ワニなつノート

hideの講演会報告 (その7)

hideの講演会報告 (その7)

《本人の意思》

「hideが本当にそう言ったのか?」
「本当に言葉でそう言ったのか?」

言葉がない障害者に対してのその問いは、どういう問いか。
言葉がない子だと知っていて、そう問うこと。
それがどういう意味なのか、「知的健常者」である、その人にどう伝えたらいいのか。

「0点でも高校へ」という言葉は、「昔」からほとんど受け止めてもらえない言葉でした。中学や高校の先生はもちろん、障害者運動をしている人たちにも共感されにくい言葉のようです。何より「障害」の当事者からも、共感されないことが多いのです。脳性マヒなどの身体障害の人にも、盲・ろうの人にも、いわゆる中途障害の車いすの人たちからも。義務教育は、「共に」が普通に受けとめられることが多いのに比べ、高校は不思議なほど不評です。「どうして高校にこだわるんだ」「義務教育じゃないのに」と、教育委員会と同じという言葉を、障害者運動をしている当事者から聞くのはずっと不思議な感じでした。若い頃の私は、へー、だめじゃん、と思ったものです。障害の「差別」に苦しむ人たちでも、違う障害、とくに「知的障害」の理解は別なんだ、と思いました。差別は健常者と変わんないんだ~と思った記憶があります。その感覚を、久しぶりに思い出しました。

「0点でも高校へ行きたいと、本当に本人がそう言ったのか?」
「本当に言葉でそう言ったのか?」

その問いが、何を言っているのか、分かってるんだろうか? hideに「本人の意思」を問うこと、確認すること。それが、「ことば」でどうかと問われること。そのことに、まず、何よりの違和感があります。だって、「ことば」を話さないのが「障害」なのを知っているんでしょ?

もしも本当にhideの意志を、気持ちを、「知りたい」「確かめたい」と思って「問う」のであれば、問い方は違うはずです。
「言葉を話さないhideの気持ちが、どうしてわかったのですか?」
「言葉を話さないhideが、小中高とみんなと一緒に普通学級のなかで過ごしてきて、よかったという本人の気持ちを、親や周りの人たちは、言葉以外でどうして確かめることができたのですか?」
そんなふうな問い方になるはずなのです。

「本当に本人がそう言ったのか?」とは、やはり、「本人の気持ち」が分かりたいのではなく、「本人がそんなことをいうはずがない」という「疑い」の表現でしかありません。

まあ、どちらにしても、私の答えは同じですが(o|o)
「その答えを、本当に知りたいと思うなら、《言葉》で聞いても無駄だよ」
言葉のない子どもや人の、本人の意思を大事にしながら、ともに生きることが、どういうことか。
それを言葉で聞いてどうするの。
言葉でわかろうなんて思うことが、間違い。
だって言葉じゃないんだから。

「じゃあ、どうしたら?」
「本当に知りたかったら、私がいま自信をもっているのと、同じだけの年月をかけてhideの子ども時代をつきあえばいい。《過去》に戻れなくても、これから先でも、たぶん、だいじょうぶ。hideの気持ちを感じられるようになれば、いいのだから」

「それとも、いま6歳の子どもと出会えばいい。言葉を話さないとか、知的障害といわれる子どもと出会って、つきあってみたらいい。そしたら、5年後、10年後、「言葉を話さない」その子が、みんなと一緒に高校に生きたいのだということが、必ず分かるから」

だって、私は、23歳のときに、4歳の知ちゃんに出会って、高校生までを見てきたのだから。30歳のときに、6歳のhideと出会って、高校生までを見てきたのだから。40歳のときに、5歳のまなちゃんに出会って、高校生までを知っているのだから。

そんなふうに、私が出会ってきた子どもたちは、みんな同じように、友だちが好きで、学校が好きだったから。不登校になる一時期があっても、友だちが好きで、本当はみんなのいる学校が好きは変わらない。そうして私は今まで千葉で100人の子どもと出会ってきました。もし10年後も生きていれば、いま幼稚園の子どもが中3になり、「高校生」になっていく100人以上の姿を見れるだろうと思います。

まだ生まれる前の子どもの気持ちさえ、私には確かなことに思えます。子どもは誰も、分けられたいと思うはずがないのだから。
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