ワニなつノート

トラウマとフルインクル(その94)

トラウマとフルインクル(その94)


《同調・・・・共に生活すること》




「ふつう学級」で共に過ごす年月が流れる、ことの意味。

それが見えやすいのは…。
たとえば、「目立つ子」がふつう学級に入った場合の「あるある」話。


「目立つわが子」を入学させて数年後に、親たちがつぶやく共通の言葉。

「目立つ子」とは、「落ち着きがない」とか「多動」とか、「立ち歩く」「逃げ出す」「じっとしてない」と言われるような子のこと。


親がまず「恥ずかしい」思いをするのは「入学式」というのが定番だ。
泣く、叫ぶ、走る、それから、校長先生からマイクを奪う、というのもある。

そこから、授業中に立ち歩く、教室から飛びだす、という話を聞かされる。

次に、(昔は)「親がつきそってください」と言われたのが、初めての遠足やプールの授業だ。

そうして、「目立つ」のがわが子だという感覚が親の中にも染み込んでいく。

極めつけは、運動会だ。
全校生徒、全校生徒の親たちが見ている、ど真ん中で、目立ってくれるわが子。

明石家さんまが、高校の体育祭で、「よーいドン」で逆方向に走り出し、全校生徒の爆笑をとった、と話すのを聞いたことがある。

「目立つわが子」たちには、それがいつものことだと親は思う。

徒競走でまっすぐ走らないのは当たり前。
先生や上級生に手をひかれてゴールとか、次の組の子どもたちに追い抜かされてゴールとか。
小さな一年生たちの動きがそろったダンスの中で、ひとり違う動きで目立ちまくるわが子。

親としては、そんなわが子の姿に慣れるしかない。

もちろん、恥ずかしさだけじゃなく、幼稚園や保育園から一緒だった親たちから、わが子の成長を認めてくれることばを聞くこともある。



そんななかで、2年生、3年生、4年生、と、「目だつわが子」という認識は定着する。

「目立つわが子」とは、運動会や合唱祭に行けば、探さなくても「すぐに見つけられる」ことを意味する。


ところが、5年、6年になると不思議なことが起こる。

「見つからない」のだ(>_<)


目立つわが子、が見つからない。

急に障害が治った、ということはない。落ち着きが出てきた、とは思ったことがない。

実際、日ごろの生活や行動が特別変わった訳でもない。

それなのに、運動会のグランドでダンスをおどる「わが子」が見つからなくなるのだ。


       ◇

「身体はトラウマを記憶する」という本を読んでいて、気づいた。

「ああ、これが、同調、っていうことなんだ。」


徒競走の「走り」が、人並みに「早く」なったのではない。

ダンスの「動き」が、人並みに「上手く」なったのではない。

そうではなく、走りは相変わらず「遅い」まま、踊りは相変わらず「下手」なまま、

それ以外の「たたずまい」「そこにいること」「みんなといっしょにいること」だけは、ちゃんと「同調」している。

そんな感じなのだ。


この感じは、その時、その場、だけを見ていても絶対に分からない。

運動会という一年に一回しかない体験を、5年6年かけて、見続けていた「親」にしかみえない。


いや、同級生たちにも見えている。

そして、同級生の親たちのなかにも、そのことが見えている親がいる。

そのことのすべてが、「同調」を表す。


「障害児の同調」ではない、障害のある子と、その子の親と、同級生と、全校生徒と、その親たちと、先生たちと、5年6年かけての「同調」が、そこにある、ということ。

そのことの意味、そのことの大切さ、を、手軽に表せる言葉を、私たちはまだ持てていない。

そのことの意味、そのことの大切さは、中学校、高校、そして、社会に出てから、つまり、その子の一生の同調に、かかわることなのだ。


       ◇



《同調について》   「身体はトラウマを記録する」から


「愛着の絆を結んだ人との親密なやりとりから、他者にも自分と似たような感情と思考や、自分のものとは異なる感情と思考があることを子供は学ぶ。
つまり、子供たちは環境や周囲の人々と「同調」し、自己認識や共感、衝動の制御、自発性を発達させ、そのおかげで、より広範な社会的文化の有用な成員になれる。」


「安定した愛着を持っている子供たちはたいてい、お互いにとって好ましい遊び相手となり、仲間内で自己肯定的な経験をたっぷり重ねる。
他者と同調することが身についているので、声や表情の微妙な変化に気づき、それに応じて自分の行動を調節する傾向にある。
彼らは周りの世界についての共通の理解の範囲内で生きることを学び、コミュニティの貴重な成員となる可能性が高い。」


「同調するとは、音や声、動きを通して共鳴し、結びつくことで、そうした音や声、動きは、料理をしたり掃除をしたり、床に就いたり目覚めたりといった、日常の感覚のリズムに埋め込まれている。
おかしな顔をして見せ合ったり、ハグをしたり、適切な瞬間に喜びや非難を表したり、ボールを投げ合ったり、一緒に歌ったりすることも、同調と言える。」


「これまで私の患者たちも、合唱や社交ダンスから、バスケットボールチームやジャズバンド、室内楽グループへの参加まで、同調するための多様な方法について語ってくれた。
そのどれもが、同調の感覚と共同参加の喜びを育んでくれる。」

以上。


この本に書かれているのは、障害児の話ではない。
学校や教育の話ではない。

虐待や事件や事故に巻き込まれて、ふつうの日常生活がままならない人たちの治療について書かれている。

そこで重要なのが、「同調」「同調を取り戻すこと」であるという。


そうであるなら、どの子にとっても、「子ども時代の同調の機会」を、永遠に奪うことに、もっと慎重でなければいけないはずだとおもう。

「分ける」こと、「個別」にしてしまうことの危うさに、私たちはもっと慎重にならなければいけない。
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