ワニなつノート

「ルポ消えた子どもたち」(その6)


「ルポ消えた子どもたち」(その6)

《残念な本 ①》


なぜ、ナミさんは子どものときに助けてもらえなかったのか?

ナミさんの事件について、福岡市の報告書には次のように記されている。


【(小学校1年~2年)
就学時健康診断や入学説明会に来なかったため、学校が家庭訪問するが本人の状況を把握できなかった。さらに入学式も欠席のため、小学校長と教頭が家庭訪問するが本人と面談ができない状態が続いた。
(中略)保護者との面談において、学校に行かせない理由として、「障がいとそれに伴う症状があるため、学校に行かせることができない」という旨の返事だった。
その後学校は繰り返し家庭訪問するが、本人と面談できない状態が続いた。
障がいの有無については、確認できていない。


(小学校3年~4年)
繰り返し家庭訪問するが本人とは面談できなかった。父親と面談の日時を約束しても守られないことが多く、面談できて、就学を促しても「今のところ学校に行かせるつもりはない」という旨の返事に止まり、就学にはいたらなかった。
教育委員会から保護者あてに、児童相談所等の相談窓口を記載した出席を促す督促書を送付した。


(小学校5~6年)
母親とは会えたが部屋に入れない状態が続いた。学校は、民生委員や近所の子どもなどにナミさんの所在を尋ねたが、確認できなかった。


結局、小学校は6年間一度もナミさんの姿を確認しないまま対応を終えた。
なぜもう一歩踏み込んで、彼女を助け出すことができなかったのか。】

       ◇


《問いがずれている》


ここでも、最後の2行に、私はひっかかる。
「なぜ」という、「問い」が、微妙にずれていると思うから。


「なぜ、彼女を助け出すことができなかったのか」という「問い」の前に、大事な問いがある。

それは、「なぜ、小学校は6年間一度もナミさんの姿を確認しないまま対応を終えることができたのか?」だ。


答えは、報告書の最初にある。

【学校に行かせない理由として、「障がいとそれに伴う症状があるため、学校に行かせることができない」】

明確にそう述べられている。
その理由は、教育委員会や学校の先生にとって、不自然な理由ではない。

ナミさんが生まれたのが1988年だとすれば、養護学校義務化から9年。
障害児が地域の学校に来ることがもっとも嫌がられていた時代だ。

ナミさんの母親も、障害児は学校に行けなくて当然という常識の時代に育った、私と同じ世代だろう。

その時代、たとえば家で寝たきりの重度の障害児に、「学校においで」という小学校の先生はいなかっただろう。


だから、「なぜもう一歩踏み込んで、彼女を助け出すことができなかったのか」の問いの、一つの答えはこうだ。

「もしも一歩踏み込んだとしても、その子が重度の障害児であるなら、わたしたち普通学校の教員とは関係がない、という意識=常識があったから」

つまり、そこに監禁されているのが、障害児ではなく、健常児だったなら、
「一歩踏み込んで、子どもが虐待の現状を言葉で訴えることができれば」、
もしかしたら助け出すことができたかもしれない。

ナミさんの場合はどうだったか。
仮に、誰かが「一歩、奥の部屋に踏み込んだ」とする。

そこにいるのは、どんな子どもか。
ナミさんは、「18歳で、身長は120センチ余り、体重は22キロ」とある。
小学生のころはもっと小さかっただろうから、発達の遅れ、とみられただろう。
しかも、トイレにも行かせてもらえない状況であれば、いわゆる「大小便垂れ流し」の重度の障害児とみられる可能性は少なくはない。

踏み込んで、その姿を見たとして、「寝たきりでもいいから、お漏らししてもいいから、みんなと一緒に学校に行こう」と言ってくれる先生が、そこにいるだろうか?


こうした、私のこだわりは妄想だろうか?

「問い」をずらしているのは、私だろうか?

ナミさんのような不幸な子ども時代をおくる子どもがいなくなるために、考えなければいけない「問い」と、私のこだわりは、ずれているだろうか?


(つづく)
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