ワニなつノート

『受けとめられ体験について』(6)



受けとめることと介助


「できないから介助ではなかった」
何年か前、そう書いた。
「この子の安心が私の安心だから」

私が≪介して≫いたのは、
この子の「私」と、この子たちの「私たち」をつなぐこと。
たとえば、車椅子を押すことで、
たとえば、遠くに逃げ出した子の手を引いて、
みんなのそばに連れてくることで、
この子たちの「私たち」から、この子一人が、こぼれ落ちないように。

この子が、≪私を生きる≫ことが、
≪私たちを生きる≫ことでありますように。

私はこの子の「私」と「私たち」をつなぐ糸になれればと願った。
それが、
子ども同士で≪手をつないで授業を受けること≫であったりするように。
私は、よけいなことをしないで、
この子たちをつなぐ仕事をしたかった。

この子の「私」が、みんなの「私たち」から零れ落ちないように。

私にとって≪介助≫は、そういう仕事だったのだ。

だから、「監視」ではだめなのだ。
自分がいつも全部≪やってあげる」ではだめなのだ。
分かりきったことでも、
本人の気持ちを確かめながらやるのでなければだめなのだ。

時に、周りに迷惑をかけることも、
周りの人たちを巻き込むことも介助の仕事なのだ。
なぜなら、≪人間と人間を媒介する助け≫が「介助」なのだから。

この子のできなさと、
援助が必要なこの子の生活の在り様も含めて「私たちの学校生活」だと、
巻き込み、既成事実を作り上げること、
それがごまかしようのない現実なのだと。

関わりたくないこと、面倒なことを遠ざけて
見ないように関わらないようにさせてしまってはいけない。
そのせめぎあいを通して、築かれる「私たち」が、
この子とこの子たちの≪現実の世界≫になるのだから。

≪人間と人間を媒介する助け≫が介助だという時、
自分が監視したり、代わりにやってあげないで、
他の人を巻き込むことで、
この子を、「受けとめる」ことを、
私ではなく、私以外の人にもやってもらわなければならないのだ。

だから、他の人に、
この子を「受けとめる」ことを、
わたしは「介助」したかったのだ。きっと。

この介助のことも、
「受けとめること」で書き直さなければ。
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