◇
かなこのほっとした顔を見ながら、
八木先生はあらためてクラスの一人ひとりの顔を見渡した。
かなこ。友美。タツヤ。コウタ。
ツバサ。マサヤ。カズキ。ユキ。
ケイ。ユウジ。カエ。ナホ。
リョウタ。アヤ、ミナコ、アミ、
マコ、ケンジ、アズ‥‥。
一人ひとりのそれぞれに、
私の知らない物語がいっぱいつまっているんだなぁ。
なかには、私が考えもしなかった苦労を引き受けている子もいる。
そのことが一瞬、頭をよぎった。
アズと目が合う。
アズとは2年生のときに、半年だけ一緒だった。
そのころ、アズはほとんど学校に来ない子だった。
病気で休むことになった前の担任は、
アズのことを、わがままな子と言った。
八木先生にはそうは思えなかった。
家庭訪問したとき、
「放課後なら遊びに行ってもいい」とアズは言った。
それで、放課後、教室で先生の手伝いをしてもらったり、
時々はいっしょに勉強もした。
アズは思ったよりよくできた。
家で一人でがんばっているのがわかった。
放課後、二人で過ごすことになれた頃、
アズが話してくれたことがある。
「お母さんはアズのことあんまり好きじゃないんだ。
アズのことは何にもしてくれない‥。
でもね、仕方ないんだ。
ユズの方が小さいんだから」
アズのお母さんは病気で長く入院していた。
八木先生は黙って聞いている。
「授業参観だって一度も来たことないし、
運動会だって自分でお弁当作ったんだから。」
その日は珍しくよくしゃべった。
そんなふうに話す子ではないと思っていた。
「お父さんなんて、何にもできないんだから。
タマゴやきくらい作れるっていばってたのに、こがしちゃってさ。
あんなの、恥ずかしくって持ってけないんだから。
だから、ユズの分も全部アズが作ったんだから」
運動会の日、アズが妹と二人でお昼を食べていたのを思い出した。
あのとき、アズはお父さんがくるからと言っていた。
だけど、お父さんは朝、セーラームーンのシートを引いたまま、
仕事から戻ってこれなかった。
ふと、アズが先生をみる。
「ばっかじゃないの。なんで先生が泣いてんのよ」
そう言われて、八木先生はあわてる。
「ごめん、ごめん。
ほら、昨日みんなのテストに丸つけしててさ、寝不足で、
今日も朝から雨だったでしょ」
言い訳になっていない。
「アズは泣かないんだから」
小さなアズが、本当に平気な顔をしていう。
「だって、あたしが泣くとすぐにユズも泣くんだから。
だからアズは泣かないんだ。
だってユズはお母さんと寝たこともないんだよ。
アズはあるよ。
小さいころだけど。」
八木先生は何も言えなかった。
今も十分に小さいアズを抱きしめながら、悔いていた。
「学校には来れないけど、しっかりしてる子」だと、
ただそんなふうにしか感じられずにいた自分が、ただ悔しかった。
◇
「先生、まだつづきはあるの?」
カズキの声で、八木先生は6年3組の教室に戻る。
「うん。あとちょっと。3ページくらいかな。」
「1時間目、終わっちゃうね」
ツバサがうれしそうに言う。
「そうね、じゃあ、算数は5時間目にまわそうかしら」
「えー、だめだよ。5時間目は体育なんだから。」
「そうだよ。おれの生きがいを奪うなよ」
ツバサとタツヤが抗議の声をあげる。
「あら、生きがいなんて難しい言葉知ってるのね」
「当たり前じゃん。給食と体育だけが、おれの生きがいなんだからさ」
「はい、はい。
じゃあ、タツヤくんが生きがいをなくさないように、
算数は次の時間ね」
「えー」
床に倒れたツバサを無視して、先生はノートをめくる。
「あら、またタツヤくんの名前があるわ」
「じゃあ、さっきのはタツヤじゃなかったのかな」
コウタがいう。
「そうね、でも、これも人違いかも‥」
先生がかすかに笑う。
「なに、なに」
「どうしたの?」
先生は笑いをこらえて言う。
「タツヤくんの生きがいって、ホントは人助けだったりして」
「うっそーーー」
子どもたちの声がきれいにそろう。
タツヤがみけんにしわを寄せて先生をにらむ。
先生はその顔がかわいいと思う。
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