ワニなつノート

特別な教育でなく、普通の教育を



≪ここにいるべきでないという差別≫

今までの学校に足りなかったのは、
「個別」の対応だっただろうか?

それよりも足りなかったのは、
民主的な「集団作り」ではなかったか。
余計なことをしなければ自然にできる仲間関係を、
分けることによって壊してきたのが学校ではなかったか。

今までの学校に足りなかったのは、
「できる」ように教えてあげる方法だったろうか。

それよりも足りなかったのは、
子どもの成長の時季を「待つ」ことではなかったか。
できない姿の「今」を受け止めることではなかったか。

普通学級に通う障害児の苦しみと悲しみは、
「障害」があることではなかった。
私たちが闘ってきたのは、
「この子はここにいるべきではない」という差別であり、
「普通学級にいても何も分からずかわいそう」
という子ども観だった。

明治以来百数十年の間、
障害児を分けて教育することは、変らずにきた。
その差別の歴史と制度の反省なしに
「特別支援」を足しても、差別はなくならない。

むしろ、「特別支援」という怪しげな言葉で排除が進むだけだ。

「ここにいてはいけない」という排除には抵抗できても、
「この子のスペシャルなニーズを支援しましょう」
を断るのは難しい。

しかも「特別な場所が障害児のため」はこの国の制度であり、
その徹底のために「就学指導委員会」が今もある。
分けることが目的の就学指導委員会がそのままだということは、
これからも特別支援という名のもとに分け続けるのだろう。


≪「みんなバイバイ」≫

「普通学級に障害児はいないことになっている」と
千葉県教委が言い張っていた時代、
現実に普通学級にいる子どもたちの存在を認めさせるために、
私たちが作った本に次のような報告がある。

≪(入学後)しばらくして担任の先生と特殊学級の先生から、
「子どもが特学を選んでいる」
「遅れている勉強を少人数で一人一人に指導してくれる
特学の方が子どものためになる」
「迷っているのはお母さんだけじゃないのか」などと、
たびたび特殊学級を勧められるようになりました。

…専門家の先生のおっしゃるとおり、
…二年生から特殊学級へ通わせるようにしました。
ところが、「子どもが選んでいる」といっていた
楽しいはずの特殊学級の教室にも入っていかなくなりました。

それからまた幾日か過ぎたある朝、
いつものように校門に入っても教室には入ろうとしない子どもに、
「今日は好きな教室に行っていいよ」と言ってみました。
すると、子どもは目の前の階段を指さして二階へ上がりはじめ、
一年生のときの友達のいる二年生の教室に入っていきました。
そして、壁にはってある絵や文字などをゆっくり見てまわっていました。
チャイムがなるとすぐ友だちに向かって
「それじゃ、みんなバイバイ」と言って教室を出てきました。

その時の子どもの寂しそうな顔を見たとき、
「本当に子どもが特殊学級を選んでいたんだろうか」と疑問に思いました。≫
 『千葉県の統合教育2 みんなで楽しも』(1994年発行)

その後もこうしたことが毎年繰り返され、
今も変らず繰り返されている。
「特別支援教育」が始まっても何も変わらない。
この春、松戸市の小学校に入学した男の子は、
「松戸市の普通学級には障害児は一人もいません」と言われ、
なかなか就学通知をもらえなかった。

入学後も執拗に特別支援教育を勧められ、
おもらしを理由に、体育の授業では一度もプールに入れてもらえなかった。
おもらしの理由は、「洋式トイレでしか用を足すことができない」と
伝えてあったにも関わらず、
男子用の便器を利用するよう「個別指導」されていたためだった。
そして一学期の通知表の評価はすべて斜線だった。


≪「先生、バイバイ」≫

また、この10月、Nさんという一人の生徒が高校を退学した。
二年前、Nさんが高校に入学した初日、担任はNさんの耳元でささやいた。
「Nちゃんなんでここにいるの。Nちゃん、養護学校でしょう」
「ここにいない方がいいよ。養護学校行く子なんだね」
その後、担任は母親のところへ来て言った。
「Nちゃんにはいま伝えましたよ。Nちゃん、何で長生高校なんですかね」

その言葉を聞いた時、Nさんはどんなに不安だっただろう。
どんなに寂しい思いをしただろう。
Nさんは、その後病気のため高校を休学した。
16才17才の2年間を、病気と闘い、
ようやく今年4月、高校に復学できることになった。

2年の間、待ち望んだ高校生活。
文部科学省の通達では、
普通高校も特別支援教育を行うことになっている。
病気と闘い、2年ぶりに学校に通えるまでに体力を戻し、
がんばって帰ってきた学校。
しかし、Nさんにとって、
そこに自分の居場所はないと、確認する日々でしかなかった。

7月、夏休み前に東京ディズニーシーへの遠足があった。
学校行事予定表に書いてあったのでNさんは楽しみにしていた。
しかし、担任はNさんにだけプリントを渡さなかった。
直前になって問い合わせた母親に、担任は言った。
「クラスの中でも緊張するのに、
全学年1つのバスに乗るのは無理だと思って、
参加できないのにプリントを渡してもかわいそうだと思って渡しませんでした。」

何とかプリントをもらうことはできたが、母親がプリントを読み違え、
当日は集合時間に遅れてしまった。
母親が電話で、間に合わなかったら車で現地まで送ると話すと、担任は言った。
「バスに乗るところから学習です。乗れなければ欠席です。」
Nさんは電話のやりとりを聞いて泣きだした。

その日、母親はNさんと二人でディズニーシーに出かけ、
自分でお金を払って入場した。
Nさんは帰りも学校のバスには乗らずに親と一緒に帰宅した。

この後からNさんは
「もう高校生おしまいね。」と言うようになった。
そして10月、彼女は退学届けを出した。
これが、「特別支援教育」の始まった県立高校の一つの姿だ。

Nさんは小学校のころ不登校になったこともある。
そして高校受験でも「障害」のために2度も不合格になり、
一度は定員が空いているのに不合格だった。
そうした扱いを受け、一度はあきらめかけた気持ちを立て直して、
やっとの思いで高校に合格した。
そのNさんが入学した日に、
「あなたはここにくる生徒ではない。本当は養護学校にいくべきだ」という担任。

私は思う。
「特別支援教育」なんかいらないから、
ただ目の前にいる一人の子どもに、人間として向き合ってほしい。
目の前で困っている人がいたら、
そのとき、できる範囲の手を差し伸べてくれればそれでいい。
たった一年か数年、学校の場でつきあうことが、なぜできないのか。
入試でも、試験でも、
「知的障害」のある子が「点数を取れない」ことを責め、
その上、障害に関係なく十分に楽しめるディズニーランドの行事さえ、
楽しませまいとする。
そして、「先生、バイバイ。」と子どもに言わせてしまう。

0点だと人生を楽しんではいけないのか。
0点だと仲間と楽しんではいけないのか。
テストの点数は0点でもいいから、
子どもができるはずのことを奪わないでほしい。
それだけで十分だ。

最後に高校に退学届けを出したとき、
これからのことを聞かれたNさんは、
「スタb、がんばる」「せんせい、おうえんしてね」と、
スタジオ仲間と音楽活動をしていくことを先生に伝えた。


≪理解は「いること」で作られる≫

『千葉県の統合教育6・あたりまえにみんなの中で』に、
中学の友人の作文が紹介されている。

≪二年生になって新しいクラスになり、私は初めてNちゃんに出会った。
Nちゃんはダウン症という障害を持っていた。
初めは戸惑いが多かった。
だから、同じクラスになったと言っても話をしたり、
一緒に行動することはほとんどなかった。
そんな中、林間学校という大きな行事がやってきた。
……部屋割りの時、私はもう一人の友だちとNちゃんと同じ部屋になった。
それまでNちゃんと交流がなかった私は、不安と心配を抱えていた。
…しかし、そんな不安はいっぺんに吹きとんだ。
部屋に入るなり、Nちゃんはベッドに上がり、興奮して、騒ぎ出した。
私たちでもやりそうなことを普通にやっていた。
なぜかその時、私は驚きと共に嬉しさもこみあげてきた。
私はその夜、お腹が痛くなってみんなより早くふとんの中に入った。
少しだけ眠ってしまい、何か触られているように感じてふとみると、
Nちゃんがわたしの背中をさすってくれていた。
嬉しかった。……≫              (2004年発行)

高校でも、この先、こうした出会いがあったはずなのだ。
けれど、こんなにも心温かいNさんの居場所が、高校にはなかった。
この作文から分かること。
それは、「理解」は先生が教えるものではないということ。
この子の理解はこの子がそこにいることで作られる。
周りの子はその子とつきあうなかから、自分で感じとる。
先生は、その関係を作る子どもたちを信じてほしい。

先の作文に続いて、中学の担任の言葉がある。
≪初めて出会った1年半前より、
日々の成長を最近は強く感じられるようになりました。
…身近で一緒に活動しているからこそ感じられる日々の変化に、
一喜一憂しています。
戸惑いもありましたが、
喜怒哀楽を体一杯に表現してくれるNちゃんには、
こちらが思っている不安を吹き飛ばしてくれるパワーがありました。
これからどんな活躍をしてくれるかが今から楽しみです≫

何度でも繰り返す。
特別なことはしなくていい。
余計なことはしなくていい。
頼むから、「ただいるだけ」でいいから、
学校のなかに、その「当たり前」を作ってほしい。
普通学級で、普通教育の中で、普通に声をかけてほしい。
普通に手をかしてほしい。
ここにいるのが当たり前と受け止めて、
≪身近で一緒に活動しているからこそ感じられる日々の変化に、一喜一憂≫してほしい。
本当にそれだけで十分だ。
いや、それをこそ、私たちは望んできたのだ。


≪ただの「子ども」≫

私たちは、障害児がいないことを前提に成立してきた
カリキュラムや授業スタイルに無批判に、
子どもを適応させようとは思っていない。
普通学級に通うのは、
そこが子どもの社会であり、
ほとんどの子どもが選ばずに通う場所だから。
そして大人になれば、普通の社会で生きていくのだから。
そこで出会う仲間と、楽しいことも、イヤなことも、丸ごと体験しながら、
この子らしい人生を自分で歩んでいくことを望んでいる。

だからこの子を「特別な存在」にしないでほしい。
私たちは本当に、心の底から、この子たちを「特別」だとは思っていないのだ。
ひらがなが書けなくても、
歩けなくても、
うまくしゃべれなくても、
一人で食べられなくても、
それでも、私たちは心の底から、
この子がここにいること、
同世代の子どもたちと一緒の教室で生活することを
特別だとは思っていないのだ。

強がりでもなんでもない。
親や兄妹と同じただの子ども。
見えない人にとって、
見えない暮らしが日常でふつうなように。
人工呼吸器をつけて暮らしている人にとっては、
それが日常でふつうなように。
「障害」があることが特別な生き方を作るのではない。
「特別な教育」に「特別な生活」がついてくるのだ。

「ガン末期を特別な状況と思わないで。」
20年以上前に読んだ千葉敦子さんの著書にあった言葉だ。
ガン末期を特別だと思って、誰も訪ねて来ず、電話もくれない。
だったら特別と思わず、いつもどおりに声をかけてくれたり、
私を買い物に連れていってくれたり、
喫茶店でコーヒーを飲みながら生きることとか
死ぬことについて話したりする方がいい、とあった。
当時は実感として分からなかった言葉の意味が、
ようやく分かるようになった。
何より、障害を持つ子どもが、特別な子どもではなく、
ただのふつうの子どもだということが分かるようになって、
その言葉の意味もようやく実感できるようになった気がする。

だから、障害児の「障害」を見て特別と言うのではなく、
この子の「子ども」をみて、
ここにいるのは当たり前のことと感じてほしい。
「障害」に目がいくと、
「子ども」に心がいかなくなる。
「障害児」とは、
「障害」を生きているのではなく、
「子ども」を生きているのだ。
「子ども」を生きるということは、
「未熟」を生きることであり、
「未経験の世界」を手探りで生きることである。
そこはみんな同じ。

ただ、未経験の世界を手探りでいく、
その手を奪われていたりする。
その目を奪われていたりする。
その耳を、その足を、その言葉を、その知恵を奪われている状態で、
「子ども」を生きているのだ。
そこで支援を必要としているのは、
ただの「子ども」なのだ。


≪手探りでがんばっている子どもたち≫

毎年、新一年生の様子を聞いていると、
いわゆる「問題行動」と言われるものは、決して「問題行動」ではなく、
1年生という役割と、状況に合わせるための「適応準備行動」としか思えなくなる。
入学式での問題行動といえば、
初めての体育館に入ることに抵抗する。
泣く。
歩き回る。
大きな声をだす。
親のそばに走る。
壇上に上がる。
校長先生の話のじゃまをする。
マイクでしゃべる。
床に寝転がる…。
それは、「障害」のために、「わけのわからない行動」をするのではない。
事前の説明や準備が不親切すぎるのだ。
不親切な「式典」という、子どもにとっては訳の分からない儀式のなかで、
未経験であるだけのことだ。
そのなかでせいいっぱい、
分かろうと努力している姿にしか、私にはみえない。

通いなれた幼稚園や保育園に戻るのではなく、
その場でせいいっぱい、
一年生をしようとがんばっている姿、そのものではないか。
幼い子どもが、初めての場面、初めての大量の人間関係の中で、
ひとつひとつ手さぐりで自分のポジションを確認し、
身の安全を確保しようとするのは当たり前のことだ。
定型発達している子どもが、
自分の中で飲み込んでいる
「探索・手探り・疑問・不安・緊張」を、
「障害児」と呼ばれる子どもは、
実際に目に見える行動で確認しながら、
受け入れよう、適応しようとしているにすぎない。
そのことを、大人が「理解」できれば、それですむ話だ。

そういうことへの「理解遅れ」「勉強不足」を棚にあげ、
「障害児」はここにいるのは無理ですと、
生まれて6年しかたっていない子どもの未熟さのせいにするのは、
あまりに傲慢だ。
「しろうと」の親が手探りでわが子とつきあい、だいたいの予測がつくのだ。
だから、「普通学級で大丈夫か…」と心配するのだ。
「しろうと」の親が数年で予測のつく子どもの行動の、
その予測と対処、予後の見通しくらい、
子どもとつきあう専門家なら知っているべきだろうと思う。
それだけの情報はあふれている。
何より同級生たちは幼稚園でも、小学校でも、
それくらいすぐに対応できるようになるのだから。

初めての入学式の日から、一人で学び、
了解しなければいけないことが山のようにあるのだ。
その中で、手探りでがんばっている子どもたち。
例えば目の見えない子は、
最初からなんの説明も援助もなかったら、
一人で学校の地図を作るのは大変な作業だろう。
耳の聞こえない子に、手話も文字も使わず、
聞こえる子どもだけを相手に説明するペースで進めたら、大変だろう。

では、知的障害の子どもには? 
自閉の子どもには? 
そう、わたしたちはいわゆる知的補助具のあり方を未だ知らない。
だから、子どもたちは自分ひとりのやり方をそれぞれで見つけ出しているのだ。
適応する術を編み出しているのだ。
一人一人が自分だけの「点字」、
自分だけの「手話」をつくり、
「社会」を自分に翻訳しているのだ。
それはすごいことだと思う。


≪こだわりの溶ける時間≫

やっちゃんは1年生の運動会には参加できなかった。
ピストルの音が恐くて教室から出られなかった。
そして2,3,4年生も、応援席に座れるようにはなったが、競技には参加できなかった。

ところが今年の運動会、やっちゃんは全ての種目に参加した。
学年全員に交じってソーラン節を踊り、二人三脚を走った。
学校の運動会のやり方が変わったわけではない。
やっちゃんにとって、
運動会には5年間という待ち時間が必要だったのだ。
1学期の林間学園も、母親は
「行きたくないと言ったら、どうしよう」と不安になっていたが、
やっちゃんは林間の前日の夜、
生まれて初めて「目覚し時計をセットして」と母親に頼んだ。
2日後には、お土産を沢山買って、重い荷物を2つ肩から下げて
「お母さん、リンカン楽しかったー!」と帰ってきた。

また、運動会の後、
9月いっぱいで転校してしまう友達のことを聞いたやっちゃんは、
「モエちゃん、引越し、9月28日? 9月28日? 9月28日?」と
連日、同じ言葉を繰り返した。
そして9月28日。
「今日、モエちゃん引越しだね。さびしいねー」
とつぶやいた。

そうしたなじみの仲間との5年間という生活が、
たとえば「初めて運動会に全種目参加できた」という形として、
私たちの目に見えることがある。
なじみの関係こそが、こだわりの溶ける時間の一番の要因なのだろう。
なじみの仲間がすることだから、興味を持つ。
なじみの仲間のすることだから、苦手なことも我慢できる。
なじみの仲間のすることだから、繰り返しのなかで身につくことがある。
それは結果として「できる」ことが増えることでもある。

しかし、子どもの中で一番豊かに熟している能力は、
個人のものであるよりは、
なじみの仲間集団が育てあげる民主的な雰囲気そのものから生じた大切な何かだ。
それは、子どものできなさに焦点をあて、
仲間から一人抜き出して教育しても育たない能力だ。


≪遅れを招く環境≫

特別支援教育では、個のニーズに合わせて
「個別の教育支援計画」を作るのだという。
個のニーズと言うからには、
子どもが望む時間と場所で、
子どもが望む人に同席してもらって、
子どもの思いを聞きながら作るのが
個別の支援計画でなければならないと思うのだけれど、実際は違う。

子どもの思いやなじみの関係とは別に、
個人の能力だけに焦点をあて、別個に抜き出して教育しようとする。
「個のニーズ」という言葉で、
結局は一人ひとりの「個別事情」が大事にされなくなるのだ。

オーケ・ヨハンソンさんは、
子どものころから32年間施設に入所させられた後、
入所施設の弊害を世界中に伝え歩いた。
オーケさんはいう。
「人は誰でも、自分の人生について、同意をしたり、
意見を述べたりする権利を持っている。
知的障害だからという区別はない。
どのズボンをはくかとか、
サンドイッチに何をはさむかということについてさえも、
自分で決めることを奪われている知的障害者が成長できるわけがない。」
(『さようなら施設』オーケ・ヨハンソン ぶどう社)

人間がそれぞれの個別事情を剥奪され、
「する人」と「される人」に役割が分離されていくことを、
社会学では「施設」(インスティテューション)と呼ぶのだという。
特別支援教育とは、まさに普通教育のなかで、
障害児の全人生を「施設化」するための方便として使われていく。
そしてまた、子どもの一部である「障害」だけに焦点をあてることで、
周囲の偏見を招き、期待の低さを招くことにつながる。
それは「遅れを招く環境」という。
私たちは、それとは別の道を行く。


≪親を「差別者」にする条例≫

 最後に千葉県だけの特別な事情を書いておきたい。
普通学級にいることを阻むものは、
通級や取り出し等の「特別支援教育」だけではない。
もうひとつ大変な問題がある。
それが、日本で初という「障害者差別禁止条例」だ。
この条例の『第2条第2項第5号イ』について、解釈指針に次のような説明がある。

第5号イは、障害のある幼児児童生徒に関わる関係者が
≪障害のある幼児児童生徒に「特別支援教育」を受ける機会を与えないことを
「不利益取扱い」(差別)として定義したもの≫であり、
関係者というのは
≪保護者や教育、医療、保健、福祉等の関係機関≫である。

つまり、普通学級にいる障害児が、
通級、取り出しなどの特別支援教育を断わった場合、
「親が差別者になる」というのだ。

 やっちゃんの母親は、そのことを直接、県の障害福祉課に尋ねてみた。
一ヶ月ほど待たされた後、担当者から電話があり、
「通級、取り出しを拒んだら、
親も不利益取扱者(差別者)になる場合もある」と言われた。
担当者は自分が何を言っているか、その意味が分かっているのだろうか。

やっちゃんは、就学前に児童相談所の一時保護所に預けられたことがある。
やっちゃんと母親の二人で、幼稚園から裸足で帰ってきたこともある。
学校に入った後も、やっちゃんが荒れた時期には、
家では育てられないのかと真剣に悩んだ時期がある。
それでも、地域の学校で、
クラスの仲間の中で笑顔でいるやっちゃんのためにがんばってきた。
その上での、5年生になって初めての運動会の参加であり、
初めて踊ったソーラン節があるのだ。
特殊学級への勧めや取り出しを断ること。
分けないでみんなと一緒にいたいといい続けたことで、
やっちゃんの今のふつうの生活があるのだ。

その母親に向かって、
「子どもを分けることを拒んだら、あなたは差別者です」と言っているのだ。
これ以上の差別があるだろうか。
普通学級に通わせている親たちが、どんな思いでがんばってきたか。
どんな差別のなかで、障害のある子どもを普通学級に通わせてきたか。
その差別と悲しみをなくすための条例ではなかったのか。


≪希望は子どもたちの関係の中に≫

国が「特別支援教育」を始める。
県が「障害者差別禁止条例」を作る。
そして、現場の教師が言う。
「子どもに特別支援教育を受けさせないと、お母さんが差別者になりますよ」

 そう言われて、通級や取り出しを断われる親がどれだけいるだろうか。
これが、障害のある子どもが普通学級に堂々といることを切り捨てて成立した
「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」のひとつの姿だ。

1979年の養護学校義務化の時も、
普通学級を希望する親子は大変な苦労をさせられた。
しかし、その時でさえ、親が差別者だと言われる法律はなかった。
普通学級以外の障害児・者は、差別禁止条例でこのような扱いはされない。
普通学級にいる障害児だけが、切り捨てられた。
障害児は普通学級にいるべきではないという学校の意識は変わっていない。
それは、法や条例の趣旨が現場に届かないのではない。
もともと、現場を変える志がなかったのだ。
教室の隅で一人で泣いている子どもを守ろうという志を、
途中で捨てたのだ。

私たちは、「特別支援教育」もいらないし、
「特別支援教育を受けさせない親は差別者」だという
偽物の差別禁止条例もいらない。
ただ、普通教育の中で、普通の支援があればいい。
希望は、目の前の子どもたちの「なじみの関係」の中に確かにある。
だから、私たちはどこまでも、子どもたちの関係を信じ、
人と人とのつながりの中に居続ける。
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