ワニなつノート

普通学級の介助の専門性を考える(1)




≪「介助」を通して、私は何をしてきたのか≫

「介助」という言葉を辞書で引くと、
『老人や病人の身の回りの世話をすること。手助けすること。』
とある。
老人や病人の「できない」ことを、
「できる」人が代わりにやってあげることが
介助ということらしい。

たとえば「食事介助」なら、
一人で食べられない人の食事を助ける、ということになる。
それが病室で二人だけなら、まあそんなものかなと思う。

でも、私が考えたいのは、「普通学級の中の介助」だ。
もちろん、教室でも食事介助という行為そのものは
同じかもしれない。

ただ、私が考えたいのは、その先の意味だ。
普通学級のなかで、自分では食べられない子どもや、
言葉を話さない子どもの「介助」をすることで、
私は何をしてきたのか…。

「できないから『介助』ではない」、
以前、私はそんなふうに書いたことがある。
リサが「できない」から、
「できる」ようにするために「介助」に入るのではなかった。
直史が周りに「迷惑」をかけるから、
それを防ぐために「介助」に入るのではなかった。
康治が「できない」ことを、
代わりに「してあげる」ために入るのでもなかった。

「できない」ことがあっても、
その「できない」ままの姿で堂々とそこにいて欲しいから、
私は介助に入ってきた。

この子が障害のために「階段を上がれない」とき、
2階に車椅子と子どもを運びながら、
私は何をしてきたのか。

階段の上の友だちのいる所に行きたい気持ちを、
「誰でもそう思うよね」とその子に伝え、
まわりの子どもたちにも、
「あたりまえのことだよね」と伝えること。

子どもが、自分には障害があるから仕方ないと
あきらめてしまわないように。
そんなふうに、この子が「できない」こと以上の寂しさを
感じないように。
そんなことを思っていた。

障害のせいで「できないこと」と「できること」の間に入り、
私は何をしてきたのか。

ようやく分かってきたことは、
この子の「私」が、
みんなとの「私たち」から零れ落ちないように、
ということだった。

一人の子どもの「私の毎日」が、
いつしか「私たちの毎日」に変わっていく日々を、
私は子どもたちのそばで見せてもらってきた。

入学するときには、
「私の学校」「私の先生」から始まる生活が、
いつしか「私たちの学校」「私たちのクラス」という
実感に変わっていく日々。

遠足・運動会・合唱祭という行事が、「私の楽しみ」から、
「私たちの楽しみ」になっていく時間を見せてもらってきた。

例えばピストルの音が恐くて
1年生の運動会に参加できなかった子が、何年か後には、
みんなのなかのどこにいるのか見つけられなくなるほど
溶け込んでいく姿を見せてもらってきた。

そんなふうに一人一人の子どもの「私の学校生活」が、
「私たちの学校生活」と感じられるように、
そのためのつなぎになりたいと思った。

例えば、車椅子を押すことが「つなぐこと」だった。
たとえば、遠くに逃げ出した子の手を引いて、
みんなのそばに連れてくることが「つなぐこと」だった。
時には、みんなから離れてぽつんとしている子どもの
名前を遠くから呼びながら、私が動かないことで、
見かねた子どもたちに走っていってもらうことが
「つなぐこと」だった。

いつも「いない」のが当たり前になることで、
クラスの「私たち」からこの子一人がこぼれ落ちないようにと
願いつつ、同時に私がしてきたのは
「この子の私」と「この子の私たち」をつなぐことだった。

そのためには担任や周りの子どもに気を遣う、
「監視」のような「介助」ではだめなのだ。

本人の気持ちを聞かず、
介助者が代わりに「やってあげる」ではだめなのだ。

分かりきったことでも、
本人の気持ちを確かめながらやるのでなければいけない。

子どもの絵や習字の作品も、
介助者の作品になってしまってはいけない。

時には、周りとの「トラブル」を
未然に防いでしまってはいけない場面もある。
周りに迷惑をかけることも、
周りの人たちを巻き込むことも介助の仕事だった。
なぜなら、≪人間と人間を媒介する助け≫が「介助」なのだから。

周りの人が、関わりたくないことを遠ざけてしまわないように。
援助が必要なこの子の生活も含めて、
「私たちの学校生活」だと了解されるように願った。

なによりこの子が、
≪私を生きる≫ことが、
≪私たちを生きる≫ことでもありますようにと願いながら
私はそこにいた。

偶然、同じ教室で出会った同じ年の子どもたちと、
毎日顔を合わせ、話したり、遊んだり、
毎日、見たり、聞いたりしながら、
日々を積み重ねていくこと。
一つ一つの授業と言う生活を積み重ねていくこと。
「この子には障害がある」と言葉で理解してもらうのではなく、
あたりまえの日常の積み重ねをさりげなくつなぐために、
間にいたのだった。

小学校2年生になる直前に亡くなった佳ちゃんのお母さんから、
一年生の授業の様子を聞いたことがある。
佳ちゃんは心臓病もあり、
目も見えないし耳も聞こえないかのように言われる
重い障害があった。

その佳ちゃんの隣に座った子どもは、
授業中、佳ちゃんと手をついないで授業を受けていたという。

それは誰が始めるともなく始まり、
隣に座る子どもが変わっても手をつないで
授業を受ける姿は変わらなかった。

今なら、それは「わたしが授業を受ける」ことが、
「佳ちゃんといっしょに授業を受けること」であり、
「私たちが授業を受ける」ことになっていたのだと分かる。

大人の介助者にはどうしたってかなわない世界がそこにある。
やはり子どもたちが自然につながる関係をじゃましないで、
よけいなことをしないのが理想の介助なのだろう。

その時、そこに、偶然居合わせた子どもたちにとってだけの
宝物のような日々があり、
それは、「障害の理解」などという世界とは別の世界の話なのだ。

一度も春をみたことのない人に、
花や夢や命の咲きあふれる春を伝えることはできないのだから。


     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

わたしはみんなといっしょにいるいっしゅん、いっしゅんを、
こころからたのしんでいるのだから、
たとえ、ひらがながよめないとしても、
それがどれくらいじゅうようだっていうんだろう?

わたしはきのうのじゅぎょうでならったかんじも、
ひきざんもおぼえてないけど、
それでも、ここにいてもいいですか。
ここでみんなといっしょに、きょうしつにいていいですか。

みんなといっしょに、わたしにもべんきょうをおしえてほしい。
あしたにはおぼえていないかもしれないけど、
きょうはいっしょにべんきょうしたいから。

みんなとおなじに、わたしをみつめてくれるまなざし。
なまえをよんでくれるこえ。
はなしかけてくれるこえ。
わたしにむけられるしたしみのきもちが、
わたしにはとてもたいせつなものだから。

わたしは、ひらがなもよめなくて、
たしざんもひきざんもわからないけど、
ここではみんなからきらわれたり、
せんせいにじゃまにされたりしなくていいんだって。
そうおもえるだけで、わたしはあんしんしてここにいられる。

わたしがわたしをたいせつにおもうためにひつようなのは、
わたしがこころからそうかんじること。

わたしのかんじょうは、
わたししかかんじることができないから。
わたしがわたしをたいせつにおもえますように。

わたしがせんせいのいうことをおぼえられなかったり、
なんどもおなじしつもんをくりかえしたりしても、
おこらないでほしい。

せんせいのいうとおりにできなかったとしても、
みんなといっしょにいるのはむりといわないでほしい。

せんせいのいったことをわすれてしまったとしても、
わたしはそんなにひどいことをしているのだろうか。

わたしはみんなといっしょにここにいることが
ほんとうにうれしいし、
ここにいるいまをじぶんいっぱいにたのしんでいる。

だから、そのことをぜんぶおぼえていないとしても、
わたしにうれしいきもちがなかったことにしないでほしい。

たとえ、わたしがたのしいおもいでをわすれてしまったとしても、
かけがえのないたいせつなじかんではなかった、
ということにはならないのだから。
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