2009年・書きかけメモ(その2)
《障害のあるふつうの子どもと、ふつうの親》
子どもはみんなふつうの子だと、私は思います。
でも、「障害のあるふつうの子」という言い方は、
あまりふつうではありません。
あえて、そう言わないと、
すぐに「障害児」にされてしまいます。
「障害のあるふつうの子」
その言葉に慣れていないのは、
言葉だけの問題ではありません。
日常の暮らしの中で、
「ふつうの子」、「ふつうの親」であることに、
慣れていない、からだと思うのです。
そういう「自分」に慣れていません。
そういう「親子」に慣れていません。
普通に社会で暮らしていると、いつの間にか、
「障害児」という「わが子」に慣れてしまいます。
そのことに気づかないうちに染まってしまう環境があります。
この社会では、どこに行っても「障害児」という
まなざしや扱いがついてまわります。
それが「善意」や「好意」であれば、
そのまま受け取るしかなく、
それが「悪意」や「排除」であれば、
抗議をすることもできます。
どちらにしても、そこには「障害児」がついてまわります。
「障害」があっても、この子はこの子。
私の大切なひとりの子ども。
自分ではそう思っていても、
どんなにそれが当たり前のことであっても、
日々の生活場面で、そういうまなざしや扱いをされる場面は、
悲しいくらいに、ありません。
そんな社会のなかで唯一、
この子が「ただのふつうの子」であることを思い出させてくれるのが、
他の子どもたちとの関わりです。
保育園の中で、遊んでいる子どもたち。
はじめは、車椅子とこの子をめずらしそうに見ていた子どもたちが、
『違い』に目を向けるのは最初だけです。
それは「障害児」が気になったのではなく、
ただ「違い」に目がいくのでした。
なぜって、子どもだから。
その違いが、毎日毎日違うままであれば、
子どもはそれをそのまま、
ありのままに受け止める力があります。
分からないことを、分からないまま、受けとめる力。
それは、大人はぜったいに子どもにかないません。
そのとき、「違い」に、
「マイナスの意味」を教えるのは、大人です。
そのとき「違いに」、
「ふつう」の扱いを教えるのもまた大人です。
そうして、子ども同士の間にだけ、
「ふつうの子ども」である「時間」がみえます。
それを見て、その関係を大切にしたいと思う人は、
その子が「ふつうの子ども」であることを、
手放さないでいようと思うのでしょう。
たぶん、障害のあるふつうの子どもが、
ふつうに育つためには、
その前に、「障害のあるふつうの子どものふつうの親」が
必要なのでしょう。
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