきた。
「舞夕(まゆ)ちゃんのお父さん、自転車直して」
次女の同級生だった。
「はいよ」。自転車のスタンドを調整してあげると、笑顔で礼を言って走り去った。
◇
小3の長女、葵ちゃん(9)と小1の次女、舞夕ちゃん(7)。
市立大川小に通っていた。
児童の7割に当たる約70人が死亡。
今も4人が見つからない。
あの日、会社が休みだった三條さんは、すぐに消防団の服に着替えて飛び出した。同居する妻の母が「孫が帰らない」と心配する声を遠くで聞いた。同僚とポンプ車で避難を呼び掛けて回った。
目前に迫る津波に気付いたが、すぐに車ごとのみ込まれる。入り江に浮かぶ材木の切れ端を必死でつかみ、水面に顔を出した。
同僚にも、三條さんと同じ小3と小1の2人の娘がいた。「きっと生きてる」。雪が降る中、励まし合って寒さに耐えた。約4時間後、岸に流れ着いた。
翌朝、小学校周辺の光景にがくぜんとする。町がない。学校は廃虚。橋のたもとには小学生くらいの背丈の子供の遺体があった。絶望の中、翌日たどり着いた内陸の集落で、同僚の2人の子が無事だと知る。同僚は声を抑えきれずに号泣した。
俺の子は……。思いを封印し、三條さんは、「本当に良かった」と喜び、同僚を抱きしめて泣いた。
三條さんの娘2人の遺体は、その後相次いで発見された。「うちだけ、すまない」。泣きながら謝る同僚に、言った。「そんなこと考えなくていい。(娘の)同級生なんだ。成長を見るのが楽しみだ。俺の心の支えだ」
◇
消防団が捜索活動を打ち切ってからも、同僚と2人でスコップを担ぎ、現場に通った。「今度は俺が、他の子を見つけてやる番だ」という思いだった。
お父さん子だった葵ちゃん。震災の前の晩、「一緒の布団で寝ようよ」と甘えてきた。それなのに、テレビを見ながら「今日はいいよ」と言ってしまった。小さな願いを、なぜあの日に限って聞いてやれなかったのか。後悔は消えない。
「一輪車を教えて」とせがまれたこと、自分から「習いたい」と言い出したそろばん教室へうれしそうに通う姿……。思い出は今も浮かぶ。だが最近は、2人の声を思い出しづらくなってきた。
◇
走り去った女の子が戻ってきた。「これお礼」。自転車を直してくれた三條さんにビスケットを手渡した。
女の子も、姉を目の前で亡くしていた。母親に「なんで私は生きてるんだろう」と問いかけたことを、三條さんは後から聞いた。
別の子がやって来た。「遊ぼう」。一緒に助かった同僚の娘だった。
地区の子は、みんな知っている。物心ついた頃から娘と遊び、家に送り迎えしてきた。「困ったことがあったら何でも言ってほしい。そして娘のことを忘れないでほしい」
8月下旬、勤めていた製紙工場を辞めた。一緒に暮らし、造船業を営む義父の仕事を手伝うことにした。立ち上がり始めた漁師から船の製造や修理の発注が増えていた。「復興に役立てるなら」
三條さんも、一歩を踏み出した。